結集だけでは足りぬ

5月16日「結集だけでは足りぬ」
今の政府は何を目指しているのだろうか。自分を犠牲にして国民を幸せに導くことだろうか。それとも自己顕示欲を満足させ身の栄達をはかることだろうか。
今の政府は何を目的に行動しているのだろうか。国民の政治意識を育て民族的文化水準を高めることだろうか。それとも国民をして政治に絶望させ選挙の際の自暴自棄的な棄権を促し、比較第一党を占めて、保身・利益誘導・外国への献身(この場合「身」は我が身ではなく「国民」)的軍事行動、何でも好き勝手にやることだろうか。
美辞麗句だけで行動を伴わない政治的発言、証人としても参考人としても都合の悪い人間は国会に呼ばない与党の卑怯さあるいは不公正さ、すぐにばれる嘘、野党の質問者をせせら笑うような与党幹部の答弁…。誠実から成る清楚な花は国会の場での政府与党のどこにもない。野党の一部にも「排除」発言以来凋落の一途をたどり予想どおり空中分解した、国民の意識からは離れた傲慢なグループがあったが、だからと言って与党の質の低さが許せるものではない。政府を誇ることのできない国民は実に不幸だ。
5月時点のNHK世論調査の結果を見ると、自民・公明の支持率合計は39.4%であり、これにたいする野党支持率の合計は12.3%。なんと、与党の三分の一にも及ばない。しかし、支持政党なしの集団が40.4%もある。野党のだらしなさに国民があきれ果てている姿が見えるが、それはともかく、この数字から誰しもが考えるのが支持政党なしの集団の取り込みだ。安倍政治にはノーだが野党も支持できない、国民の4割がそう感じているのだから、その4割の人が願い求める政策を掲げ、彼らの思いを遂げることが今日本に最も求められていることなのだ。言葉を換えれば、それが野党にとって政権奪取の近道でもある。野党結集だけではダメで、そこで4割の人に対して何を訴えるかが一つの鍵なのだ。
ただ、そのとき口をそろえて何か言うだけでは不十分だ。4割の人が野党を支持しない理由のひとつは、政策的に人的に、そして実績上も頼りがいがないからだ。政策を訴えるに際して野党にはこれだけの優秀な実務能力の高い多数の政治家がいるということを示せ。実績は…、民主党政権時代の実績は何かなかったか。手を付けたが道半ばのものはなかったか。
与党に反対するだけではなく、能力の高い政治家がそれぞれに、消費税の時限的凍結・産業政策・その他もろもろの政策を示し、過去の実績を見せ、野党も政権担当能力を有することを示すべきだ。(黄鶴)

市会議員のネット利用

5月15日「市会議員のネット利用」
メンバーに入れ替わりがあっても、いろいろ勉強して熱心に質問する議員はインターネットを駆使して市民への語りかけをすることにも熱心だ…、この傾向に変わりはなかった。下の図は、議員ごとの2017年中における質疑・質問数を横軸に示した棒グラフである。2018年4月中にネット利用が一回でもあった議員は赤色で、過去にネット利用歴のある議員は黄色で塗りつぶした。木本祐議員は芥川町の民家の壁にURLを表示した看板を掲げているが、このURLを入力しても「このサイトにアクセスできませんwww.yu.kimoto.jpのサーバーのIPアドレスが見つかりませんでした。」と応答があるのみで、この状況は2017年8月19日以降2018年5月15日まで続いているので、ネット利用なしに分類した。(黄鶴)

