次の選挙に向けて

3月18日「次の選挙に向けて」
あの人の言ったことは本当だった…。そんな思いとともに心に浮かぶ人に対しては、深い感謝と信頼、尊敬の念が湧いてくる。その人のために今後できることがあれば、何でもやろうと言う気にもなる。亡くなった人であれば、そこに哀惜の思いが加わる。
しかし、あの人やっぱり嘘をついていたんだなと後でわかったときの悲しさ情けなさ、伝えられた嘘を真実と信じたことへの悔しさは、ひととおりではない。以後その人に従おう、あるいは取り立てようとは決して思わない。
人と人の関係も国と人の関係も同じだろう。国会で国の仕事に携わる人が、議員の質問に対して答弁を行った、それが嘘だった…。こういう政府に私たちの生活のすべてを委ねなければならないのが、なんともやりきれない。嘘と知りつつ立場上その嘘をつかなければならない人も気の毒だが、嘘をつかせるその黒幕が誰か、十分わかっている。そうでなくても、いろいろと騙されている。もう勘弁してくれ。…これが世論調査からわかる多くの国民の思いだ。
ここまでは感情の世界だ。これを実際の政治に反映させなければならないのだが、しかし、その思いは政治勢力とならない。今の制度では比較第一党に自民が座る限り、嘘つき体制が持続する。大半の人が理解する建前としての体制ではなく、今ではもう救いがたい状態となった見え透いた虚構の体制が続く。
だから野党に望む。選挙を考えない今のうちから、非自民で大同団結してほしい。少数野党がバラバラのままでは、多くの国民の意見が野垂れ死にする。選挙となって慌てて非自民勢力を組み立てるのではなく、今から批判勢力を組み上げ、選挙になだれ込んでほしい。(黄鶴)

理不尽を許容するか

3月16日「理不尽を許容するか」
「麻生氏辞任や昭恵氏招致には応じられないのだから、佐川氏喚問しかない。世論向けの『節目』が必要だ」とは3月14日毎日新聞朝刊(大阪:13版)に載った「閣僚経験者」の言葉である。
この人にとって世論とは、政治の方向を決め細部を仕上げるための根本基準ではなく、自分の意思で動かす船の周囲に立ち騒ぐ大海の波のようなものらしい。波があろうとなかろうと自分の望む方向に船を進め、時に向かい波が大きければ波を静める術策を施せばよいと考えているらしい。元官僚の証人喚問は世論工作のための儀式であり、役人の一人や二人、波を静めるための人柱になるのはやむを得ないと言わんばかりだ。国民もなめられたものだ。餅を食ったらすべて忘れると言った、これも同類の国民軽視の言葉だった。まあ、実際そうなったのではあるが。しかし、防衛省の日報に文科省の「総理のご意向」そして財務省、あるいは集団安保に共謀罪と、ここまで重なってくると波では済まないのではないか。国民はいつまで体制支持を続けるだろうか。
「昭恵氏喚問は必要ない。書き換え問題とは関係ないのだから」という与党の話も耳にする。しかし、国民の知りたいのは、書き換えの経緯だけではなく、書き換えによって何を守ろうとしたのか、つまり森友問題の全容なのだ。そこに昭恵氏は関係ないと本当に言えるだろうか。
何があろうが安倍体制を守りたい政府中枢とそれに反対し疑惑解明を求める人々、それは世の中の非を許容しつつその中でうまく立ち回って己が利を得ようとする者たちと世の中の非の存在を許さずこれを正そうとする者たちのせめぎ合いだ。揺れ動く国民の心はどちらに流れるだろうか。(黄鶴)

知らなかった

3月15日「知らなかった」
政府首脳は財務省の文書書き換え問題に関し、麻生財務大臣をかばい続ける。「大臣は知らなかったのだ」と。
知らなかったら責任はないのか。愚見ながら、それはない。監督責任はある。それが世の中の常識だ。組織の長は結果の発生に対して責任を取るべきだ。組織として活動しているとき、不正な結果が発生しないよう、組織をまとめる者は常日頃から注意・指導しておくべきで、その適切な監督行為がなかったところに過失が認められる。過失に対しては責めを負わなければならない。
またこうも言える。文書書き換えによって誰に利得があったのか。財務省全体が利益を得たのだとしたら、担当局長だけではなく省全体が応分の責任を分担すべきだ、と。分かりやすく言えば、手抜き工事によって利益を増やした会社の社長が工事の責任を問われるのと同じだ。
ただ、責任の程度は書き換えの行為者や指示者と同等とはいかない。行為者が減給ならば監督者は戒告とかになるだろう。政府も大臣に責任なしと強弁するよりは、責任を認めた上で辞めさせるほどのものではないと言うべきだ。
ただ、本当に知らなかったのかと言う疑問も起こる。過去、憲法改正について(だったか?)「ヒトラーに学べばよい」と発言した人だ。国会答弁と矛盾しないよう文書の表現を換えておけ、なんて指示がもしあったのなら、財務大臣の辞任だけでは済まない。ないと信じたい。(黄鶴)

