8-4 過去ろぐの倉庫④ 2016年4月~2018年7月

7月13日「日本崩壊」
人口減少の時代に国会議員の定数を増やす愚行を演じた国会が、他にも日本を売る挙に出ていた。
国会が国民の良識の表象ではなく外資の手先であることを示したのが水道法の一部を改正する法律の衆院通過だ。この法案は6月27日衆議院厚生労働委員会に付託され審議入りとなって、7月4日同委員会で可決、7月5日に衆議院本会議で可決され参議院に送られた。衆院で賛成したのは自民・公明・維新・希望の各党だ。一週間足らずで何が審議できたのか、委員会で賛成した各議員は問題点を本当に理解していたのか、審議も理解もせずに党の指示に従っただけではないのか、極めて疑わしい。
これはどのような法案か。最も問題となるのは、水道の運営を民間に委ねる点だ。民間とは、国内だけではない。外資も含む。つまり国民の生命を支える水が外国人の手に握られる可能性があるのだ。
法案説明資料ではこの点を「官民連携の推進」と修飾的に表し、「地方公共団体が、水道事業者等としての位置付けを維持しつつ、厚生労働大臣等の許可を受けて、水道施設に関する公共施設等運営権を民間事業者に設定できる仕組みを導入する。」と謳う。ここで「公共施設等運営権」とは、利用料金の徴収を行う公共施設について、施設の所有権を地方公共団体が所有したまま、施設の運営権を民間事業者に設定する方式を意味する。
この話は従前からあった。低開発国の間でこの仕組みが取り沙汰されたと以前のエコノミストで読んだこともある。しかし、まさか日本でこんなことにはならないだろうと私は観察していた。大阪でも維新が水道民営化を提唱したが廃案になっていた。ところが、今回の大阪府北部地震が状況を変えたようだ。老朽化した水道施設をなんとかしなければという問題意識から公明党がにわかにこの法案の審議入りを主導したとネット情報(らぽーるマガジン7月9日)にあった。民営化が赤字解消・水道施設更新に直結すると思うのはあまりに短絡的すぎないか。
水道法改悪の問題点は二つある。水という公共財が私物化される、国のあり方の崩壊が一つ、そして価格操作を意のままにする外資によって日本が食い物にされ国民の富が外国に移転する経済上の問題が一つだ。そんなふうに日本が崩壊してもよいのか。

民営化すれば何でも効率的になって赤字が解消されるのか。それは神話だ。民営化の陰に過重労働や人権侵害が隠れているのを見ようとせず、飾られた結果だけを見て民営化賛成者は喜ぶ。公務員は非効率か。違う。本来効率を追究できない分野、民間ではできないもの、やってはいけないものを国や地方が担当しているのだ。その作業の中ではサービス残業は当たり前。一人何役もこなしている。非効率とのいわれのない批判にも耐えている。自分を支えているのは使命感だけだ。
民営化すべきではないもの、効率を犠牲にしてでも守らなければならないものがある。国の施政権は言うに及ばず、環境保護、国民の健康・安全保持の業務、そして水と食料の確保がそうだ。しかし、食料について既に国家の関与を捨てた日本の政治家には、水の重要さがわからないようだ。大雨による被災地で断水が続く今、水の大切さ、等しくすべての人に与えられるべき公共性は、被災者の誰もが身にしみて感じているのに。私が某国人であったなら、もう日本とは戦争をしない。する必要もない。水を押さえて、安価に自国に輸入し、施設更新費用の高騰を理由に日本人には高い水を買わせる。そうすれば日本は数十年を経ずして富を失い、内から崩れる。
民営化がそんなに良いのなら、法律の改廃作業も民営化したらどうか。法案に対する国民の意見はネットで調べ、それを反映させる。究極の直接民主制だ。立法権は国に残したまま、立法作業だけを民営化するのだ。水道事業の民営化と思想は同じだ。そうすれば国会議員も不要で経済効率は飛躍的に高まる。(黄鶴)

7月11日「ああ自民党」
7月5日の夜と言えば高槻の女瀬川の水位が異常に上がった日だった。この川ではたしか夜には避難判断水位の1.6mを遙かに超えて濁流が渦巻き、市からは老人等への避難勧告などが出されていた。水位は夜10時頃には2mを超えて、氾濫危険水位の3.05mまで数十㎝に迫っていたように記憶する。女瀬川だけではない。同じような危険な川は岡山県の高梁川の支流の小田川、広島県の芦田川ほか西日本のあちこちにあった。これらの状況は、国土交通省の「川の防災情報」からリアルタイムで把握できる。ネットを開けば、いま、日本の川のどこが危ないか、誰でもが即座に理解できるのだ。
この同じ夜、自民党では永田町で若手を中心にパーティーが開かれていたとか。東京の人にとっては、地方の窮状は他人事らしいが、あいた口がふさがらない。ネット記事(東洋経済ONLINE 7月11日05時配信)によれば、「会合の元締め役でもあった竹下氏は9日の記者会見で『どのような非難もお受けする。これだけすごい災害になるという予想は持っていなかった』と謝罪と釈明に追われた」ということだが、実にこの方は正直だ。危機の予測どころか、現実把握もできない自分の能力を有り体に話しておられる。自分にわからなければ関係の省庁から情報を得ればよいのに、それすらできていない。
国民の危機の予測ができない、それは公職にいる資格も能力もないということだ。ここで「公職にいる」とは、行政に携わる公務員、立法府、司法警察職員など、政治家を含めて公務員すべてをいう。国際関係から生じる危機、自然災害から生じる危機、人的異常から生じる危機、それらを未然に察知し、現状を認識し、そうして国民を安全な状態に避難誘導せずして、何が政治家か。公務員か。はしなくも自民党は、こういう面の能力のないことを自ら露呈した。ああ、自民党。ひどい世の中だ。仏教で同事というが、人の境遇と同じ状況に我が身を置いて、そこから解決策を得ようとする優しさは自民党にはない。
どんな非難も受ける?よくぞ言った。この会合に出た政治家の資格のない議員全員、即刻辞職してもらいたい。(黄鶴)

7月6日「6・18大阪府北部地震④まとめ」
地震のほかに津波、大雨、洪水、竜巻、大火災…。災害のネタはいくらでもある。
我々のなすべきことは、まず、それら個々について、どのような危険が発生するおそれがあるのか、他地域の被害例を含め有史以来の記録に基づき、高槻市の隅々に至るまで…どこの街角の何が危ないか…、全市をあげて、具体的な見積もりを行うことだ。その見積もりは過大でもかまわない。期待を込めて甘く見積もるのは禁物だ。悲観的に準備して楽観的に対処する、これが危機管理の鉄則だ。寿栄小学校の惨事は危険の見積もりの網の目が粗いことから起きたのだ。悔しさ・悲しさは日々につのる。
そして、その対策として、施設改修などの物理的な措置、危険箇所の標示、地域住民の意識改革、弱者対策としての食料備蓄が必要だ。もう犠牲者は出してはならない。
ここでいう対策は、具体的な措置、準備行動を意味する。デスクワークではない。防災計画などのお題目作成をいちばんと考えるお役所の発想は要らない。どこかのお手本を丸写しにしたような市の防災計画の空疎さは、今回よくわかったはずだ。
その防災計画の中身を見てみよう。第一に、被害想定として府の想定を元に全半壊戸数や死者数を予測してあるが、これだけでは、被害の見積もりをしたことにはならない。危機管理の前提となる作業は何もできていない。高槻のどの地域にどのような危険が迫っているのか、具体的に何も書いてない。富田の台地と沖積平野である市街地とは液状化の危険度が違う、それは素人でもわかるのに。では災害時の行動規範として何が使えるか。防災マップか。しかしこれも、自宅への影響を調べるには細密さが足りない。また、対策本部を置くことを規定しても、そこに何人が集まれるのか。今回どうだったのか。既に検証済みのことだろう。そして、物資輸送計画に水運などが書かれているが、船の浮かぶ河が高槻にあるのか。淀川を想定しているのならば、物資輸送が必要な時に淀川がどうなっているか想像力はないのか。ことほどさように市の防災計画は具体的薬効のない作文に過ぎない。その作文のあとに犠牲者が出てしまった。
ちなみに、2年前の4月16日、私は当HPで「東南海地震の発生は近い。高槻市においても、最悪のシナリオを描き万全の準備を願いたい」と書いた。抽象的表現に終わった甘さを反省する。しかしその後の数日、高槻が震度6強~7の地震に襲われた状況を想定した一文を載せたが、これは絵空事ではない。他地域の同程度の地震の影響を映したものだ。
大阪府北部は雨が降り続く。女瀬川も檜尾川も流域面積は小さいけれども川自体も小さい。おまけに天井川である。この前の地震で法面のコンクリートが破壊された堤防がないとも限らない。地図を見ると女瀬川左岸の東五百住町・津之江町は、その女瀬川と芥川の堤防に囲まれて濁水の逃げ場がない。いざ女瀬川堤防左岸決壊となると、そこは多数の家が浮かぶ海となる。伊勢湾台風のときのように災害は弥生時代の地形を復元するのだが、そうならないことを祈る。(この項終わり)(黄鶴)

7月5日「6・18大阪府北部地震③」
地震の次は大雨。大雨洪水警報、土砂災害警戒情報が今日10時現在、高槻市を含めて発表されている。窓の外を見渡すとブルーシートで覆われた屋根も多い。雨漏り、いかばかりかと想う。
さて、地震の話に戻る。災害は必ず来る。いつか遠い日…ではなく、近い将来に確実に来襲する。自然の猛威の前に無力な我々は、どうすべきか。
地震については、政府の地震調査研究推進本部が公表 している「活断層の長期評価」(https://www.jishin.go.jp/main/choukihyoka/ichiran.pdf )が極めて有意義で、我々の行動規範たり得る。2年前、2016年1月1日時点で「高い」と評価されていた日奈久断層帯が同年4月14日夜に動き、同月16日未明には「やや高い」と評価されていた隣接の布田川断層帯・「高い」と評価されていた大分県の別府万年山断層帯が同時に動いている。今回の大阪府北部地震も上町断層帯の一部が動いたとすれば、これも2018年1月1日付けでSランクに評価されていることから、上記推進本部の予測はすべて的中していることになる。これらのことから、「活断層の長期評価」が将来の地震を予見しているのは確実だ。
大阪に関していえば、天神橋筋・松屋町筋に沿って南北に走る上町断層帯が危ない。これまで8千年周期で動いてきた断層が過去9千年動いていない。これが動けばM7.5の地震が大阪都心を襲う。天神橋筋・松屋町筋より東は約3m押し上げられる。近いうちにそうなると予告されているのだ。このとき断層周辺のビルはどうなっているのだろうか。そして高槻はどのくらいの震度になりどれくらいの損害を被るのだろうか。
上町断層だけではない。Aランクの京都西山断層帯、生駒断層帯も甘く見てはいけない。Aランクとて油断はできない。(続く)(黄鶴)

7月4日「6・18大阪府北部地震②」
市のHPが開けない、そのせいでずいぶん困った。
浴槽に貯めようとして開けた水道は、徐々にその勢いが弱くなってきた。こりゃ、いずれ断水か?断水だとしたら、いつまで?そしていつ復旧する?飲用水の備蓄は30リットルほどあったが、4日しかもたない。ガスはどうなる?水については大阪府の方からの供給が止まるという情報も流れてくる。
これらについての正確な情報が欲しいが、市からは得られない。求不得苦とは仏教の八苦の一つだ。テレビだけが情報取得手段だった。停電ではなかったので発電式ラジオは使わなかった。
HPという電子的な広報手段は当てにならない。今回の地震でこれを知った。まず、停電になったらパソコンが使えない。スマホにしてもバッテリーはいつまでも長持ちしない。停電でなくても、散乱した家具類に埋没したパソコンは使えない。破損のおそれもある。仮にそれらが使えたとしても、本当に情報が欲しいときはアクセスが集中してHPが開かない。開くのは、地震が落ち着いた後だ。それでは六日の菖蒲十日の菊だ。幾つか開設された避難所は、情報の拠点になっていたのだろうか。避難所に行かない人のために広報車とか巡回したのだろうか。ガスについては3日目あたり(?)から大阪ガスのホームページで修理・開栓状況を確認できたが、情報伝達機関という趣旨での市の動きは何も見えなかった。
そしてその日の午後から、テレビは寿栄小学校の惨事を伝え始めた。なんという悲しい出来事か。これは人災だった。手抜き工事でもあり、昔の宮城地震の教訓を活かしていなかったこととの二重の意味での人災だった。この責任は誰にあるか。工事業者は言うに及ばず、市の危機管理組織が機能していなかったことも大きい。その背後に市民の無関心もあるが、市民を啓蒙するのは行政組織だ。阪神淡路大震災に耐えたことで安心していたのだろうか。
さらに、この地震は何なのか、未知の断層の動きによる一過性のものなのか、上町断層の一部が動いたもので以後も厳重な警戒を要するのか、そういう情報も欲しい。が、テレビは何も教えない。
余震は時折、北緯34.9度まで震源を変える。それは動いた断層(M6.1ならば約5km×2.5kmの範囲で断層がずれ動いている)の北側の部分、おそらくは34.85度あたりが小さく動いたのだろうが、34.90度となると有馬高槻断層帯の北になる。動く時期ではないが、もしかして、有馬高槻断層帯の大きな動きに連動するのかもしれないと不安にもなる。今回の場合、余震は連日未明から早朝に発生した。そして人の睡眠を妨げ、人の体力を奪い、人を不安にした。地震予測は不可能ではあるが、正確かつ専門的な情報の開示をその方面の方にお願いしたい。
もう一つ。今回、避難所には多くの高齢者の方々が宿泊した。そして余震が収まっても、すぐには帰れなかった。なぜか。散乱した家具などを片付ける体力がないのだ。片付かない部屋に住めるはずもない。地震は弱者を直撃する。弱者の生活立て直しのため、ボランティア斡旋でもよい、市のケアを期待する。(続く)(黄鶴)

