敬老パス制度改悪①

度しがたきは高槻市議会(下記七人の議員を除く)。
彼らは市バスの敬老パス制度改悪案をすんなり通してしまった。制度改悪の真のねらいも見ず、ろくすっぽ議論もせず批判から逃げ、反対の署名をした3万人の声も聞かずに。まさに見ざる言わざる聞かざる、だ。議員本来の在り方を示したのは川口・北岡・強田・高木・出町・中村(玲)・宮本議員だけ(五十音順・敬称略)。
無批判のまま案を通す…、これが市政をチェックすべき議会としての正しい行動か。地方自治の二元制の意義を、多くの議員の行動によって示して欲しいと願うのは無理か。
ものごとには真の姿と衣を着た外形とがある。魔物の着る美しい衣は、しばしば人をあざむく。衣の中の真実を見抜く眼力を議員に求めるのは無理なのか。
敬老パスの制度は改めるべきとするなら、反対論を論破する意見をなぜ述べないのか。無言の数の圧力ではなくまっとうな議論を聞きたいと願うのは、この議会には過度の期待なのか。
3万人の署名の重さを感じるなら、その声が聞こえるのなら、原案をそのまま通すのではなく原案の主旨を活かしながら市民への衝撃を和らげる第三の道をさぐることもできたのではないか。自ら条例案を作成するのは法律の専門家でなくてもできるのに。スタッフがいない訳でもないし。「小さな声を聞く」政党はどこへ行ったのか。
翻って、市議は市民の代表であり、そもそもの問題は市民の意識水準にあるのであって、嘆ずべきは大多数の無自覚の市民…ともいえる。ではあるが、市税から年に一千万円を越えるカネを与えられる議員なのだ。その金額に見合う資質を備え市民をリードする論理を示すべきは当然だろう。その業務を行ったことに対する報酬なのだ。議席に座っているだけで報酬を受け取るのは背任である。泥棒に等しい。
人は往々にして見たくないものからは目を背ける。自分の心の安定のためだ。この議会も実は見たくないものの一種だ。しかし、私たちは凝視し続けよう。非を挙げ続けよう。そうしなければならない。黄鶴ひとたび去りてまた返らず、とはいかないのだ。どのように非を挙げるか。とりあえず敬老パス制度改悪に対し、このようにウォッチングしているということを以下に示そう。(続く)