財務省はいつも正しい

3月14日「財務省はいつも正しい」
森友学園への土地売却に関し、財務省は会計検査院にも検察庁にも書き換え後の文書を提出していた。世間はこれを、世をあざむくもので非とするが、四方八方つじつまの合う最新の文書を手渡したのだ。新法は旧法を駆逐することに鑑みれば、正しいことなのだ。
そもそも、財務省は国家そのものである。司法立法行政の三権があり象徴としての天皇をいただくのが日本国家の姿と世間の人は思っているが、大違い。それは形として近代国家の必要十分条件を表面にそろえたに過ぎないものである。国民に錯覚を与えるために化けの皮として…、いや表現が悪い…、国としての形を整えるために表層に国会や大臣を置いているが、実質は財政・金融政策を考え実行する財務省が国家運営の主体である。国家百年の大計は財務省が考える。財務省は常に正しいのだ。他の人民はそれに黙って従っておればよい。与党政治家は国会運営上必要だからほどほどに利権を与え威張らせておくべし。必要なくなった議員は女性問題や脱税などの悪材料を暴露して落選させれば済むことだ。野党には大勢に影響のない些末な問題を与えて騒がせておけばよい。子供に玩具を与えるのと同じだ。
文書の書き換えと騒ぐが、政策の本筋は変わっていない。表現が換わるのは行政の形を整えるための当然のことで、小さいことなのだ。しかし、この騒ぎを静めることも必要だから、とりあえず誰か責任をとって辞職したことにしておこうか。辞職者に対しては、ほとぼりが冷めた頃に外郭団体の理事長や地方銀行の頭取などのポストを与えて損失補償すればいい。そのうち愚なる大衆はすべてを忘れる。
…なんてね、これが財務省の本音ではないことを祈る。(黄鶴)

右舷砲戦、左舷見張り

3月13日「右舷砲戦、左舷見張り」
旧海軍の古訓にこういうのがあった。
自艦の右舷に敵を見て、砲をそちらに向けて撃っているときは、誰もが右舷に気を取られる。そっちから敵の砲弾が飛んでくるのだから、無理もない。しかし、そういう場合こそ左舷にも注意を怠らないようにせよという教えだ。誰もが眼前の問題にのみ意識を集中していては、それ以外の大問題に気づかないまま、対応できずに自滅する。誰かが冷静に全体を見渡していなければならない。左舷に敵潜水艦の潜望鏡があるかもしれないのだ。
森友関連文書の書き換えで野党が沸き立っている。財務大臣、総理の責任も追及したいところだろう。確かに、何のための書き換えだったかを考えるとき、書き換えによって救われた人たちは何の責任も取らず、書き換えた事務方だけが責められるのはおかしい。ではあるが、国内問題だけに気を取られて国際問題をないがしろにするようでは政党としての総合力が疑われる。自民党に代わって政権を担う能力があるのなら、今こそ北朝鮮の演出やそれに翻弄される米中を眺めながら、日本として進むべき道を、いまの国際社会に向かって言うべきことを、示してほしい。テンポラリーな敵失を大声で批判するだけの政党では国民の幅広い支持は得られない。たとえば立憲民主党は、政策の百貨店であること、それが堅固な組織から産み出されていることを、ことあるごとに表に出してほしい。(黄鶴)