7月3日「6・18大阪府北部地震①」
6月18日朝の7時58分、私は一階の居間にいた。いきなり下から突き上げられるような強い衝撃があった。そして激しく揺れた。それは上下動やら横揺れやらいろいろ混じった複雑な揺れ方だった。目の前のテレビが大きく揺れて倒れそうだった。とりあえず、それを支えた。震動で家がきしみ、家具が踊り、台所では食器類が床に落ちて壊れる音が響いた。
揺れの中で思った。初期微動はほとんどない。ということは直下型だ。恐れていた東南海地震ならば20秒以上の初期微動があるはずだ。上町断層が動いたにしても3秒はあるはずだ。有馬高槻断層帯はまだ動く時期ではない。あれは千年周期で動く断層でありまだ五百年しか経っていない。だからこれは大規模地震ではない。家から逃げ出すまでない。
とは思ったが、意外に揺れは大きく、長く続いた。計測する余裕はなかったが、30秒もあったろうか。揺れが収まった後に家の中を見て回ると、二階の仕事部屋では本棚から飛び出た本が床に散乱し、石膏ボードの壁に取り付けていた棚が落ちていた。台所は破壊音そのままの状況だった。足の踏み場もない部屋がある一方でまったく影響を受けていない部屋もある。東南海地震の南からの地震波を想定して、一階も二階もタンスや本棚などすべての家具を南北方向に設置していたためか、どの家具も5~20cm南に横移動しただけで倒れることはなかった。外から見てもサイディングの外壁やスレート屋根に損傷はなかったが、ご近所の日本式家屋には屋根瓦がずり落ちたお宅が複数あった。ブロック塀が倒れ、自転車が下敷きになっているところもあった。
家屋よりも人はどうか。通りに出た人の顔を確かめ、出ていない家はノックして無事を確認した。老人の独居家庭が近所には3軒あった。だいじょうぶ?との問いかけに、皆さん、ほっとしたような笑顔を返してくれた。その表情がまったく共通していて、印象的だった。
家に戻ってテレビを見た。大阪府北部は震度6弱とテロップが流れていた。震源は北緯34.8度東経135.6度、地下10km付近という。なんと、高槻市の南部ではないか。
テレビがわめき続けているので電気はOK。水道も一応出るが、断水の虞がある。とりあえず浴槽に水を貯め始めた。ガス、電話は不通だった。
被害状況や市の対応体制についての状況が知りたくて、パソコンを起動しようと思ったが、パソコンが見当たらない。捜すと、散乱した本の下敷きになっていた。壊れたか? いや、不思議なことに正常に起動できた。しかし、アクセスが集中しているようで、画面はいつまで経っても白いままだった。(続く)(黄鶴)

6月14日「文書改ざん」
シンガポールにおける歴史的会見の陰に隠れたが、この寸劇も忘れてはならない。
森友学園への国有地売却に関連する文書の改ざんは、佐川氏を中心とした当時の幹部による不祥事と財務省の調査によって認定された。だが、誰のために、何のために、という動機あるいは目的については何も明らかに書かれなかった。そりゃ当然だろう、内閣が吹っ飛ぶようなことは書けるはずもない。
担当大臣は「それがわかれば苦労しない」とおっしゃった。総理は、再発防止を指示した。ここが劇のクライマックスだ。このようなネタバレ寸劇は近頃めずらしい。いや、政治の世界では常にあることか。多額の政治献金を受け取っていながら、それが黒に近い灰色のものであると知りながら、検察を指揮した人も昔はいた。
それにしても、佐川氏はなぜ責められねばならないのか。自分を犠牲にして、ウソを並べてまでも、政権を守ったのだ。みごとだ。殊勲甲ではないか。役人の、臣下の鑑ではないか。褒められこそすれ十字架を背負って歩かされるのはおかしい。改ざんはおかしいと良い子ぶらないで、首領は、でかしたと褒め讃えるべきだ。
それにしても…と、もう一つ思う。改ざんは、「私と妻が関係していたら総理をやめる」との首相発言を受けて、それとおぼしき部分を削除したものだった。ところが、「贈賄の文脈で、関係していたら…」と、首相発言が変わった。この発言の変化を受けて、改ざんはそれに合うようにもう一度行うべきなのではないか?公文書は国民のためではなく政治家のためにあるのだ。日本書紀も昔、天武政権当時、諸家の記録の誤りを正し、政権の正当さを示すために編纂され、後世に残されたのだから。(黄鶴)

6月13日「交渉力」
「世紀の会談」とは、よくぞ言った。確かに史上初めての米朝首脳会談だったが、中身は何もない。ないどころか、言葉遊びのように核廃棄を口にする北に、アメリカは口車に乗せられて北の体制を保証した。引き換えに得るものは何もなく、アメリカは一方的に北朝鮮に貢献した。声明の中に核廃棄の具体的行動が書かれていないことについて記者会見で質問され、大統領は「時間がなかった」と釈明した。いや違う。なかったのは時間ではなく能力だ。
ここで思い出すのは、統一新羅が唐に一通の手紙を送り、それによって唐による新羅侵攻を思いとどまらせた歴史だ。記憶があやふやだが、あれは金春秋ではなかったか。彼は倭国にも来て誼を通じたあと、唐と連合して百済を滅ぼし高句麗を滅ぼし、統一新羅を打ち立てた。唐はこのとき、一時的に新羅と組んで他の二国をつぶした後は、新羅をも滅ぼして朝鮮半島をすべて手に入れるつもりだったようだが、統一新羅は手紙一通で唐を手玉にとり、新羅を守った。古来それだけの交渉力を持つ民族なのだ。アメリカはそれを知っているのだろうか。甘く見るなと言いたい。姓も同じ金一族だ。
この後どうなるか。容易に予測はつく。アメリカは、核を手放さない北朝鮮にどのようなことばを投げることになるのだろうか。そうそう、一方的貢献の中に日本による経済支援が含まれないように気をつけたい。
それにしても、ある国が他国の体制を「保証する」のは異様な光景だ。アメリカに保証してもらって、それで国は安泰なのだろうか。国民がその体制に異を唱えたらどうなるのだろうか。まあ、唱えることのできないシステムはあるが。
…あ、そうだ。政治体制をアメリカに保証してもらっている国は、ほかにもあった。(黄鶴)

6月12日「歴史的な会見」
今日は「歴史的な日」らしい。だが、何とも腹立たしい。歴史的な日に、誰がした?何のために?
太平洋の向こうの大国は、アジアのこととなると常に対応が遅れる国だ。芽が小さいうちに摘んでおけば何の問題にもならないのに、ことが大きくなってから騒ぎ出す。南シナ海にしても、北朝鮮の核にしても、対応は同じだ。南シナ海では中国による環礁埋め立てを知っていながら見過ごし、巨大な軍事基地と化してから航行の自由作戦を始めた。北朝鮮の核開発については6カ国協議を進めることもなく北に開発の時間を与え続け、アメリカ本土を照準できる弾道弾の出現を見るに及んで慌て始めた。確かに、芽が小さいうちに先を見越して対処してしまっては、為したことの重さを人に知られることがない。問題が大きくなった後にこれを解決すれば、よくやったと世間は褒めそやす。そういう効果をアメリカ大統領は狙っているのか。北も、常識的な平和人よりも国際秩序を破る極悪人でなければ表舞台に立てないことを知っているようだ。他国への脅威をわざと作り、それを止めるから見返りをよこせ…というのが常套手段だ。その思想・行動は日本人の発想を超えている。今後の参考にしなくては。
大統領として存続するために、国家元首として君臨し続けるために、共に国民への政治的成果のアピールとして、今日がある。その報道のために3千のマスコミ人がシンガポールに集まる。
会談場所のセントーサは歓楽の島である。噴水を光で染める夜のページェントを見た記憶がある。いかにも、世紀の会談の場所にふさわしい。
一つ思い出した。ざっと25年前、アメリカは北朝鮮を攻撃しようとしたことがあった。しかし報復によりソウルが火の海になることを恐れた韓国の反対で沙汰止みになった。難民が海を越えて押し寄せる日本にとっても悪夢だったろう。小さな芽を摘み取らないことに、周辺国も協力していたのだ。
時のクリントン大統領は、アジア人数百万人の犠牲を出してアメリカを救うことをやめたバランス感覚の持ち主だったが、今は、アメリカ・ファーストを叫び閣内に黒人を一人も加えない大統領だ。アメリカ人3億人を救うためにはアジア人1千万人を犠牲にすることも当然とするのが、レイシズム・アメリカ人の本音のはずだ。(黄鶴)

6月6日「山上にて」
すべてを忘れて山にこもる。これが私には至福の時間だ。
人工の音は何も聞こえない。松の梢を渡る風の音と競い鳴く鳥の声だけが、粗末な方二丈の山小屋を包む。周囲の馬酔木は無数の小さな実を着け、朱やピンクのツツジが花の形をしたまま地上に降り敷く。今、可憐なイヌツゲの花が盛りだ。ふと思う。花は、無限とは言えない虫たちの来訪をより確実にするために、替わり番こに咲いているのではなかろうか、と。虫達に花粉を運んでもらわなくてはならないから。
伐り残した松の木の間にロープを渡し、縄ばしごのようなハンモックを作って老身を横たえると、ロープの弾力で少し揺れる。目を閉じる。70年の深い疲労の上に遠い夢がたゆとう。
今日のように雨の日は、桧の森を背景に流れる霧(下界から見ると雲)を窓から見る。松の葉の先に生まれては落ちる水玉を数える。水玉も生まれる時は卵形だ。イヌツゲの葉の下で小さな啄木鳥のコゲラが一時の雨宿りをする。
残された日々は少ない。人とは何か、生きるとは何かを考えることはもうない。人は、樹木の一本のように、鹿やテンの一匹のように、ただそこに存在するだけでもう十分なのだ。何かができないと嘆いたり焦ったりする必要はない。まあ、存在するついでに、何かができていたとすれば、それはすごいことだ。
活動に継ぐ活動の若い日々もいいが、静かな老いの季節もまたいい。微風の中で揺れながら、雨を見ながら、自然と同化する。至福の時だ。(黄鶴)

6月5日「無明の世は続く」
言葉にならない怒りの日々が続く。
この世は無明で覆われている…、これは中村元訳「ブッダのことば」彼岸に至る道の章(学生アジタの質問)にある教えだ。
国の外では、信義を押しのけて核兵器を背景にした力がまかり通っている。国の中には、権力者を中心にした多数人による嘘で塗り固められた政府がある。これらを見るとき、人の上を覆う異常なものに気づく。そして、権力者とお友達になって甘い汁を吸おう…、吸った後は権力者がウソで救ってくれると思う者の多さを見るとき、無明の暗雲が覆うのは権力者の側だけではないことにも気づく。さらに、そうした者の数が比較多数を占める以上、政治の私物化に憤る多数の人の意志が活かされない制度が存続できることも、無明と言わずして何と言うべきか。
そこに誠などはない。いや、ないわけではなかろうが、欲望が勝っている。これは人間が人間である限り変わらないだろう。組織のためなら最高学府を出た人間も平気でウソをつく。そういう人間に仕上がるのも、人としての仁や正義を教えない今の学校教育・家庭では無理からぬことだろう。
釈迦死して2500年。無明の世は少しも変わっていない。(黄鶴)

5月16日「結集だけでは足りぬ」
今の政府は何を目指しているのだろうか。自分を犠牲にして国民を幸せに導くことだろうか。それとも自己顕示欲を満足させ身の栄達をはかることだろうか。
今の政府は何を目的に行動しているのだろうか。国民の政治意識を育て民族的文化水準を高めることだろうか。それとも国民をして政治に絶望させ選挙の際の自暴自棄的な棄権を促し、比較第一党を占めて、保身・利益誘導・外国への献身(この場合「身」は我が身ではなく「国民」)的軍事行動、何でも好き勝手にやることだろうか。
美辞麗句だけで行動を伴わない政治的発言、証人としても参考人としても都合の悪い人間は国会に呼ばない与党の卑怯さあるいは不公正さ、すぐにばれる嘘、野党の質問者をせせら笑うような与党幹部の答弁…。誠実から成る清楚な花は国会の場での政府与党のどこにもない。野党の一部にも「排除」発言以来凋落の一途をたどり予想どおり空中分解した、国民の意識からは離れた傲慢なグループがあったが、だからと言って与党の質の低さが許せるものではない。政府を誇ることのできない国民は実に不幸だ。
5月時点のNHK世論調査の結果を見ると、自民・公明の支持率合計は39.4%であり、これにたいする野党支持率の合計は12.3%。なんと、与党の三分の一にも及ばない。しかし、支持政党なしの集団が40.4%もある。野党のだらしなさに国民があきれ果てている姿が見えるが、それはともかく、この数字から誰しもが考えるのが支持政党なしの集団の取り込みだ。安倍政治にはノーだが野党も支持できない、国民の4割がそう感じているのだから、その4割の人が願い求める政策を掲げ、彼らの思いを遂げることが今日本に最も求められていることなのだ。言葉を換えれば、それが野党にとって政権奪取の近道でもある。野党結集だけではダメで、そこで4割の人に対して何を訴えるかが一つの鍵なのだ。
ただ、そのとき口をそろえて何か言うだけでは不十分だ。4割の人が野党を支持しない理由のひとつは、政策的に人的に、そして実績上も頼りがいがないからだ。政策を訴えるに際して野党にはこれだけの優秀な実務能力の高い多数の政治家がいるということを示せ。実績は…、民主党政権時代の実績は何かなかったか。手を付けたが道半ばのものはなかったか。
与党に反対するだけではなく、能力の高い政治家がそれぞれに、消費税の時限的凍結・産業政策・その他もろもろの政策を示し、過去の実績を見せ、野党も政権担当能力を有することを示すべきだ。(黄鶴)

5月15日「市会議員のネット利用」
メンバーに入れ替わりがあっても、いろいろ勉強して熱心に質問する議員はインターネットを駆使して市民への語りかけをすることにも熱心だ…、この傾向に変わりはなかった。下の図は、議員ごとの2017年中における質疑・質問数を横軸に示した棒グラフである。2018年4月中にネット利用が一回でもあった議員は赤色で、過去にネット利用歴のある議員は黄色で塗りつぶした。木本祐議員は芥川町の民家の壁にURLを表示した看板を掲げているが、このURLを入力しても「このサイトにアクセスできませんwww.yu.kimoto.jpのサーバーのIPアドレスが見つかりませんでした。」と応答があるのみで、この状況は2017年8月19日以降2018年5月15日まで続いているので、ネット利用なしに分類した。(黄鶴)