政治が遠い

5月08日「政治が遠い」
仏教に四攝法というのがある。勝鬘経十大受の第七に出てくる。経典の中に漢字で書いてあるので「よんせつほう」と読もうが「ししょうほう」と読もうが自由だと思うけれども、後者の呼び方が一般的である。「攝」は、この場合「引き寄せる」の意味だ。ちなみに摂津の国という場合は、攝するは統べる、つまり港を統括するという意味になる。大宝令の職制のナニワの津を統括する摂津職は国司と同格であり、このためか摂津がいつの間にか国名になった。
話を元に戻す。四攝法とは、縁なき衆生を仏教に導くためのもので、布施攝、愛語攝、他行攝、同事攝をいう。仏教の深淵な思想を人に語りかけても、そもそも宗教心のない人や難しいことを理解できない人に対しては全く無意味で、受け入れてもらえるはずがない。そこで、有形無形のものを与えること(布施)、優しい言葉をかけること(愛語)、人のために何かを実行すること(他行)、宗教心のない人と共に住み徐々に感化していくこと(同事)、この四種の方法を通じて彼らに仏の道に入ってもらうことを、釈尊在世の時代から実施してきた。ここで大事なことは、四攝法を自分のために行うのではなくて、その人のために行うことだ。自分のためという思いが一片でもあったら、それは直ちに相手にも伝わり、すべての行いの仮面が剥がれる。
政治にも同じことが言えないか。憲法の理念や行政法の法理を掲げ、政権の非を声高に主張しても、そもそも法律論のわからない人や目の前の生活に追われ政治に関心を向ける余裕のない人には聴いてもらえない。街頭演説も、その意の通じる一部の人にしか効果はない。
ではどうするか。政治と政治家を身近に置いてもらうために、四攝法と同じく、まず、布施…。新しい政治には、例えば消費税を10%にしたら実生活においてこのような利得があると示し、実際にそれを国民に与えて、若者(だけに限らず)に将来の夢と希望を持たせることだ。次に愛語…。政治家は、優しい、易しい言葉で国民を包み込め。今の政治家のうち誰が、本当に国民を愛し、国民に救いの言葉を投げかけているか。ほとんどが自己愛と自己弁護ばかりではないか。さらに他行。政活費のすべてと議員報酬の大部分を返上し、自分を犠牲にして国民に尽くす姿勢を示せ。最後に同事。議員宿舎を出てドブ臭い低家賃アパートに住め。政治家は貴族ではない。国民の生活臭の中に居て、呻吟する声を聴け。そうやって理解者支援者を増やすのだ。そしてこれらの行いの通奏低音として最も大事なことは、己のためという保身・虚栄・栄達心を捨て去ることだ。自分のための政治ではない。国民のためなのだから。最後に目を閉じるとき、栄華栄耀の我が身に満足するよりも、多くの国民を救ったことへの満足感の方が遙かに大きいはずだ。(黄鶴)

官道廃れて

5月07日「官道廃れて」
高槻市しろあと歴史館の企画展(*)は、いつもおもしろい。展示品や古文書からご先祖様の生活が活き活きと眼前にひらけてくる。そういう資料を選んであるのだ。
現在展示中の文書は、たとえば次のようなものだ。長いが全文を掲げる。
「神原村杉生村両村、山林の儀は矢田宮山続きにて御城下近くの地にござ候ところ、年々松茸生え立ての時分にあいなり候えば、みだりに入り込み、盗み取り、甚だ難渋つかまつり候につき、山番並びに持ち主よりいろいろと世話つかまつり候えども、なにぶん御家中様方、お入り込み遊ばされ候につき、両村の儀は山中の儀にて 年々松茸ご上納にあい立て候趣意申し上げ、だんだんお断り申しおり候えども、お聞き取りもござ無く押してお入り込み遊ばされ候につき山林も荒れ難渋つかまつり候間、事やむをえず、右の段お願い申し上げたてまつり候。尤もこのままに差し置き候いては、ご上納の差し支えもきっと相成り候間、みだりに入り込み相成らずよう、恐れながらご政道遊ばされ下されるよう願い上げたてまつり候。この段ご許容下されれば有り難き幸せに存じたてまつり候」
要するに、亀山藩の役人が農民の管理する松茸山で泥棒をして、注意してもそれを無視して入り込みなさる、こりゃ困ったもんだ、なんとかしてくれ…という上申なのだ。それが堅い文書による申し入れではなく、日本人らしくソフトに口頭で担当役人へ願い出た、その控えのメモなのだ。身分の違いから、「侵入」を「入り込み遊ばされ」と丁寧に言うところや、このままでは藩への松茸上納にも差し支えるとすごんでいるのも、身分の上下を逆転させるような農民の実力のほどが窺え、興味深い。
かってに想像してみる。この申し入れはその後どうなっただろうか。願いが聞き入れられて綱紀が粛正され藩の役人による強奪がなくなったのであれば、文書も用済みで廃棄された可能性が高い。口上控えが残っているところを見ると、困った状況は変わらず、農民は後々も変わらぬ悔しさを感じ続けていたのではないか。まあ、庄屋たるもの、結果がどうあろうと仕事のすべてを記録に残した可能性もあるが、藩の武士が身分の低い農民の意見を素直に聴くほど広量大度であったとは思えない。
このようなかつての日本人のモラルの低さは、悲しいことながら、その後も絶えることなく続いているような気がする。戦前の中国大陸で、日本軍占領下のフィリピンで、当時の日本人が現地で何をしたか…。現代日本人の模範になるようなことばかりではなかったのだ(たとえば朝日選書269「日本人の占領」)。
そして現代においても、人々の政治に対する見識の程度を眺めるとき、民族レベルでの進歩発展というものの困難性に思い至るのだ。(黄鶴)
*「樫田 丹波の山村と仏像・信仰」5月13日まで