痛ましい

3月12日「痛ましい」
事案の関係者から自殺者が出ないことを望むと書いた3月8日の、その翌日、近畿財務局職員の自殺が報じられた。報道によると国有地売却を担当した部署の職員であり昨年秋から病気を理由に休んでいたとか。死亡は7日のことで、私がブログを書いた時点ではすでに亡くなっていたのだ。何とも痛ましい。
報道では国有地売却との関連は不明とあったが、そりゃそうだ。事実が明らかにされていないので、そう伝えるほかない。推測記事は書けない。財務省としてもそこは伏せたいだろう。しかし、秋からの休暇、ここ数日の野党の追及、近畿財務局は広報していない…どころか遺族に対して公表しないでほしいと依頼した(記者会見における某記者の質問)、などを考え合わせると、無関係と言うには無理がある。
死に赴こうとする彼の胸に去来したのは何だったか。公務員として為してはならない行為に手を染めた、そのことへの反省、手を染めざるを得なかった圧力への恨み、己の弱い立場への悲しみ、ことの性質からしてすべてを言いたくても言えない憤り、一人ではかかえきれない政治的案件の重さ大きさ、その深い闇への恐怖、マスコミ報道などで日本中が大騒ぎになっていることからの圧迫感…。様々に沸き起こる思いは文言に尽くしがたいことだろう。特別の人間でない限り、そんな苦しみから逃れたい、楽になりたい、という方向に向かうものだ。辛かっただろう。本当に痛ましい。遠くその痛みを思いやることにより、供養にしたいと私は思う。
それにしても、本件は特異な事案が真面目な職員を1人殺したようなものだ。防ぐ手立てはなかったのか。職場として彼の荷物を軽くすることはできなかったのか。
外圧か内圧か知らないが、そもそも行政をねじ曲げさせた者がいるはずだ。それさえなければ、自殺もなかったのだ。そいつが憎い。どのような経緯でことが進んだのか、特捜部は詳しく解明してほしい。期待できるだろうか。また職場の上司は何をしていたのか。まさか自殺するとは…などとコメントするのでは、迂闊すぎる。組織の長は部下(という言葉は使いたくないのだが)職員の人生の一時期を預かっている。50人の部下の2年間を無駄にさせることは1人の人間を殺すことに等しい。ともに働く職員の心情を理解し、危機を察し、共感し、戦友として励ます毎日であれば、組織内の職員が孤独にさいなまれることもないはずだ。
重大事案・事件のたびに当事者の誰かが犠牲になる。政治家には何の罪科も及ばない。いやな世の中だ。(黄鶴)

至誠

3月09日「至誠」
至誠にもとるなかりしか。昭和の戦雲深い頃の海軍兵学校で唱えられていた五省の、冒頭の句である。至誠の念をもって人に接することが十分にできたであろうか、という反省の言葉だ。論語には三省があるが、こちらは五省だ。
森友文書の書き換え云々で国会が荒れているが、文書提出についての財務省の態度に私はふとこの言葉を思い出した。国会に提示された文書のほかに決裁文書があるのかないのか。財務省は答えない。答えないという答えがあるのを知り、老生には勉強になったのだが、公務員として、相手が国会議員であろうが一市民であろうが、国家機密でないかぎり政策意図やその根拠となった事実関係を詳しく説明し、その過程においては誠意をもって接するのが当然の務めではないか。それによって相互に信頼感が生まれる。役所に協力しようという意識も芽生える。こんな態度では不信感しか生まれない。敵を作るだけだ。昔の内務省、戦後の大蔵省は役所の中の役所、トップエリートだ。それだけに一般国民は目下の存在、知らしむなかれ従わしむるべし、なのかもしれないが、これでは困る。いったい誰のために存在する役所なのか。国民のために存在するのに国民をないがしろにしてどうするのか。「本件の特殊性」「特殊処理」と言うとその特殊性とは何だと野党から追及される、それがいやだから文言を削ったと想像するが、これぞ語るに落ちた。相当深い特殊事情があるのだ。疑惑は確信に変わった。役所は国民のためではなく時の政権のため・・・権力者の地位保全のために存在するのだということが、今回はっきりした。
海兵の五省は、言行に恥ずるなかりしか、気力に欠くるなかりしか、努力にうらみなかりしか、不精にわたるなかりしか、と続く。しかしそれは、個人としての人格形成に役立つかもしれないが、国際的に尊敬を集める海軍士官として人を大きく育てる場には不適当とおっしゃる将官もあったと聞く。(黄鶴)

公文書の書き換え

3月08日「公文書の書き換え」
役人としての現役時代、決裁の取り直しというのは何回かあったように記憶する。
役所として何か仕事の方針を決定するときは、係で起案して文書にまとめ、課長、部長、最終決裁権者へと決裁文書を回す。あるいは急ぐときは持ち回りと称して起案者が文書を持って順次上司の決裁を仰いで回る。しかし、時には決裁を得たあとに事情が変わって方針変更せざるを得なくなり、はじめの文書を破棄して改めて決裁を取り直すこともある。このとき、新文書はもちろん旧文書とは内容も表現も異なる。書き換えといえば書き換えだ。私たちの場合は、旧決裁文書は廃棄の旨とその理由を明記して、一定期間保存していた。
近畿財務局における森友関連文書が書き換えられているのではないか、との報道がある。実態はわからないが、もし、上記のような事情変更による決裁の取り直しならば、何も問題はない。当局はすみやかに前後の事情を説明すれば済むことだ。しかし、説明に長引くということは、そうした合理的な根拠のある変更ではなくて、言うに言えない裏事情があってとか、なるべく表に出したくない理由があっての変更ではないかと疑ってしまう。そうであればなおさら、事実を白日の下にさらすことはできず、うやむやのまま歴史の闇に葬るほかないだろう。
表に出せない事情というのは、実は昔からあった。今もあるだろう。しかし、昔の社会はそういう裏事情をしかたのないものと許容していたのが、今はそこに寛容性がなくなり、不正とまでは言えない淀みのようなものまで存在が許されなくなってきた。そうしてギスギスした世の中になってきた。談合と呼ばれるリニア新幹線入札もそうだ。理屈どおり行動できない人間を理屈で縛る社会、それはもともと無理なのだ。せめて願う。歴史の闇に圧迫された自殺者が事案の関係者に出ないことを。(黄鶴)