5月08日「政治が遠い」
仏教に四攝法というのがある。勝鬘経十大受の第七に出てくる。経典の中に漢字で書いてあるので「よんせつほう」と読もうが「ししょうほう」と読もうが自由だと思うけれども、後者の呼び方が一般的である。「攝」は、この場合「引き寄せる」の意味だ。ちなみに摂津の国という場合は、攝するは統べる、つまり港を統括するという意味になる。大宝令の職制のナニワの津を統括する摂津職は国司と同格であり、このためか摂津がいつの間にか国名になった。
話を元に戻す。四攝法とは、縁なき衆生を仏教に導くためのもので、布施攝、愛語攝、他行攝、同事攝をいう。仏教の深淵な思想を人に語りかけても、そもそも宗教心のない人や難しいことを理解できない人に対しては全く無意味で、受け入れてもらえるはずがない。そこで、有形無形のものを与えること(布施)、優しい言葉をかけること(愛語)、人のために何かを実行すること(他行)、宗教心のない人と共に住み徐々に感化していくこと(同事)、この四種の方法を通じて彼らに仏の道に入ってもらうことを、釈尊在世の時代から実施してきた。ここで大事なことは、四攝法を自分のために行うのではなくて、その人のために行うことだ。自分のためという思いが一片でもあったら、それは直ちに相手にも伝わり、すべての行いの仮面が剥がれる。
政治にも同じことが言えないか。憲法の理念や行政法の法理を掲げ、政権の非を声高に主張しても、そもそも法律論のわからない人や目の前の生活に追われ政治に関心を向ける余裕のない人には聴いてもらえない。街頭演説も、その意の通じる一部の人にしか効果はない。
ではどうするか。政治と政治家を身近に置いてもらうために、四攝法と同じく、まず、布施…。新しい政治には、例えば消費税を10%にしたら実生活においてこのような利得があると示し、実際にそれを国民に与えて、若者(だけに限らず)に将来の夢と希望を持たせることだ。次に愛語…。政治家は、優しい、易しい言葉で国民を包み込め。今の政治家のうち誰が、本当に国民を愛し、国民に救いの言葉を投げかけているか。ほとんどが自己愛と自己弁護ばかりではないか。さらに他行。政活費のすべてと議員報酬の大部分を返上し、自分を犠牲にして国民に尽くす姿勢を示せ。最後に同事。議員宿舎を出てドブ臭い低家賃アパートに住め。政治家は貴族ではない。国民の生活臭の中に居て、呻吟する声を聴け。そうやって理解者支援者を増やすのだ。そしてこれらの行いの通奏低音として最も大事なことは、己のためという保身・虚栄・栄達心を捨て去ることだ。自分のための政治ではない。国民のためなのだから。最後に目を閉じるとき、栄華栄耀の我が身に満足するよりも、多くの国民を救ったことへの満足感の方が遙かに大きいはずだ。(黄鶴)

5月07日「官道廃れて」
高槻市しろあと歴史館の企画展(*)は、いつもおもしろい。展示品や古文書からご先祖様の生活が活き活きと眼前にひらけてくる。そういう資料を選んであるのだ。
現在展示中の文書は、たとえば次のようなものだ。長いが全文を掲げる。
「神原村杉生村両村、山林の儀は矢田宮山続きにて御城下近くの地にござ候ところ、年々松茸生え立ての時分にあいなり候えば、みだりに入り込み、盗み取り、甚だ難渋つかまつり候につき、山番並びに持ち主よりいろいろと世話つかまつり候えども、なにぶん御家中様方、お入り込み遊ばされ候につき、両村の儀は山中の儀にて 年々松茸ご上納にあい立て候趣意申し上げ、だんだんお断り申しおり候えども、お聞き取りもござ無く押してお入り込み遊ばされ候につき山林も荒れ難渋つかまつり候間、事やむをえず、右の段お願い申し上げたてまつり候。尤もこのままに差し置き候いては、ご上納の差し支えもきっと相成り候間、みだりに入り込み相成らずよう、恐れながらご政道遊ばされ下されるよう願い上げたてまつり候。この段ご許容下されれば有り難き幸せに存じたてまつり候」
要するに、亀山藩の役人が農民の管理する松茸山で泥棒をして、注意してもそれを無視して入り込みなさる、こりゃ困ったもんだ、なんとかしてくれ…という上申なのだ。それが堅い文書による申し入れではなく、日本人らしくソフトに口頭で担当役人へ願い出た、その控えのメモなのだ。身分の違いから、「侵入」を「入り込み遊ばされ」と丁寧に言うところや、このままでは藩への松茸上納にも差し支えるとすごんでいるのも、身分の上下を逆転させるような農民の実力のほどが窺え、興味深い。
かってに想像してみる。この申し入れはその後どうなっただろうか。願いが聞き入れられて綱紀が粛正され藩の役人による強奪がなくなったのであれば、文書も用済みで廃棄された可能性が高い。口上控えが残っているところを見ると、困った状況は変わらず、農民は後々も変わらぬ悔しさを感じ続けていたのではないか。まあ、庄屋たるもの、結果がどうあろうと仕事のすべてを記録に残した可能性もあるが、藩の武士が身分の低い農民の意見を素直に聴くほど広量大度であったとは思えない。
このようなかつての日本人のモラルの低さは、悲しいことながら、その後も絶えることなく続いているような気がする。戦前の中国大陸で、日本軍占領下のフィリピンで、当時の日本人が現地で何をしたか…。現代日本人の模範になるようなことばかりではなかったのだ(たとえば朝日選書269「日本人の占領」)。
そして現代においても、人々の政治に対する見識の程度を眺めるとき、民族レベルでの進歩発展というものの困難性に思い至るのだ。(黄鶴)
*「樫田 丹波の山村と仏像・信仰」5月13日まで

5月02日「大道廃れて」
柳瀬元首相秘書官が加計学園関係者と官邸で会ったことを認めることにしたと、5月2日の新聞にあった。なんとまあ…、今になって…。嘆息しかない。
究極的にばれるようなウソは、言わない方が利口だと思うのだが、この方は表向き白を切り続けた。政権にとって都合の悪いことは隠すのが筋で、これまでの先輩もいろんな場面でそうしてきたから、彼も同じことをやったのだろう。まあ、政策立案上の役人のウソも昔はその政策によって生まれる大きな国民の福利の陰に隠れたから、そして官民そろって政治家と役人のウソを隠したから、ウソは問題にならなかったけれど、今は違う。ウソを隠す仲間がいない。政治の私物化のためのウソだから国民も許さない。
しかし、国会でしゃべるったって、記憶にないことを無理をして言うのは、それも「ウソ」にならないか?
そもそも…。森友学園のあの土地を大幅に値引きしたのは、誰が、誰の意を受けて、あるいは誰の指示を受けて、やったのか。加計学園の獣医学部新設は、誰が、誰の意を受けて、あるいは誰の指示を受けて、特別の計らいをしたのか。また自衛隊の日報は、(同じことを言うが)誰が、誰の意を受けて、あるいは誰の指示を受けて、あるものをないとしたのか。
全部真実を知りたいが、政府与党は積極的に語らない。関係した官僚も忘れたと言う。忘れたなんてウソに決まっている(と私は信じる)。加計学園関係者には会ったが愛媛県関係は記憶にないので、ウソを言ってはいないと与党幹部が言ったらしいが、これも意味不明の日本語だった。元首相秘書官など関係者は官界を代表する優秀な人なのだろうが、ウソを言わなければならない環境を作ったのは誰か。
それにしても、ああ(また嘆息)、行政の正義・公正さ・公平さ、正当な行政手続きはどこに消えたのか。真実を知りたいとの国民の願いに応えようとしない今の政府の不誠実さは、なんと表現すべきか。この期に及んで政府は、文書改ざんの再発防止策などを声高に訴えているのだが。
ここでふと、思い出した。大道廃れて仁義有り。老子道徳経の一節だ。老子の言う大道は無為自然の道で、今の日本で廃れている政道ではないが、本来あるべきものが失われたところに節義を振りかざす姿は同じだ。嘆かわしいのを通り過ぎて、もはや喜劇に近い。
老子道徳経はさらに続ける。「智恵出でて大偽有り、六親和せずして孝慈有り、国家昏乱して忠臣有り」と。智恵出でて大偽有り、つまり人智が発達して巨大な文明の所産がある一方で天地自然の道は人の手にまみれて失われてしまったのも現代日本そのものだ。そして、まさに国家が昏乱した今、忠臣の出現があるはずなのだが、サムライ教育を失った日本にそれが期待できるだろうか。(黄鶴)

4月25日「違法な看板」
ある兵庫県議が違法な看板を3年間立てていたとして、明石市選管が撤去命令を出した。数十回にわたる撤去要求を無視されたあげくの命令だとか(https://news.yahoo.co.jp/pickup/6279565)。
報道によると、違法な立て看板とはこの県議の市議時代のもので、県議に当選した後もなお市議としての看板が放置されていたとのことだ。またこの県議は国民健康保険料の滞納や借金問題があって、昨年2月に維新を離党したともこの報道にあった。維新といえば、政活費を全額返還した堺市議もいる。議員候補者の資質には十分な吟味の場を設ける必要があると思うが、こうまで続いては維新というグループの候補者選定手続きに疑問が生じる。高槻市議・大阪府議の公募も行っているようだが、さて、誰がどのような基準で応募者を絞っていくのだろうか。
冒頭の違法看板につき、市民からの通報を受けた明石市の選管がきちんと機能したことには感心した。では高槻市には違法な看板はないか。よく目にするポスターは大きな顔写真と議員の名前が目立ち、平時における選挙活動用としか思えない。一日何度も放送して視聴者に刷り込み効果をねらうTVコマーシャルと同じだ。車で通過する時は読めない小さな文字で「毎週〇曜日は〇駅で演説会」と書くことで合法性を持たせるのだろう。しかし、事務所でもないのに看板を置く議員はいないか。空き家の壁に後援会連絡所という看板を置く議員はいないか。HPも持っていないのに虚偽のURLを書く看板はないか。なければ幸いである。(黄鶴)

4月23日「シビリアンコントロール その2」
友人の言を紹介する。シビリアンコントロールについて、彼曰く「この制度を形骸化させないためには、然るべき人物が自衛隊を統括する立場に立つ必要がある。それはわかるが、それだけでは足りない。非軍人の統括者を進んで支えようとする一億国民の意志が必要だ。そんな国民の意志がなければ、誰がそのポストに就こうが職務遂行は困難だ。昭和十年代、昭和天皇すら軍部の中国戦線拡大を抑えられなかった。それは天皇の御意志から離れた国民の好戦的な地盤があったからではないか。戦後になって、戦争を止められた天皇に、なぜ開戦を抑止できなかったのかという論が欧米にあったが、それも米英撃つべしという国の雰囲気があまりに強かったからだった」
そのとおりだろう。軍はこうあるべしとの国民の意識が育っていないときに軍の暴走を止められるわけがない。土壌に合わない制度を外国から輸入してもうまく働かない。
では、現状はどうか。昭和の初めの風潮を笑えるほど国民の意識は高いか。確固たるものになっているか。昨日の豊中市長選では改憲をめざす維新の得票数は約4万3千票。当選者の約5万票に迫る勢いであり、投票数の約36%を占める。この選挙結果は、シビリアンコントロールを目指す国民意識の高低とは無関係と言い切れるか。
あるいは平和に関する今の世論は、マスコミの宣伝に乗せられて動くようなことはないか。もしそうなら、世論とは指導方法を変えれば簡単に戦争に傾く、そういう脆いものだということになる。
国民が何も考えることなく短絡的に戦争に向かってなだれ込む、それだけは防がねばならない。そのための小中学生の教育や地道な市民運動も重要なのだ。(黄鶴)

4月20日「セクハラ処分」
財務次官のセクハラ云々で世間が騒いでいる。が、その騒ぎ方に複数の要素から成る違和感がある。
仮に公務員による一般人へのセクハラがあった場合、当該役所と被害者はどう動くべきだろうか。
国家公務員法は、国民全体の奉仕者たるにふさわしくない非行のあったなどの場合、その職員に免職、停職などの懲戒処分をすることができる旨定めている(第八二条)。処分の前には必要な調査をするのは当然である。この場合の「非行」として人事院は「懲戒処分の指針について」という文書の中で、一般服務関係として欠勤、遅刻・早退などと並べてセクハラ(相手が誰であろうと)を挙げている。このため、まず役所は事実関係につき加害者と被害者(その人権に注意を払いつつ)から聴取し、第三者の証言も得るなどして、セクハラの実態を確認すべきだろう。その上で任命権者は本人と監督不行き届きの上司とを懲戒処分とすべきだろう。
また被害者側は、それが仕事に関して行われれば、被害者とその属する組織は、加害者本人と加害者の属する役所に対して抗議し、精神的苦痛に対する賠償請求訴訟を提起すべきだろう。
然るに、今回の場合、財務省は事実関係を調査するどころか、アタマからセクハラはなかったものとして反論書を公表している。調べもせずに、何がわかるのか。監督責任はともかく財務省による本罪でもないのになぜ省としての反論を公表するのか。反論書を公表せよと命令した人物が誰なのか知らないが、反論書を書けという命令は職務上の命令と言えるのか。セクハラがあったかなかったか、それと財務省の仕事とどう関係するのか悩みつつ、違法な命令ではないかと悩みつつも唯々諾々とこれに従い反論書を作成した部下職員が哀れである。また財務大臣は次官擁護に終始し、冷静かつ客観的な立場に立つ任命権者としての義務を果たしていない。被害者は名乗り出よとの無神経そのものの言は各方面から非難されているのでここでは指弾しない。
一方のテレビ朝日だが、調査とその結果公表を求める財務省への抗議文は、財務省の監督責任を追究するものとして理解できるが、当の事務次官への抗議はどうなっているのか。抗議文からは推察できない。監督責任よりも行為責任の方が大きいではないか。まず事務次官に対して抗議文を送るべし。
また世間一般の風潮にも疑問がある。財務次官といえば役人の頂点ともいえるポストである。ではあるが、それは職務上のポストであって私人としての行動とは関係ない。しかし、マスコミ、あるいは世間は責任ある財務次官のやったことはすべて財務省の問題であると、組織と個人を同一視してしまう。さらに安倍政権追及の材料としてしまう。これはおかしい。
あれこれ、おかしいところだらけで、混乱する。本来何が正しいのか、しっかりした鏡を持たねばならない。その鏡は法令の中にある。(黄鶴)