大道廃れて

5月02日「大道廃れて」
柳瀬元首相秘書官が加計学園関係者と官邸で会ったことを認めることにしたと、5月2日の新聞にあった。なんとまあ…、今になって…。嘆息しかない。
究極的にばれるようなウソは、言わない方が利口だと思うのだが、この方は表向き白を切り続けた。政権にとって都合の悪いことは隠すのが筋で、これまでの先輩もいろんな場面でそうしてきたから、彼も同じことをやったのだろう。まあ、政策立案上の役人のウソも昔はその政策によって生まれる大きな国民の福利の陰に隠れたから、そして官民そろって政治家や役人のウソを隠したから、ウソは問題にならなかったけれど、今は違う。ウソを隠す仲間がいない。政治の私物化のためのウソだから国民も許さない。
しかし、国会でしゃべるったって、記憶にないことを無理をして言うのは、それも「ウソ」にならないか?
そもそも…。森友学園のあの土地を大幅に値引きしたのは、誰が、誰の意を受けて、あるいは誰の指示を受けて、やったのか。加計学園の獣医学部新設は、誰が、誰の意を受けて、あるいは誰の指示を受けて、特別の計らいをしたのか。また自衛隊の日報は、(同じことを言うが)誰が、誰の意を受けて、あるいは誰の指示を受けて、あるものをないとしたのか。
全部真実を知りたいが、政府与党は積極的に語らない。関係した官僚も忘れたと言う。忘れたなんてウソに決まっている(と私は信じる)。加計学園関係者には会ったが愛媛県関係は記憶にないので、ウソを言ってはいないと与党幹部が言ったらしいが、これも意味不明の日本語だった。元首相秘書官など関係者は官界を代表する優秀な人なのだろうが、ウソを言わなければならない環境を作ったのは誰か。
それにしても、ああ(また嘆息)、行政の正義・公正さ・公平さ、正当な行政手続きはどこに消えたのか。真実を知りたいとの国民の願いに応えようとしない今の政府の不誠実さは、なんと表現すべきか。この期に及んで政府は、文書改ざんの再発防止策などを声高に訴えているのだが。
ここでふと、思い出した。大道廃れて仁義有り。老子道徳経の一節だ。老子の言う大道は無為自然の道で、今の日本で廃れている政道ではないが、本来あるべきものが失われたところに節義を振りかざす姿は同じだ。嘆かわしいのを通り過ぎて、もはや喜劇に近い。
老子道徳経はさらに続ける。「智恵出でて大偽有り、六親和せずして孝慈有り、国家昏乱して忠臣有り」と。智恵出でて大偽有り、つまり人智が発達して巨大な文明の所産がある一方で天地自然の道は人の手にまみれて失われてしまったのも現代日本そのものだ。そして、まさに国家が昏乱した今、忠臣の出現があるはずなのだが、サムライ教育を失った日本にそれが期待できるだろうか。(黄鶴)