市会議員の力

3月07日「市会議員の力」
2017年12月議会の議事録が市のHPに載ったことから、2017年分の質疑・質問数がまとまった。
改選以来の2015年から3年分を眺めると、発言する議員はする、しない人はしない、その傾向がはっきりしている。そして、前年に発言しなかった人が今年は急に発言が増えたという事例はなく、発言する議員はいつもする、しない人はずっとしない、そういう姿が明らかになった。
年間を通して発言ゼロ、または1~2件という議員がいる。それは年齢には関係ないようだ。ため息が出る。議会で発言しないとはどういうことなのか。何のために市議会議員になり、誰のために議場に座っているのか。仮に健康上の理由があって活動できないならば、あるいは議員に当選したもののやってみたら自分はその任に堪えないようだとわかったのなら、速やかに辞職すべきだ。それが6人以上であれば補選もできる。市民の声を伝えられない議員に年間1千万円の報酬を払う必要はない。
また質疑・質問の傾向を見ると、議案に関する質疑はない(または僅少だ)がたまに一般質問だけはする、という議員も散見される。これにも疑問がある。一般質問が時宜に適した質問ならばよいが、常任委員会や本会議での議案に対して意見のない議員に限って、市民の需要からほど遠い一般質問をしている。答える市も誠に気の毒だ。議案について、いや何につけても同じだが、勉強すればそこに疑問が生まれるのが当然だ。疑問が生まれればその答えを知りたいと思うはずだ。発言がないというのは勉強していない証拠だ。彼らは議場に資料を持ち込むこともないし、持ってきても付箋も付いていない。
発言する、そのために勉強もする、その過程において力もつくだろう。質疑・質問数は、やはり議員の力を示す指標の一つだ。(黄鶴)

仕事のABC

3月06日「仕事のABC」
先輩に教わった話に「仕事のABC」というのがある。『A:あたりまえのことを。B:ぼんやりせずに、C:ちゃんとやる』というものだ。これに私は、『そうすれば、D:誰でも、E:いい仕事ができる』と付け加えて、次の世代に引き継いだ。
DEはともかく、このABCは仕事の神髄をとらえている。何の仕事でも格別華やかなものはそんなにない。多くの場合、地味な仕事、当たり前のことを積み重ねていけば、そこにあでやかな花が開くものだ。基礎をしっかり押さえておけば事故もない。安全装具を付けなかったなどの基本を外れたところに事故は起きる。
ところで、最近の報道にはこのABCに外れたものが多くないか。裁量労働制に関する調査データに異常があるのを放置した厚労省もそうだ。異常なデータがあれば確認するという基本的な作業をなぜやらないのか。ここをちゃんとやっておけば、つまり基礎的なデータを正しく積み重ねて、そこから法則的事実や基礎的な問題点を引き出し、その対処法を考えていけば、そこに非の打ち所のない政策が産まれていたのではないか。裁量労働制の導入という結論には、なっていなかったのではないか。基礎的なしっかりした作業がないから、どこかから突っ込まれればすぐに崩れてしまう。
ただ、当たり前のことができない時もある。外力の働くときだ。「衆議院〇〇の秘書ですが」との電話は政治的外圧だ。政策を進めることによって既得権を失う団体からは贈り物攻勢や泣き落としもあるかもしれない。外圧が世論と一致していればよいが、必ずしもそうではない。声の大きい一部の団体の利益に過ぎないことが多い。役所の仕事が公正さを失ったら、その仕事も役所自体もこの社会に存在する意義はない。
「10歩進もうと思うときは、まず1歩進め」とは、別の先輩の言葉だった。激動の世でない限り、世の中を変えるにはそうするのが一番だ。(黄鶴)