4月19日「シビリアンコントロール」
英英辞典でcontrolの意味を調べると面白い。まず、① command, hold in check, have in one’s power というのが挙げられている。指揮命令する、抑制する、思いのままにする、という日本語になる。次に、②  examine something to find out whether it is right or true が ある。それが正しいかどうか査証するということだ(Idiomatic and syntactic English dictionary)。また英和辞典の中には、害虫などが蔓延するのを防ぐ、との意味を挙げているのもある(ジーニアス英和辞典)。いずれも日本の防衛省におけるシビリアンコントロールのこれまでを思い浮かべながら読むと、一層味わい深い。
外国から輸入されたこの制度は、昭和30年代の防衛庁発足時は機能していたように感じられる。昔は内局と称する背広組の力が強く、敗戦を経験した旧軍人の自衛官はその力を自ら抑制しており、背広組対制服組のバランスは明らかに背広組に傾いていた。世論も旧軍人には厳しかった。その後、時を経るにつれて防大出身者の力が強まった。質量ともに。それと同時にシビリアンコントロールも形骸化されていったのだが、幸か不幸か、それが明らかにならなかった。大臣としての初任は、科学技術庁長官か防衛庁長官であり、軍を統御するに十分重みのある政治家がこれに当たっているとは言えなかったが、それでも自衛官が外国に派遣されることもない時代は、それでよかった。
いま、国土防衛をめぐる情勢は著しく変化した。自衛隊の力が強くなり、平和貢献のためにも国際的にそれが求められる時代であればこそ、それを統御することが重要になった。昭和の初めの陸軍の驕りと暴走を振り返れば、軍の行動を抑制する、陸海空全軍を思いのままにする、それは容易なことではないのが直ちに理解される。だからこそ、それにふさわしい人物がこれに当たらねばならないのだ。必ずしも戦術まで熟知する必要はない。大臣に秋山真之の再来はいらない。しかし、太古からの軍の役割、軍の暴走とそれによる国民の疲弊の歴史を知り、防衛省内の議論の内容を査証し、自衛官の不祥事の蔓延を防ぐに足る重厚なサムライである必要はある。
要するに人だ。シビリアンコントロールを果たすには。(黄鶴)

4月18日「末期」
「まっき」「まつご」、どちらに読んでいただいても構わない。財務省による財務次官セクハラ疑惑に関する調査について、総務大臣と財務大臣の対応が割れた。政権にとって内閣が割れるのは末期的症状であり、そろそろ末期の水を準備すべきときかとも思う。
それにしても、あまりにも情けない。この国にとって今何が重要か、何を議論してこの国をどういう方向に導くべきか、政官を問わず心ある人はそれなりに議論しつつ動いているのだろうが、国にとって大切な話よりもウソで固めた低次元の話が、それも役所を異にした幾つもの話が同時発生して渦巻いている。そもそもの原因は、然るべき位置に座る人々が、高い志・確固たる信念・行動の潔さと対極の位置にあったことにある、そう疑わざるを得ない。
このごろの内閣支持率はどうか。調査日(月/日)・調査機関・支持率(%)・不支持率(%)の順に示す。
3/24~25  TV朝日 32.6 54.9
4/6~8   NHK   38   45
4/7~8  TBS   40   58.4
4/13~15  NNN  26.7   53.4
4/14~15  朝日新聞  31  52
安倍内閣支持率が最も高かったのは、NHK調査では2013年3月の66%。それが2018年4月6~8日には38%になっているが、加計学園に関する「首相案件」の文書があったと愛媛県知事が記者会見したのはその後の10日だった。NNNと朝日新聞の調査はそれを受けている面がある。5月のNHK調査ではどうなるだろうか。
過去の内閣においては、初期の期待半分の高支持率から半減した頃、交替の時期を迎えているのだが、さて…。(黄鶴)

4月16日「立件せず」
森友文書改ざん等に関し、大阪地検特捜部は佐川氏を立件しないとの報道が先週末になされていた。私は佐川氏の国会における答弁ぶりなどを擁護するものではないが、客観的にみて、文書改ざんについては私も立件は困難と思う。
告発されていた刑法第百五十六条の虚偽公文書作成等の罪は、「公務員が、その職務に関し、行使の目的で、虚偽の文書若しくは図画を作成し、又は文書若しくは図画を変造したときは、印章又は署名の有無により区別して、前二条の例による」と定めている。この中の「文書の変造」は、行政の公正さをねじ曲げ、行政効果を損なうほどに文書の主旨を根本的に変えることをいうと解釈できる。今回「改ざん」とは称されるが、その中身は表現の変更や主旨を変更しない程度の文章の削除であり、違法性は低い。
背任についてはどうか。違法かつ過大な値引きによって国損を与えたならば、罪が成立する。庶民の感覚では8億円は大きい。しかし、その積算が絶対におかしいと証明するものがない。つまり、確たる証拠がない。だから立件して訴訟を継続することは無理だ。
だが、立件はされないにしても、文書がなぜ、誰の指示によって変えられたのか。疑いが晴れたわけではない。官僚の忖度を招いた政権への疑念は深まる一方だ。この思いをどうしてくれるのか。何ともやるせない。
この立件しないとの決定に関し、何か違った要素は働いていないだろうかとの思いが、ひとつある。
平成28年度のデータだが、司法試験合格者1,583名のうち旧帝大系は407名(うち137名が東大)を占める(法務省資料)。また国家公務員総合職試験合格者1,878名のうち旧帝大系は899名(うち372名が東大)を占める(資料出所https://resemom.jp/article/2017/06/30/38950.html)。要するに、予算要求する者、それを査定する者、皆お仲間であり、各省庁官僚も司法トップも皆お仲間なのだ。このお仲間への配慮が、物事の決定に当たって作用していないだろうかと思うのだ。虚偽公文書作成罪だって、形式主義に立って厳密にみれば、一言一句を変えても「文書の変造」に当たるではないか。それが過去の判例に合わないとしても、理屈はあとから付いてくるのが世の中だ。
このあたり、私の妄想であることを望みたい。(黄鶴)

4月12日「ウソ」
リセットしたはずの衆議院だが、リセットにはならなかった。国会はモリカケで揺れに揺れている。
総理案件との文言を含む文書があったとする愛媛県、記憶の限りでは県職員に会っていないとする柳瀬元総理秘書官。枝野立憲民主党代表の言うとおり、どちらかがウソだ。
どんなに完璧な理屈を重ねても聴く人は「こりゃウソだな」と感じることがある。それまでの事実の積み重ね、周囲の状況、発言者の置かれた立場などからの類推なのだが、その直感はほぼ正しい。県の担当者にしてみれば遙か雲の上の総理秘書官の有り難いお言葉だから、一言一句漏らさずに記録し、県の上司に報告したことだろう。一方の元秘書官、「記憶の限りでは」がまず胡散臭い。記憶というあいまいなもので逃げ道を作っている。記憶ではなく面会記録を基にして発言したらどうなのか。面会記録も作らないほど総理秘書官というのは雑な仕事だとは思えない。役人たるもの、後々に備えてすべての業務に関して記録を残しているはずだ。しかし、そうは言えないのだろう。わかるわかる、うん。
事実はともかく、世間向けにはこう言っておこう、という幕引き方法が過去にはあったが、今それは通用しないのではないか。あまりにも類似の事件が多いし、糊塗することが政治権力の私物化につながることを賢明な日本国民は見抜いているから。総理案件という特別なものがあるのなら、総理のお友達になりたいと願う人もいるだろうが、国民の絶対多数はそれを許さない公平な行政を望んでいるから。
今日の毎日新聞3面には、衆院予算委員会でのやりとりを伝える記事に並んで川柳の欄があり、「丁寧に言ったところでウソはウソ(大分 田中勇司)」と載っていた。(黄鶴)

4月11日「人災か天災か」
今日未明、九州中津の耶馬溪町で山崩れが発生し、行方不明者6名の惨事となった。原因不明というが、現象としては深層崩壊だ。大雨に匹敵するような大量の地下水がいつの間にか地下深くに溜まり、斜面崩壊の準備を進めていたのであろう。崩壊の頂点付近では亀裂も発生していたであろうが、現場写真を見るとそこは急斜面で、事前に確認することは期待できない。しかし、植林によって地形変更がなされたとか水抜きの穴を塞いだとか、自然に逆らう行為はなかっただろうか。仮にあったとしても、それが遠い将来に斜面崩落の原因になるとの予見は不可能で、責任は問えない。国土地理院の1/25,000地図を見ると、現場斜面の上部の標高300mから350mは崖になっており、太古から崖崩れが繰り返し発生し、崩れた土石が堆積してできた斜面であることが窺えるのだが、国土交通省の深層崩壊マップにも大分県は比較的安全とされており、この面からも人災の可能性は乏しい。

雨もなく地震もない、それでも深層崩壊が起きた。これを鑑として、他に類が及ばぬよう対策を考えねばならない。
一方、政治の方だが、この国はいったいどこに向かうのかとの危惧が絶えない。もの作りの国でなくなって久しいし、農業の後継者、陸運海運の担い手も老人が増えた。だからいずれ、担い手は誰もいなくなる。ことの原因はいびつな人口構成にあるのだが、突き詰めれば淵源は失政だ。誰かがこの国を、子供を育てる希望ある国ではなくしてしまった。それを人は天災のごとくに思い、改める手段なしと諦める。
とんでもない。日本では政治に人を得られない、これは戦後に日本の教育体制を破壊したアメリカによる人災なのだ。われわれは政治に向かう人作りのための教育体制から作り直し、並行して出生率向上のための政策の総動員も行われなければならない。一年の計は米を作るにあり、十年の計は樹を植えるにあり、百年の計は人を作るにある。がんばれ、日本。(黄鶴)

4月10日「シビリアンコントロール」
イラク日報問題にからみ防衛省でのシビリアンコントロールのあり方が取り沙汰されている。
しかしもっと違う次元での問題がある…かもしれない。以下、もしかして…、という仮定の話として続ける。
風土病や政府軍と反政府軍の入り乱れた戦闘が怖くてアフリカの自衛隊派遣先に視察に行けない大臣がいたら、それが男女いずれであろうが、現地の派遣隊員としてはたまったものではない。自分が危険にさらされているのに最高指揮官は安全な日本から離れないのだから。そういう大臣の命令を聞こうとは誰も思わない。そうではなくて、職務に命をかける気迫があれば、また違った話になるだろう。
シビリアンコントロールというよりも、いま、自衛隊員をして命令を遂行させる上司としての重さ、人間力が問われているのではないか。大臣だからといってそれだけで部下は上司の威を感じるものではない。
ではその人間力は何によって生まれるのか。専門知識など所管業務の遂行能力が第一だ。そして知性・見識・優しさ・穏やかさ・広い視野という静的側面と強さ・判断即行動する力・弁舌と言う動的側面を併せもつことだ。包容力・思考の柔軟性・私心を去ること、部下への強い信頼も必要だ。これは一朝一夕に成せるものではない。
場合によっては死の任務を与えなければならないのだから、簡単にシビリアンコントロールなどと口にはできない。(黄鶴)

4月04日「フィージビリティ」
例えばある地方に支店を設置するとしよう。会社としては事前に検討することがいろいろある。
その地方において当社の仕事は現在必要とされているのか。いま必要性があるとして、人口構成などから考えて将来的な需要はどうか。売り上げはどう見込めるか。従業員は手当できるか。交通の便はどうか。支店用の土地の手配、建物の建築について問題はないか。そして、役所への届けなどの手続きをいつどのような形で進めるか、etc. …これらのすべてに答えができて、実施可能なタイムテーブルができたとき初めて、作業はスタートする。
ところが、大阪維新の会の企図する大阪都構想は、まったくこのフィージビリティ・スタディができていないようだ。都とすることの経済効果を今頃になって確認するのはおかしいと、既に触れた。今度は住民投票を先延ばしにすると言い出した。
そもそも大阪が経済的に地盤沈下したのはなぜか。新幹線や通信機能の向上により日本が小さくなったからだ。小さい日本に都は二つも必要ない。本社も一つでいい。大阪の地盤沈下は歴史の必然だ。その原因を悟らずして復活を願うのは叢生の夢でしかない。律令の昔は副都があったが、それは政治的な不安定さの表れであり今は違う。
先延ばしにしたら府民市民の関心が高まると言うものではない。今の無関心は、都構想などというものは先の住民投票によって既に決着済みであるとの有権者の認識を示し、今なおそれにしがみつく大阪維新の会の愚劣さを冷笑したものだ。先延ばしにしたら、ますます忘れ去られるのは必定である。
国民の良識を代表して有識者がその地位に就き政治を執るのではなく、大衆の愚かさを代表して無策者が政策決定者となりすべての人の運命を決める。恐ろしいことだ。その暗雲が世界にもある。(黄鶴)

4月02日「何を信じるべきか」
春、四月が始まった。高槻では桜はもう散りかけていて、柿の木も芽吹いている。季節の移ろいを伝えるすべてのものが、暦よりも早い。地球温暖化の足音は次第に大きくなっている。それは空気中のCO2 の量や気温の長期的変化に明らかである。
にもかかわらず、これを人為的な原因ではなく氷河期の繰り返しなどの自然現象に原因を求める愚か者がアメリカにはいる。困ったことにその人物は大統領だ。
日本とて自慢できたものではない。モリカケにとらわれている間に半島情勢は変わり日本は劣勢に立たされている…、もうそんなことを議論する暇はないと主張する論者がいる。これは日本の行政機構の全容を知らない愚者の論だ。国会での議論はたしかに、それに集中しているかに見えるが、行政機構はそれぞれが動いている。外務は外務で担当事項を処理している。常に変転する国際情勢に対し、対処方針を考えているはずだ。たとえ国会が空転していても、行政機構が日本を下支えしている。国会で不正は不正として追及する、それは必要だ。議論の暇がないと言うのは、それから国民の目をそらさせたい自民党の逃げの論理でもある。惑わされてはならない。
げに、世の表に動き回るものに信じるべきものはあるのだろうか。調和することは考えず我欲だけを追求するアメリカ。百年計画で世界制覇を狙うお隣の国。一強体制の中で強者の歓心を買うことのみに汲々とする国内。まあ、人間社会が始まって以来、昔からそうだったといえば、それもそうだ。
しかし、信じるべきものは、やはりある。ただ、それは目には見えずニュースにもならないけれども、いわゆる事務方の、行政の現場は、このところ文書改ざんなどでかまびすしいが、多少の汚点を除けば十分信頼に値するものなのだ。これまで日本を支えてきたし今後も日本人を支え続ける総合力があり、国際的にも優秀で清潔、公平な組織、それが日本の行政機構だ。そこに今日、多くの新しい人が入って来ている。行政官として実りある人生を送ってほしいと念願する。(黄鶴)

3月18日「次の選挙に向けて」
あの人の言ったことは本当だった…。そんな思いとともに心に浮かぶ人に対しては、深い感謝と信頼、尊敬の念が湧いてくる。その人のために今後できることがあれば、何でもやろうと言う気にもなる。亡くなった人であれば、そこに哀惜の思いが加わる。
しかし、あの人やっぱり嘘をついていたんだなと後でわかったときの悲しさ情けなさ、伝えられた嘘を真実と信じたことへの悔しさは、ひととおりではない。以後その人に従おう、あるいは取り立てようとは決して思わない。
人と人の関係も国と人の関係も同じだろう。国会で国の仕事に携わる人が、議員の質問に対して答弁を行った、それが嘘だった…。こういう政府に私たちの生活のすべてを委ねなければならないのが、なんともやりきれない。嘘と知りつつ立場上その嘘をつかなければならない人も気の毒だが、嘘をつかせるその黒幕が誰か、十分わかっている。そうでなくても、いろいろと騙されている。もう勘弁してくれ。…これが世論調査からわかる多くの国民の思いだ。
ここまでは感情の世界だ。これを実際の政治に反映させなければならないのだが、しかし、その思いは政治勢力とならない。今の制度では比較第一党に自民が座る限り、嘘つき体制が持続する。大半の人が理解する建前としての体制ではなく、今ではもう救いがたい状態となった見え透いた虚構の体制が続く。
だから野党に望む。選挙を考えない今のうちから、非自民で大同団結してほしい。少数野党がバラバラのままでは、多くの国民の意見が野垂れ死にする。選挙となって慌てて非自民勢力を組み立てるのではなく、今から批判勢力を組み上げ、選挙になだれ込んでほしい。(黄鶴)

3月16日「理不尽を許容するか」
「麻生氏辞任や昭恵氏招致には応じられないのだから、佐川氏喚問しかない。世論向けの『節目』が必要だ」とは3月14日毎日新聞朝刊(大阪:13版)に載った「閣僚経験者」の言葉である。
この人にとって世論とは、政治の方向を決め細部を仕上げるための根本基準ではなく、自分の意思で動かす船の周囲に立ち騒ぐ大海の波のようなものらしい。波があろうとなかろうと自分の望む方向に船を進め、時に向かい波が大きければ波を静める術策を施せばよいと考えているらしい。元官僚の証人喚問は世論工作のための儀式であり、役人の一人や二人、波を静めるための人柱になるのはやむを得ないと言わんばかりだ。国民もなめられたものだ。餅を食ったらすべて忘れると言った、これも同類の国民軽視の言葉だった。まあ、実際そうなったのではあるが。しかし、防衛省の日報に文科省の「総理のご意向」そして財務省、あるいは集団安保に共謀罪と、ここまで重なってくると波では済まないのではないか。国民はいつまで体制支持を続けるだろうか。
「昭恵氏喚問は必要ない。書き換え問題とは関係ないのだから」という与党の話も耳にする。しかし、国民の知りたいのは、書き換えの経緯だけではなく、書き換えによって何を守ろうとしたのか、つまり森友問題の全容なのだ。そこに昭恵氏は関係ないと本当に言えるだろうか。
何があろうが安倍体制を守りたい政府中枢とそれに反対し疑惑解明を求める人々、それは世の中の非を許容しつつその中でうまく立ち回って己が利を得ようとする者たちと世の中の非の存在を許さずこれを正そうとする者たちのせめぎ合いだ。揺れ動く国民の心はどちらに流れるだろうか。(黄鶴)

3月15日「知らなかった」
政府首脳は財務省の文書書き換え問題に関し、麻生財務大臣をかばい続ける。「大臣は知らなかったのだ」と。
知らなかったら責任はないのか。愚見ながら、それはない。監督責任はある。それが世の中の常識だ。組織の長は結果の発生に対して責任を取るべきだ。組織として活動しているとき、不正な結果が発生しないよう、組織をまとめる者は常日頃から注意・指導しておくべきで、その適切な監督行為がなかったところに過失が認められる。過失に対しては責めを負わなければならない。
またこうも言える。文書書き換えによって誰に利得があったのか。財務省全体が利益を得たのだとしたら、担当局長だけではなく省全体が応分の責任を分担すべきだ、と。分かりやすく言えば、手抜き工事によって利益を増やした会社の社長が工事の責任を問われるのと同じだ。
ただ、責任の程度は書き換えの行為者や指示者と同等とはいかない。行為者が減給ならば監督者は戒告とかになるだろう。政府も大臣に責任なしと強弁するよりは、責任を認めた上で辞めさせるほどのものではないと言うべきだ。
ただ、本当に知らなかったのかと言う疑問も起こる。過去、憲法改正について(だったか?)「ヒトラーに学べばよい」と発言した人だ。国会答弁と矛盾しないよう文書の表現を換えておけ、なんて指示がもしあったのなら、財務大臣の辞任だけでは済まない。ないと信じたい。(黄鶴)

3月14日「財務省はいつも正しい」
森友学園への土地売却に関し、財務省は会計検査院にも検察庁にも書き換え後の文書を提出していた。世間はこれを、世をあざむくもので非とするが、四方八方つじつまの合う最新の文書を手渡したのだ。新法は旧法を駆逐することに鑑みれば、正しいことなのだ。
そもそも、財務省は国家そのものである。司法立法行政の三権があり象徴としての天皇をいただくのが日本国家の姿と世間の人は思っているが、大違い。それは形として近代国家の必要十分条件を表面にそろえたに過ぎないものである。国民に錯覚を与えるために化けの皮として…、いや表現が悪い…、国としての形を整えるために表層に国会や大臣を置いているが、実質は財政・金融政策を考え実行する財務省が国家運営の主体である。国家百年の大計は財務省が考える。財務省は常に正しいのだ。他の人民はそれに黙って従っておればよい。与党政治家は国会運営上必要だからほどほどに利権を与え威張らせておくべし。必要なくなった議員は女性問題や脱税などの悪材料を暴露して落選させれば済むことだ。野党には大勢に影響のない些末な問題を与えて騒がせておけばよい。子供に玩具を与えるのと同じだ。
文書の書き換えと騒ぐが、政策の本筋は変わっていない。表現が換わるのは行政の形を整えるための当然のことで、小さいことなのだ。しかし、この騒ぎを静めることも必要だから、とりあえず誰か責任をとって辞職したことにしておこうか。辞職者に対しては、ほとぼりが冷めた頃に外郭団体の理事長や地方銀行の頭取などのポストを与えて損失補償すればいい。そのうち愚なる大衆はすべてを忘れる。
…なんてね、これが財務省の本音ではないことを祈る。(黄鶴)

3月13日「右舷砲戦、左舷見張り」
旧海軍の古訓にこういうのがあった。
自艦の右舷に敵を見て、砲をそちらに向けて撃っているときは、誰もが右舷に気を取られる。そっちから敵の砲弾が飛んでくるのだから、無理もない。しかし、そういう場合こそ左舷にも注意を怠らないようにせよという教えだ。誰もが眼前の問題にのみ意識を集中していては、それ以外の大問題に気づかないまま、対応できずに自滅する。誰かが冷静に全体を見渡していなければならない。左舷に敵潜水艦の潜望鏡があるかもしれないのだ。
森友関連文書の書き換えで野党が沸き立っている。財務大臣、総理の責任も追及したいところだろう。確かに、何のための書き換えだったかを考えるとき、書き換えによって救われた人たちは何の責任も取らず、書き換えた事務方だけが責められるのはおかしい。ではあるが、国内問題だけに気を取られて国際問題をないがしろにするようでは政党としての総合力が疑われる。自民党に代わって政権を担う能力があるのなら、今こそ北朝鮮の演出やそれに翻弄される米中を眺めながら、日本として進むべき道を、いまの国際社会に向かって言うべきことを、示してほしい。テンポラリーな敵失を大声で批判するだけの政党では国民の幅広い支持は得られない。たとえば立憲民主党は、政策の百貨店であること、それが堅固な組織から産み出されていることを、ことあるごとに表に出してほしい。(黄鶴)

3月12日「痛ましい」
事案の関係者から自殺者が出ないことを望むと書いた3月8日の、その翌日、近畿財務局職員の自殺が報じられた。報道によると国有地売却を担当した部署の職員であり昨年秋から病気を理由に休んでいたとか。死亡は7日のことで、私がブログを書いた時点ではすでに亡くなっていたのだ。何とも痛ましい。
報道では国有地売却との関連は不明とあったが、そりゃそうだ。事実が明らかにされていないので、そう伝えるほかない。推測記事は書けない。財務省としてもそこは伏せたいだろう。しかし、秋からの休暇、ここ数日の野党の追及、近畿財務局は広報していない…どころか遺族に対して公表しないでほしいと依頼した(記者会見における某記者の質問)、などを考え合わせると、無関係と言うには無理がある。
死に赴こうとする彼の胸に去来したのは何だったか。公務員として為してはならない行為に手を染めた、そのことへの反省、手を染めざるを得なかった圧力への恨み、己の弱い立場への悲しみ、ことの性質からしてすべてを言いたくても言えない憤り、一人ではかかえきれない政治的案件の重さ大きさ、その深い闇への恐怖、マスコミ報道などで日本中が大騒ぎになっていることからの圧迫感…。様々に沸き起こる思いは文言に尽くしがたいことだろう。特別の人間でない限り、そんな苦しみから逃れたい、楽になりたい、という方向に向かうものだ。辛かっただろう。本当に痛ましい。遠くその痛みを思いやることにより、供養にしたいと私は思う。
それにしても、本件は特異な事案が真面目な職員を1人殺したようなものだ。防ぐ手立てはなかったのか。職場として彼の荷物を軽くすることはできなかったのか。
外圧か内圧か知らないが、そもそも行政をねじ曲げさせた者がいるはずだ。それさえなければ、自殺もなかったのだ。そいつが憎い。どのような経緯でことが進んだのか、特捜部は詳しく解明してほしい。期待できるだろうか。また職場の上司は何をしていたのか。まさか自殺するとは…などとコメントするのでは、迂闊すぎる。組織の長は部下(という言葉は使いたくないのだが)職員の人生の一時期を預かっている。50人の部下の2年間を無駄にさせることは1人の人間を殺すことに等しい。ともに働く職員の心情を理解し、危機を察し、共感し、戦友として励ます毎日であれば、組織内の職員が孤独にさいなまれることもないはずだ。
重大事案・事件のたびに当事者の誰かが犠牲になる。政治家には何の罪科も及ばない。いやな世の中だ。(黄鶴)

3月09日「至誠」
至誠にもとるなかりしか。昭和の戦雲深い頃の海軍兵学校で唱えられていた五省の、冒頭の句である。至誠の念をもって人に接することが十分にできたであろうか、という反省の言葉だ。論語には三省があるが、こちらは五省だ。
森友文書の書き換え云々で国会が荒れているが、文書提出についての財務省の態度に私はふとこの言葉を思い出した。国会に提示された文書のほかに決裁文書があるのかないのか。財務省は答えない。答えないという答えがあるのを知り、老生には勉強になったのだが、公務員として、相手が国会議員であろうが一市民であろうが、国家機密でないかぎり政策意図やその根拠となった事実関係を詳しく説明し、その過程においては誠意をもって接するのが当然の務めではないか。それによって相互に信頼感が生まれる。役所に協力しようという意識も芽生える。こんな態度では不信感しか生まれない。敵を作るだけだ。昔の内務省、戦後の大蔵省は役所の中の役所、トップエリートだ。それだけに一般国民は目下の存在、知らしむなかれ従わしむるべし、なのかもしれないが、これでは困る。いったい誰のために存在する役所なのか。国民のために存在するのに国民をないがしろにしてどうするのか。「本件の特殊性」「特殊処理」と言うとその特殊性とは何だと野党から追及される、それがいやだから文言を削ったと想像するが、これぞ語るに落ちた。相当深い特殊事情があるのだ。疑惑は確信に変わった。役所は国民のためではなく時の政権のため・・・権力者の地位保全のために存在するのだということが、今回はっきりした。
海兵の五省は、言行に恥ずるなかりしか、気力に欠くるなかりしか、努力にうらみなかりしか、不精にわたるなかりしか、と続く。しかしそれは、個人としての人格形成に役立つかもしれないが、国際的に尊敬を集める海軍士官として人を大きく育てる場には不適当とおっしゃる将官もあったと聞く。(黄鶴)

3月08日「公文書の書き換え」
役人としての現役時代、決裁の取り直しというのは何回かあったように記憶する。
役所として何か仕事の方針を決定するときは、係で起案して文書にまとめ、課長、部長、最終決裁権者へと決裁文書を回す。あるいは急ぐときは持ち回りと称して起案者が文書を持って順次上司の決裁を仰いで回る。しかし、時には決裁を得たあとに事情が変わって方針変更せざるを得なくなり、はじめの文書を破棄して改めて決裁を取り直すこともある。このとき、新文書はもちろん旧文書とは内容も表現も異なる。書き換えといえば書き換えだ。私たちの場合は、旧決裁文書は廃棄の旨とその理由を明記して、一定期間保存していた。
近畿財務局における森友関連文書が書き換えられているのではないか、との報道がある。実態はわからないが、もし、上記のような事情変更による決裁の取り直しならば、何も問題はない。当局はすみやかに前後の事情を説明すれば済むことだ。しかし、説明に長引くということは、そうした合理的な根拠のある変更ではなくて、言うに言えない裏事情があってとか、なるべく表に出したくない理由があっての変更ではないかと疑ってしまう。そうであればなおさら、事実を白日の下にさらすことはできず、うやむやのまま歴史の闇に葬るほかないだろう。
表に出せない事情というのは、実は昔からあった。今もあるだろう。しかし、昔の社会はそういう裏事情をしかたのないものと許容していたのが、今はそこに寛容性がなくなり、不正とまでは言えない淀みのようなものまで存在が許されなくなってきた。そうしてギスギスした世の中になってきた。談合と呼ばれるリニア新幹線入札もそうだ。理屈どおり行動できない人間を理屈で縛る社会、それはもともと無理なのだ。せめて願う。歴史の闇に圧迫された自殺者が事案の関係者に出ないことを。(黄鶴)

3月07日「市会議員の力」
2017年12月議会の議事録が市のHPに載ったことから、2017年分の質疑・質問数がまとまった。
改選以来の2015年から3年分を眺めると、発言する議員はする、しない人はしない、その傾向がはっきりしている。そして、前年に発言しなかった人が今年は急に発言が増えたという事例はなく、発言する議員はいつもする、しない人はずっとしない、そういう姿が明らかになった。
年間を通して発言ゼロ、または1~2件という議員がいる。それは年齢には関係ないようだ。ため息が出る。議会で発言しないとはどういうことなのか。何のために市議会議員になり、誰のために議場に座っているのか。仮に健康上の理由があって活動できないならば、あるいは議員に当選したもののやってみたら自分はその任に堪えないようだとわかったのなら、速やかに辞職すべきだ。それが6人以上であれば補選もできる。市民の声を伝えられない議員に年間1千万円の報酬を払う必要はない。
また質疑・質問の傾向を見ると、議案に関する質疑はない(または僅少だ)がたまに一般質問だけはする、という議員も散見される。これにも疑問がある。一般質問が時宜に適した質問ならばよいが、常任委員会や本会議での議案に対して意見のない議員に限って、市民の需要からほど遠い一般質問をしている。答える市も誠に気の毒だ。議案について、いや何につけても同じだが、勉強すればそこに疑問が生まれるのが当然だ。疑問が生まれればその答えを知りたいと思うはずだ。発言がないというのは勉強していない証拠だ。彼らは議場に資料を持ち込むこともないし、持ってきても付箋も付いていない。
発言する、そのために勉強もする、その過程において力もつくだろう。質疑・質問数は、やはり議員の力を示す指標の一つだ。(黄鶴)

3月06日「仕事のABC」
先輩に教わった話に「仕事のABC」というのがある。『A:あたりまえのことを。B:ぼんやりせずに、C:ちゃんとやる』というものだ。これに私は、『そうすれば、D:誰でも、E:いい仕事ができる』と付け加えて、次の世代に引き継いだ。
DEはともかく、このABCは仕事の神髄をとらえている。何の仕事でも格別華やかなものはそんなにない。多くの場合、地味な仕事、当たり前のことを積み重ねていけば、そこにあでやかな花が開くものだ。基礎をしっかり押さえておけば事故もない。安全装具を付けなかったなどの基本を外れたところに事故は起きる。
ところで、最近の報道にはこのABCに外れたものが多くないか。裁量労働制に関する調査データに異常があるのを放置した厚労省もそうだ。異常なデータがあれば確認するという基本的な作業をなぜやらないのか。ここをちゃんとやっておけば、つまり基礎的なデータを正しく積み重ねて、そこから法則的事実や基礎的な問題点を引き出し、その対処法を考えていけば、そこに非の打ち所のない政策が産まれていたのではないか。裁量労働制の導入という結論には、なっていなかったのではないか。基礎的なしっかりした作業がないから、どこかから突っ込まれればすぐに崩れてしまう。
ただ、当たり前のことができない時もある。外力の働くときだ。「衆議院〇〇の秘書ですが」との電話は政治的外圧だ。政策を進めることによって既得権を失う団体からは贈り物攻勢や泣き落としもあるかもしれない。外圧が世論と一致していればよいが、必ずしもそうではない。声の大きい一部の団体の利益に過ぎないことが多い。役所の仕事が公正さを失ったら、その仕事も役所自体もこの社会に存在する意義はない。
「10歩進もうと思うときは、まず1歩進め」とは、別の先輩の言葉だった。激動の世でない限り、世の中を変えるにはそうするのが一番だ。(黄鶴)

3月05日「民泊不要」
本当に必要か。民泊は。
大阪西成区の殺人事件からこのかた、私は民泊不要論者となった。あんなもの、要らない。
なぜ民泊制度ができたのか。増え続ける外国人旅行者を収容する場所がないため、民間の空き家等を利用活用しようという発想だ。比較的安価な宿は若い外国人に歓迎されるだろうと。インバウンド期待もある。
ところが、だ。はっきり言うが、ホテル代もないような客、金を落とさない客にインバウンド効果が期待できるはずもない。あたりかまわず大声でわめく、路上にゴミを捨てる、犯罪を持ち込む・・・、エタイのしれない人間が大型バッグを持って観光地でもない普通の住宅地をうろつく・・・。環境破壊に地域社会破壊。何も良いことはない。
観光立国も良いが、日本を守るためには、来日する客には数と資格に制限を付すべきではなかろうか。その制限の一つとして宿泊価格を一定レベルに保つことも必要だ。これにより来日客の質を維持することができる。安く泊まりたい学生に対してはきちんとしたユースホステルのような施設で対応すべきだ。
どうしてもということであれば、ホテルに準じるような設備基準・運用基準を設け、きっちり規制すべきだ。規制があるとヤミ民泊が増えると大阪市長は言うが、規制のない今でも大阪市はヤミ民泊だらけではないか。市長は何もわかっていない。ヤミ民泊を始めようとする者は規制があろうがなかろうが関係ない。そもそも法の埒外に生きる者たちなのだ。
民泊に伴う犯罪は撲滅しなければならない。そのためには民泊制度自体をなくすべきだ。(黄鶴)

3月02日「訴えの利益②」
いずれ裁判で決着がつくのだろうが、高槻市を相手取った北岡市議の損害賠償請求訴訟には疑問が多い。
およそ裁判は訴えの利益がなければ提起することはできない。北岡議員の訴えの場合何が利益か。慰謝料10万円か。年収1千万円という庶民には高嶺の花の議員報酬があって、それでも不足か。いやこれは半分以上貧民のやっかみだが、まあ、とりあえず慰謝料を利益と認めよう。形として問題はない。
しかし、損害賠償請求の訴訟とは相手方に不法行為があってそのために損害が発生した場合に請求できるものである。不法行為とは法律に反する、いやそれに限らず広く社会的正義に反する行為をいう。報道によれば、議案の説明を求められなかったから市は特に行わなかったようだが、そこにどのような社会正義に反する行為が認められようか。要求がなかったから説明がなかった、それだけの話ではないか。事実関係を詳しく調べないと何とも言えないのだが、出発点に不法性についての同議員の錯誤がある場合、それに基づいた裁判提起によって本来は必要なかった仕事をさせられ、コスト発生を強いられる市こそ、同議員に対して損害賠償の請求をしてもらいたいくらいだ。また、そうでなくても忙しい裁判官も気の毒だ。市が勝訴すれば裁判費用はすべて北岡議員の負担になるだろうが、訴えがそもそも錯誤が原因であることと訴えによって多大な社会的コストが発生するとしたら、慰謝料10万円は訴えの利益と言えるのか、甚だ疑問に思われる。訴えによって守られるべきは社会正義ではないか。
さらに私は思う。市議会議員の活動の場は市議会である。そこで予算審議・条例改廃を通じて市民生活を創造することが市議会議員の仕事である。その過程では志を同じくする議員と協調し、組織的な活動によって目的を遂げることが望ましい。法廷を活動の場とし、自ら原告となって行政機関を糾弾するのは議員の本儀ではない。公務員に非違があれば、それは告発するとか監察担当に処理を任せればよい。議員と糾問機関とは社会的な役割が違う。活動の次元が違う。議員として黒白をつけるのは政策の果実の有無であって判決ではない。住民訴訟は、ほかに手段をもたない弱い立場の市民に与えられた行政との対決手段である。
また市議会議員は、公会計の効率化と行政の簡素化を目指さなければならない。その立場の者が自ら市役所に無駄な仕事をさせ、不要な経費を発生させることは、あってはならない。(黄鶴)

3月01日「訴えの利益①」
昨日夕方の民放TVで、北岡議員が高槻市を訴えたというニュースを聴いた。訴えの内容は、先の議会について議案の説明が自分だけになかった、これは差別だ、慰謝料10万円を払え、というものであった。そしてニュースは、「説明がなかったのは、これまで高槻市のさまざまな不正を追究して来た私への高槻市の意趣返しだ」との同議員の主張と、「説明要求がなかったのでやらなかっただけで要求があれば説明していた」との高槻市のコメントも紹介していた。
報道は両者の主張を紹介していて一応公平だったが、こうして報道されてみると訴えた方は正義の使者で訴えられた市は悪の権化だという印象を視聴者に与える。マスコミも判官びいきで、国や市が訴えられた場合は訴えた方が正しいような報道をしがちだ。この弊害を排除するためには、高槻市は通り一遍のものではなく原告以上の強いインパクトを視聴者に与えるコメント、勝つためのコメントを流す必要がある。事実はこうだったのだ、と。市民に第一印象を与えるとっかかりのニュースが勝負だ。知ってのとおり印象に流されやすい視聴者は多い。
訴えの内容は、12月議会の一般質問で同議員が取り上げた話と同一である。一般質問としては不適であると昨年12月25日のブログで私は申し上げた。そしてさらに、裁判としてはもっと不適であると今また言わざるを得ない。なぜ不適か。長くなるので明日に。(黄鶴)

2月28日「大阪都構想の愚」
時折、大阪都構想のニュースが流れる。維新が特別区の設定案をこのように考えている、などの内容だ。
まさに、バカバカしさ是に過ぎたるものはない。第一に、市を都に替えて何が変わるのか。第二に、3年前に否定されたことをなぜまた持ち出すのか。第三に、なぜにマスコミは愚にもつかぬことをニュースとして取り上げるのか。維新の愚かさに振り回される大阪市民・府民はたまったものではない。
第一。行政制度を少々変更しても何の益もない。行政に携わる人間が変わらず、歳入歳出の総体的構造が変わらないのであれば、市民・府民の生活は変わらない。つまらないことに頭を使うよりも、基本的な産業活性化の方策を考えるべきだ。IRだの万博だのといった虚業や一時的なお祭り騒ぎでは市民生活に及ぼす波及効果も小さい。
第二。ひとたび住民投票で決定したことは尊重すべきだ。住民は方法論に不満があったのではない。制度の根本的な誤りをみてNoと言ったのだ。投票結果を否定するのは民主主義の否定であって、あってはならないことだ。すでに行政の停滞が発生している。そのことを顧慮すべきだ。少しの差だったから再度行う?では、次の住民投票において僅差で可決した場合、反対派が要求したらまた行うのか。市長選挙において都構想を掲げて当選したから、これは市民の支持を得たことだ、だから都構想検討作業を進める?是も誤りだ。否決されたことを再度持ち出すこと自体が罪悪なのだ。選挙で支持を得たことは免罪符にはならない。選挙民が声をそろえても悪を正とすることはできない。みんなで渡ったとしても赤信号は赤信号なのだ。その自覚がないことからして、愚かしい。
第三。何度もいうが、維新を忘れさせないために週に一度は府知事をTVに出せとか、維新の活動を取り上げろとか、マスコミは何かの圧力を受けているのか。ほかに伝えるべきことはあるだろうに、マスコミはいつもどこかのイメージ作戦のお先棒を担いでいる。見聞きしたくないニュースにふれさせられるのは辛い。
本当に腹立たしい昨今だ。(黄鶴)

2月27日「合理主義から外れたもの」
この頃、国会が変わった。以前はイデオロギーの競合の場であったのが今は合理主義とそれに反するものの衝突の場となった。
かつての国会……。自由民主、社会、共産。党名がそのまま主義主張を表し、聞かせる議論がそこにはあった。その議論の内容は若い人の勉強の材料にもなった。そして議論を通じて少数政党の主張も取り入れられた政策が産まれ、日本は社会主義国以上に社会主義的な福祉国家になっていった。昭和はそんな時代だった。
今は、立憲民主党その他野党の合理的な問いかけに対する与党の……なんと表現すればいいのだろうか……公論を許さぬ一方的な私論の押しつけと結論への強引な運び方の場、それが国会となっている。あるいは、理と情の相克といってもよい。例えば憲法改正については、理念をたずねる者とやみくもに改正を求める情動を含む者との対立があり、モリカケに関する真実を追求する理と問答無用として議論を遮る情念の衝突がある。裁量労働制推進の明確な根拠を求める野党とそれを示せないまま法案成立を急ぐ与党の対立がある。今の国会における多数派は合理主義に反する者たちであるため、そこから産まれる政策に期待できるものは何もない。
この頃、世の中も変わった。電車に乗れば、本を開いている人は希で、ほとんどがスマホに目をやる。そしてスマホで何を見ているかといえば、LineにE-mail、Twitter である。それらに論理性はない。感情的な短文には起承転結も論理の展開もない。このような環境では人は考える習慣を捨て去る。
思えばこの両者は似ている。忖度はするが物事の理を考えない国会、良し悪しよりも好き嫌いで動く社会。国会が社会の縮図だとすれば、合理的なものの見えない民が情に訴える政治家たちの策謀に乗る、言い換えれば非合理的な民が非合理的な政府を支持する、これは自然の流れだ。当然の理だ。しかしそれでは日本はまた80年前に突き進んだ道をたどることになる。もうひとつ憂うべきは、愚民が愚政を選ぶ、そのことによって我が身の栄達を可能にする者が多数出現することだ。(黄鶴)

2月23日「高齢者の労働」
働き方改革に関する資料の中には、高齢者の6割が65歳以後も働きたいとの国立社会保障・人口問題研究所の資料を引用するものもあった(https://bowgl.com/2017/09/07/work-style-reformation/)。 しかし実態は約2割が就労しているに過ぎないので、高齢者を活用すればもっと労働力人口は増えるとの主張である。
65歳以後も働きたいと、6割の人が考えている……、それを生きがいを求める姿と、政府中枢は信じているのだろうか。これはとんでもない話だ。知力体力の衰えた状態でなお生きがいを求めて働きたいという人は、絶対いないとは言わないが僅少だ。もうのんびりしたい、遊びたい、しかし生活のためには働かざるを得ない、そういう事情をもつひとが高齢者の6割いると解釈すべきだ。そして実際に働いて家計を支えている、そういう人が2割だと思うべきだ。
働かないで生きてゆける年金があれば、誰だって働きたいとは思わない。十分な年金がないことが高齢者労働のそもそもの端緒ではないか。年金行政の貧困を放置したままの働き方改革だ。
長い間働いて家族や国を支えた人に、生活できるだけの年金を与えない、そうして、生活に困った高齢者が仕事をせざるを得ない状況を作り出す、実にあくどいやり方ではないか。年金財政は助かる、労働需給は緩和される、実に一石二鳥だ。(黄鶴)

2月22日 「国のための人か、人のための国か」
双務的な関係でもあって単純な話ではないが、働き方改革についての説明ぶり(例えば官邸資料「働き方改革実行計画(概要)」:https://www.kantei.go.jp/jp/headline/pdf/20170328/05.pdf)を読むと、国民のためを装った国家のための方策と思えてならない。
この資料には、「働く人の視点に立った働き方改革の意義」「同一労働同一賃金など非正規雇用の処遇改善」「女性・若者の人材育成など活躍しやすい環境整備」「長時間労働の是正」など、労働者にはおいしい話がずらりと並んでいる。しかし、こういうきれいな文言が並べば並ぶほど、その奥に隠されたものが大きく黒く見えて来るのだ。
かつて我々戦後世代は、考えるよりも覚える教育を受け、機械の操作その他先輩の仕事ぶりを見て覚えるのが得意な産業戦士として育て上げられ、比較的安価で高質な労働力はやがて奇跡的な高度成長の原動力となって、日本という国は経済力世界第二位の地位を得た。今もその構図は変わらず、働き方改革の名の下に人は日本産業の繁栄のために最適労働者として改造されつつある。そして、使われっぱなしのままうち捨てられるのだ。繁栄の果実が労働者にも応分に配分されればよいのだが、そうはなっていない。そこが疑問の起こる源だ。
労働力確保によって企業が力をつけることは、労働者が豊かになるため、あるいは豊かさを維持するための方策かもしれない。しかし日本は豊かになることを急ぎすぎてこなかったか。金銭的豊かさだけを求めすぎてこなかったか。ふとそう思い始めたのは、ドイツの国土を上空から眺めた時だった。どこまでも広がる大地。黒い森を切り開いた豊かな農地、そのあちこちに集まる赤い屋根の民家、中心付近の尖塔のある教会、大都会には工場群。農工のバランスのとれた国の姿が、そのまま上空から見えた。
確かに幾分かは豊かになった。しかし、真の豊かさがあるのか。食料も安全保障も他国に依存した薄氷の上の繁栄だ。個人レベルでは、必ずしも十分ではない収入は教育費や住居費に消える。また、本当に幸せか。この日本で、人は人として生きているのか。
昭和27年辰年の文字が踊る暦が台所の壁に貼られていた。赤々と燃える竈にかかった羽釜からは湯気が立ち、その前には大中小の幼児がうじゃうじゃと座っていた。そしてそれを眺める親の姿があった。貧しいけれど、そこには幸せがあった。
国策に沿って働き方を改める、それを鵜呑みにしてよいのか。(黄鶴)

2月21日「働き方改革、ここがおかしい」
働き方改革が必要とされているそうだ。なぜか。将来的に労働力人口(15~64歳)の減少が見込まれる。たとえば2060年には4500万人を割り込む。労働力不足になる。だから、生産性を上げなければいけない、高齢者を働かせなければならない、そのための改革なのだそうだ。
ちょっと待て。前提条件に疑問がある。人口減少を既定のことと考えるのはおかしい。以前にも言ったが、そもそも人口減少そのものが失政の結果ではないか。それを棚に上げて働き方改革を言うのは変だ。2017年9月1日現在の確定値で、日本の人口は対前年で36万7千人減少している。高槻市1個分が毎年日本から消滅しているのだ。これに対する危機感はもっと大きくてよいのに、政府首脳の顔からはそれは窺えない。政府は一方で希望出生率を1.8とし、そのための施策を打ち出しているとも聞くが、1.8ではなく2以上の出生率とする目標を掲げ、その実現を図ることに力を注ぐべきではないか。長時間労働などの悪しき労働環境を否定することは、その方策にもなるのだが。
それから、労働力は本当に不足するのか。過大なGDPを想定し、それを達成するための労働力は不足すると考えているのではないのか。仮に将来、労働力人口が減少するとしても、同時に人口総数も減る。そのときに見込まれるGDPをそれ相応に減らせば、労働者1人当たりの負担は同じではないか(非労働力人口の相対的増加があるが大きな負担にはならない)。それを労働力不足というのか。
人口減少の原因は何だ。若い人が家庭を持ち、子供を持つことを諦めているからだ。それは伝統的家庭観とは違う考えの人が増えていることもあるが、それだけではない。今現在、家庭を支えるに足る収入がなく、さらに将来にも不安があるからだ。なぜこうなった?グローバル社会への移行に失敗した、言い方を変えれば、比較的低技術のものづくりなど従来の産業をアジアアフリカ諸国に奪われ、新しい産業育成を怠った自民党政府のせいじゃないか。
過去の失政を放置し、その上にまた間違った政策を展開する愚かさ。日本が発展する道をなぜ拓けないのか。多くの人に持続的な仕事を与える新しい産業政策がなぜ出てこないのか。悲しい限りだ。(黄鶴)

2月20日 「働かせ方改革」
「それだけではギラつくので、何かほかの飴のようなソフトなものも追加できないか」
昔、私は政策立案を主とする企画業務に携わっていた。で、ある年、ある画期的な内容を予算に盛り込もうとしたときに、時の上司が口にしたのが冒頭の言葉だった。あとで聞いたら、議会対策をも念頭に置いた指示だった。
働き方改革と政府は言う。マスコミもそう言う。しかしとんでもない。働かせ方改革であるのは賢い国民は先刻ご承知だ。2015年に労働者派遣法が改悪され、派遣社員は3年ごとに人間を換えれば、企業はずっと派遣社員を雇えることになった。企業にとっては総労務費抑制になるので福音だ。この流れの上に今回の裁量労働制があって、若干の超過勤務込みの給料を払えば時間は無制限に働かせることができるから、企業にとってこれは便利な制度だ。「労働者は柔軟な働き方を選択できる」などと政府側は言うが、羊頭狗肉、ウナギの蒲焼きの隣に置かれたアオダイショウの蒲焼きの宣伝文句だ。こんな言葉に騙されてはいけない。
企業のお先棒を担ぐ政府は、本当はこの制度の導入だけでよいのだが、それでは「ギラつく」ので、一般社員の超過勤務抑制や非正規・正規社員の格差是正を加えたのだろう。いずれ会社では、この裁量労働制を選択せざるをえないような無言の圧力が強くなるのは目に見えている。
ついでながら、裁量労働制の方が一般労働者よりも勤務時間が少ないかのような答弁があって、一応撤回はされたが、私はそもそもそういう答弁ができる感覚を疑いたい。企画業務の何たるかが、全くわかっていない。その業務のための勤務時間が一般労働よりも短いはずがないのだ。一応勤務先にいる時間が労働時間なのだろうが、そういう職種にいれば、通勤中も、子供をあやしながらも、仕事のことばかり考えるものだ。考えて、考えて、俺には無理だ、わからん……と、諦めて風呂に入ったときにひらめいたり、夢の中で答えを見つけたり、そういう職種だから一日24時間すべてが労働時間のようなものなのだ。(黄鶴)

2月19日「今村市長」
心底驚いた。こんな男が市長だったとは。西宮市民はこんな男を市長に選んでいたとは。
今村氏についてはとかくの噂があった。しかし、新時代を切り開く者が型破りであるのは古今に例が多い。市民を思う熱情があり市政上の問題を解決させようとする努力があれば、大抵のことは許されよう。私も、私的な蛮行と前例にこだわらない市長としての善行を秤にかければ善行のほうが大きいと思っていた。しかし、給与減額の条例が上程され、それが議会を通る見込みが大となった途端に辞職願を出すとは。たった700万円のために男を下げるとは。学歴は京都大学法学部卒と聞くが、恐れ入った。一挙にメッキが剥げた。誰のために市長をやっていたのか。選んでくれた有権者をなんと思っているのか。
もうひとつ。何の選挙であれ、有権者のほとんどは候補者について何も知らずに投票している、今回のこともその例となってしまった。過去の高槻市議選でもそうであり、おそらく今後も変わらないだろうと予測できるのだが、有権者は虚像に対して投票する。選挙公報、顔写真、選挙カーからの声、それ以外に候補者の人となりを知る方法はない。普通の人間ならば、2週間くらいは「いい人」を演じることは難しくない。年収1千万×4年間のためならば、朝8時から駅頭に立つことなぞ苦労でも何でもない。演技を重ね、有能な首長・議員のふりをする。そうして票を集める。
騙されないために、何か方法はないか。立候補者に試験を課すこともいいだろう。市役所に就職するのに試験があるのだから、市議会に立候補するのに試験がないのはおかしい。地方自治法などの法知識、人物試験などあってもよい。あるいは、選挙期間を長くするとか。または、選挙の前に市議として活動していたのであれば、その実績を客観的に評価する機関があるのも悪くない。(黄鶴

2月18日「再生作業中です」
昨年末、突如として私たちのホームページに不具合が発生しました。不審な書き込みのあるファイルが多数あり、表示不能になりました。どこかから攻撃を受けたのか?あるいは他へのサイバー攻撃の足がかりとして防御の弱い個人HPが狙われたのか?……そういえば、国籍不明のアクセスもけっこうありました。まあ、いろんな可能性がありますが、壊れたら修理する、修理不能ならまた初めから作り直す、はい、不屈の闘志をもってこのページを維持し続けます。こんなことを書かれては都合が悪いとおっしゃる議員さんもいるかもしれませんが。(管理人)

2月16日「ホームページ再生」
高槻市議会議員の活動状況を材料にしたHPを作って3年半。閲覧数も延べ5万人を超えたころ、サイト表示に不具合が発生しました。
ですが負けずに、不屈の闘志をもって新たにHPを立ち上げました。

風を受け流す柳の葉のように飄々と、さらに続けます。議員の仕事ぶりを、間違った方向への走りっぷりを、あるいは休眠の姿を伝えることを。

2月7日「これを維新の愚政という」
なぜ「維新の愚政」と称するのか。それは新岸和田市長の宣言した「市長給与30%ダウン」に端的に表れている。
なぜ30%なのか。なぜ40%ではないのか。財政窮乏に対するのなら削減額は多い方がいいではないか。また、なぜ市長だけなのか。市議会議員、副市長や部長級は削減しないのか。議会に対してどのように説明できるのか……。疑問はいっぱいある。
およそ政策とは、しっかりした根拠が必要で、その政策を必要とする環境にぴたり適合したものでなければならないし、コストに見合う政策の果実が見込まれるものでなければならない。給与削減30%の、その数字の根拠は何なのか。またその削減がどれだけ財政改善に寄与するのか。こうしたことが明確でない以上、市長給与削減は思い付きのスタンドプレーと言わざるを得ない。政策の構造と立案プロセスに対する哲学を持たないことを、この30%削減発言が示しているのだ。これから先の政策の展開がどのような者になるか、思いやられる。
また、こうも言える。給与体系とは職員の責任の度合いに応じてその額を増減させるものである。市長の責任は言うまでもなく重い。それ相応の額があって当然だ。それを削減するのは給与体系の破壊になる。減らせばよいというものではない。
それとも、そういう行政の合理性から離れたところに維新政治があるというのなら、それもよいだろう。しかしそういう世界は維新の会内部だけにとどめ、市民の生活を破壊するのはやめてもらいたい。

2月6日「これでも選挙か」
31.4%の投票率、有権者総数に対する支持率12.5%で、新しい市長が誕生した。ところは岸和田市。
これを民主主義の下における選挙と呼べるのか。7割の有権者にボイコットされ、ほぼ9割の有権者が支持しなくて、それでも市長になれる、この制度はどうして問題視されないのか。投票率の低い、民意を十分に表していない選挙は無効としてやり直すべきではないか。ことは岸和田に限らない。日本全国どこでもそうだ。高槻でも同じことが起きるだろう。これはおかしいと思うが、比較多数で権力を握った者たちが、自ら権力を手放す方向に制度改正をするはずもなく、ここに耐えがたいもどかしさが残る。しかし制度をこのまま放置しておけば、特段何も言わなくても自分たちとは関係のないところで常に政治は動いていくのだとの意識を助長し、何か言っても何も変わらないとの諦念を市民に生んでしまう。多くの人が参加しないと政治は動かないんだよと思わせる制度を作ることが是非必要なのだ。
この岸和田で新市長になったのは維新の候補だった。気の毒なことに、リコールしない限りこれから4年間は岸和田に維新の愚政・暴政が続くのだが、高槻で同じことが起きないようにするにはどうすればよいか。それは岸和田での選挙結果が示している。まず、候補者の乱立を防ぎ、維新対反維新の一騎打ちの構図を作ることだ。岸和田でも、投票者の4割が維新支持、6割が非維新支持だ。岸和田で非維新候補者の一本化ができていれば維新市長の誕生はなかった。次に投票率を上げること。市長選挙のテーマを明確にし、市民の関心を呼び起こすことだ。まやかしだらけの維新の姿をあらわにすることも必要だ。現状では熱心な維新支持派は投票し、選挙に関心を持たない非維新支持者は棄権している。その結果、維新が比較多数となり、多くの市民に支持されてもいない者が全市民の生活に影響を与えるポストにつく。これでいいはずがない。
ところで、なぜ「維新の愚政」と私が言うのか。それは、また明日。(黄鶴)

2月05日「要望で終わるな その2」
今なぜ議会本来の強さを発揮できていないのか。その原因にいろいろある。
一つには、議員自身が役割を認識していない。主権がお上にあった時代の官主民従の風潮に染まった先輩議員のやり方に今なお盲従し、地方自治法の下での自らの役割を知らない、それを考えることもない議員が多すぎるのだ。それが質疑の端々に見える。
二つ目。市長与党の会派が多すぎる。年度初めの代表質問で、市長を全面的に応援します……との趣旨の発言を聞いたときは驚いた。これでは、すべての政策の企画立案・実行・検証を市役所に委託し、自分は何もしない局外者になってしまう。そのことを宣言しているのだ。
三つ目。一部の議員を除き、能力不足が目立つ。政策立案能力がない以上、能力のある事務局に要望するしか方法がないのも、無理からぬ話だ。
まだある。四つ目。議会が組織化された強さを持っていない。望むらくは、各議員が何らかの高度な専門知識・技術をもち、同類の知識・技術を持つ人がそれぞれ集まって、教育・産業・危機管理・法政一般などの委員会を作る、そういう組織化だ。そこで各種の要望事項を条例案などにまとめることができれば、へりくだった要望などしなくてもよい。いま、各種の委員会はある。しかしそこで行われているのは、市の提案物の審議であって、2017年9月議会における審議時間は1案件あたり約16分という短さだ。これでいいのだろうか。

2月02日「要望で終わるな」
市議会だよりにも紹介されているが、市議会の一般質問において、だいたいの議員が三問目まで質問し、その三問目は要望で終わることが多い。私はここに違和感を覚える。要望が聞き届けられているのか、市はそれを聞きっぱなしにしているのではないかとの疑念も消えないが、それよりも、その要望の姿勢が、村人の気持ちを汲んでお役人様に土下座してお願いを言上する庄屋の姿に重なってしまうのだ(しばしば誤解されているが江戸時代の庄屋は村役人ではない。農民の中でその資格ありと認められた者が藩から任命される)。
議員は市長にお願いをする立場なのか。違う。要望なら誰でもできる。何も議員でなくてもよい。議員は二元代表制の一方であって、市長と相対する会の構成なのだ。だから、地方自治法に議会の仕事として定めるとおり、条例の制定や予算の承認の形をもって市民の要望の具現化を図るべきなのだ。今の高槻市議会の定員ならば3人集まれば条例案の提出はできる(地方自治法第112条)。予算については、提案はできないが、市民の要望に沿ったものではないと考えればこれを否認し、要望に合致する修正案が出されれば承認する、そういうことによって要望を満たせばよい。予算とは政策の数的な表現なのだ。
今なぜ「要望します」が多いのか。議会本来の強さを発揮できていないのか。いろいろ原因が考えられる。

2月01日「二重行政解消?」
もはや用済みの老人が、毎日のように社会の片隅で小さな声を上げているが、こんなことをして何になるのか。時々、そう思わないわけでもない。しかし世のありようはあまりにお粗末で、黙ってはおれないのだ。間違った世の中を孫の世代に残したまま死にたくはない。少なくとも一石を投じてから死にたいものだ。それに私ひとりでは小さな声でも、このネットの時代、たくさん集まれば大きな声になるではないか。
それで言いたいのが大阪市住吉区の市立病院の閉鎖という件だ。維新市政はこれを廃止するという。近くに府立病院があって、府立と私立の二つがあるのは二重行政である、二重行政は無駄だから府立病院を拡充させて私立病院をつぶすとの主旨らしい。
何という愚かなことを。府政といい市政といい維新の愚政は生ある細いものを牛刀で断ち切ることに何のためらいもない。一方で万博とかの無駄使いには余念がない。この病院の場合は、長らく府立病院と共生してきた間に、地域的にあるいは専門科目的に自ずと棲み分け構造ができていたはずだ。同じ診療科目があったとしても、実は医師によりさらなる細かい分野ごとの得意不得意もある。全く同じことをやっているのなら二重と言えないこともないが、それでも病院が二つあるのは、患者にとっては選択の幅があることになる。病院の競争関係もできるわけで、患者にとっては望ましいことだ。
政治は困った人を救うことがその使命ではないのか。困った人を増やしてどうするのか。ドラマに出てくる(現実にはいなかった)悪代官以下の所業である。市立病院廃止によって維新は支持者を失うことになろうが、その点でも愚かと言わざるをえない。
二重行政廃止よりも、万博をやめたほうがいい。赤字になってその補填を府民の税金に求めることになるのは必至だ。赤字にならないという成算があるのなら、きちんとその根拠を示してほしい。いったい何百万人集まるだろうか。上海に集まった中国国民と同じビヘイビアを政治体制も違い意識レベルも違う今の日本人に要求するなら、それこそ愚の骨頂なのだ。企業も今や万博で何かを展示する時代ではないと悟っているはずだ。万博に使う金があるのなら、その金は従業員への賃金増の原資としたほうが有り難い。

1月31日「市議会だより その功罪」
たかつきDAYS2月号に「市議会だより」がはさみこまれていた。No.246である。
市議会だよりは何を伝えることが使命なのか。それはもちろん、市議会がどう働いているかを市民に知らしめることだろう。No.246では12月定例会につき、どのような日程でどのような議案を審議したかを示し、議案審議や一般質問についてはその内容にふれると同時に、単に市の政策のPRにとどまらないように議員の主張も紹介している。議会の動きを伝えるという趣旨では、ひととおり役目をこなしているように見受けられる。
だがしかし、不満がある。誰が、という要素がいっさい排除されているのだ。どのページも質問者は「議員」と書いてあるだけで議員の固有名詞はない。これでは仕事をしている議員も居眠りをしている議員も同列の扱いではないか。どのような質問をしたか、それは議員の勲章だ。勲章は功績のあった人に贈られるべきで、怠惰な者におすそ分けすべきものではない。現状の市議会だよりでは、怠惰な議員がその惨状をあらわにしないために有能な議員の仕事ぶりを覆い隠しているとしか思えない。伝達要素不十分な出版物が税金を使って市民に配布されている。それがずっと続いてきた。
それとも、「誰が」という要素は各議員の発行するメディアで表せばよいということか。しかし個人的なお便りのようなものは広く市民全体に配布されることはなく、一部の支持者にしか伝わらないおそれがある。
次の図は、前期の議員が2011年6月期から2015年3月期までの4年間にどれだけ質疑・質問を行ったか、その実績を横軸に置き、縦軸にはその直後の2015年選挙でどれだけの支持票を得たかを示したものである(新規立候補者は質疑・質問数をゼロとした)。一見しておわかりのとおり、仕事ぶりは得票数に関係ない。議会としてまっとうな報道をしなかったために、高槻市議会は、高槻市は、3年前のあのとき、極めて有能な議員を失っていたと言えないか。(黄鶴)

1月22日 「12月議会一般質問 インフラ整備その他」
御島媼「インフラとして、ほかには?」
かえで「あらま!早速覚えたわね、新しい言葉を」
御島媼「それはそうじゃ。新時代に慣れていかないと800年も生きられぬ」
かえで「ほかに、田村規子議員が道路について」
御島媼「高槻は古い町だけに、狭い道路が多かったからな。」
かえで「なかでも富田・奈佐原線がひどいって」
御島媼「どこのことじゃろか?」
かえで「上空を飛んでいるとき、この道路は混雑してるなって思うところ、ない?」
御島媼「あるある。JR摂津富田駅から北に上っていって、国道171号線までは最近きれいになったけど、その国道から北側、巡礼橋あたりまで、ありゃひどい」
かえで「そうそう、そこよ!」
御島媼「察するに、その道路の改善を進言したのじゃな」
かえで「そのとぉ~り」
御島媼「それぐらい言わないと議員ではない」
かえで「歩行者は電柱の陰に身を潜めるとかして、自分で安全を確保しなくちゃいけないとか」
御島媼「あの道路では、殉職者もいるからなぁ…。気の毒に」
かえで「うん、死者も出てるって質問の中にあった」
御島媼「だいぶ昔の話じゃがな。ということは、何十年も危険なまま放置されていたわけじゃ」
かえで「放置、じゃないと思うんだけどね。都市計画道路の中に入っていたんだけど進展していなかった。現にそこに住んでいる人も多いし。通行者の利便と居住者の利便と、そのバランスをどうするか…」
御島媼「そこが政治というものじゃ。相対立する二つのものの調整をいかに図るか」
かえで「それが全く進んでいないということは、何十年も市政が機能していなかったということね」
御島媼「そういうことになる」
かえで「車は一方通行にするっていう方法もあると思うけど、議論の中には出てこなかったわ」
御島媼「結局のところ、こういうことではないかな?それは問題ではあるが、現地においては車がゆっくり走っているとかそれなりに調和がとれていて、この財政難の中では優先的な課題ではない、と。そりゃもちろん、車も人も安心して通行できるゆったりした交通空間を造られれば理想的じゃが、あの富田の街では不可能じゃ。ステイクホルダーとなる住民が多すぎて解決不可能じゃ」
かえで「で、一つ感じたのだけどね、問題の指摘はいいんだけど、解決策を提案しなければ一般質問とは言えないんじゃないかしら。早期に着手してほしいのは当然なんだけど、どうやって?」
御島媼「ふむ。提案がなければ、質問のための質問でしかないかもなぁ」
かえで「質問のやり方も、問題の深刻さをもっと強く訴えるための工夫とか、あってもいいと思ったわ。それからね、別の話だけど」
御島媼「はいはい」
かえで「三井泰之議員が地域包括ケアシステムについて質問したの」
御島媼「ふむ」
かえで「これは、数年後には本当に大変になる差し迫った問題だし、良い質問だと思ったけど」
御島媼「けど?」
かえで「原稿棒読みでね、ほかの議員もそういう人が多いんだけど、三井議員の肉声とは聞こえない、というか、文章が耳にさらさら流れるだけで、問題が問題として迫ってこないのよ。聞いていて、なんだか眠くなっちゃう」
御島媼「高木議員も原稿を手にしたままじゃが、抑揚とか、どこか違うなぁ。自分の言葉をもって市に迫っておる」
かえで「そうでしょ?そこがね、ちょっと不満。さらさら読めるってことは、自分の言葉なんでしょうけどね」
御島媼「ふむ」
かえで「それから、まったく別の話だけど、最後列のベテラン議員、眠ってるとしか思えない人がいるわね」
御島媼「若い議員もそうじゃがね。天井を仰いで寝ていた議員もいたよ、選挙活動に忙しい時期じゃったがな。まこと、一般質問の日は、質問者と答弁者の市の理事、それと議長と事務局だけが存在感があるよなぁ。それ以外の議員はただ座っているだけで、あれは本当に何をしに議会に来ているのやら。」
かえで「ヤジもなくて上品なのはいいんだけど、他の議員も関連質問をするとか、議会活性化の方法を考えてもいいのじゃないかしら?」
御島媼「おや、もう昼時か」
かえで「うん、じゃ、またね」

119日「12月議会一般質問 インフラ」
御島媼「ほかに興味を持った話はなかったかの?」
かえで「そう、インフラね」
御島媼「インフラとは何じゃ」
かえで「infrastructure、直訳すると下部構造。Structureにinfraという接頭語が付いた合成語なのよ。市民の生活の基盤となるものね」
御島媼「社会資本と言えばよいものを。では上部構造は英語で何と?赤外線、紫外線がinfra-red, ultra-violetじゃから、ultra-structureかや?」
かえで「ふふ、残念。Superstructureというのよ」
御島媼「これじゃから外つ国の言葉は嫌いじゃ。して、その社会資本に関する質問とはどのような?」
かえで「まず吉田章浩議員と中村玲子議員が質問した水道の話」
御島媼「ふむ。水道管の老朽化とか、問題が多そうじゃな」
かえで「そう。耐震化とかのために、これから40年間に800億円の経費が必要になるんだって。だけど高槻の場合は健全経営が続くらしいの」
御島媼「そりゃ安心じゃ。水の安定供給、健全経営、両方必要じゃ」
かえで「水道局庁舎の建て替えも部内留保金でやるって話よ」
御島媼「そんなに儲かっておったのか。で、いくら貯めてあった?」
かえで「その具体的な数字の説明はなかったわ。中村議員が質問してたけどね。はぐらかされちゃった」
御島媼「公企業といえば常に民営化の話がつきまとうのじゃが…」
かえで「うん、その質問も中村議員がしてた。民営化の方針があるのかと」
御島媼「答えは?」
かえで「当面ないって。公的責務をになう事業だから直営が適切であるって。だけどね、大阪府や水道企業団の動向をみながら協調・連携を進めるって、なんかね、将来に含みを残していたわ」
御島媼「それは気になる。目を離せないことじゃなぁ。外つ国にはな、水道を民営化したあげく、その企業が外国の資本に買収され、値上げやら何やら好き放題にされ市民が煮え湯を飲んだ事例があるからな。気をつけないとな。民営化こそ絶対的な正義であると信じる政治集団も大阪にあることじゃし」
かえで「答弁の中に新事実を発見するってことがね、傍聴してるとたまにあって、これが面白いの。今の水道庁舎の南側に高槻警察署が移転する計画があるとか」
御島媼「そうか。高槻警察署も古いからのぉ。よくまあ、今まで我慢してきたものじゃ。警察官も偉いぞよ」

118日「12月議会一般質問 貧困」
かえで「灰垣和美議員が昨年9月議会と同じ質問をしてたわ」
御島媼「ふむふむ」
かえで「子どもの貧困とか地域ぐるみの子育てへの高齢者の参加とか。それがね、質問項目の名称としては一字一句同じ表現で」
御島媼「同じ議員が同じ問題意識をもって政治活動を続ける、それは一般的には信念ある行動じゃよ」
かえで「有権者もその活動を支持してるんだものね。せっかく投票したのに選挙の時とそのあとで活動方針が変わったら困る」
御島媼「それを顧みない議員もいるけどなぁ」
かえで「灰垣議員、子どもの貧困については昨年9月は子供食堂についての質問だったけど、今回はその後の市のフォローの状態とか…」
御島媼「良いことではないか。そういう追求質問があるとなれば市も『検討します』と一時的に逃げるわけにいかなくなる。何らかの結論を出さざるを得なくなる。だいたい役人の『検討します』は、何もしないということじゃからな」
かえで「それから独り親家庭への支援とかね、昨年9月とは違った観点からの質問だったわ」
御島媼「ふむふむ。しかしなぁ、子どもの貧困とは親の貧困であってな、産業・経済情勢・社会構造、さまざまな原因がからんだ結果の状況じゃ。すべての政策の究極の目的が貧困からの脱出であって、これは言い始めたらきりがない。そしてほとんどは国の仕事であって地方の対症療法には限度がある。じゃから質問にも自ずから制限が加わるなぁ」
かえで「答弁の中で、おやっと思ったのは、妊婦のうち3~4割が何らかの支援を要する状態だってこと」
御島媼「質問がなければそういう答弁もなかったわけじゃ」
かえで「こどもは社会の宝なのに、育てる態勢に不安がある、そういう母親が3~4割も。何とも寒々とした状景だわね」
御島媼「じゃから、地域社会の中で子育て経験のある高齢者が、生き甲斐を得るためにも近所の独り親家庭の支援をするべき、そういう主張は理解できるわな」
かえで「もう子育ても終わったのに、他人の子供まで面倒見きれない、という爺婆もいるかも」
御島媼「ふふ」
かえで「ま、ともかくね、今回の質問は高齢者の子育て支援の部分は前回と同工異曲という感じだった。私はね」

117日「12月議会一般質問 図書館2」
御島媼「雨に濡れて、風邪を引いたようでな、わらわの声が変じゃ。それで、イカイの話の続きじゃが…」
かえで「異界?あ、議会ね。移動図書館について宮本雄一郎議員も追求していたの」
御島媼「追求かな?追及かな?」
かえで「どっちも。図書館の理想像を追求し、市の責任を追及してたの」
御島媼「なるほど。彼も高槻市議会には数少ない論客の一人じゃなぁ」
かえで「宮本議員の一般質問は面白かった」
御島媼「うんうん、そうじゃろぉ」
かえで「図書館協議会の経過を説明、というか、暴露していたんだけどね、市は移動図書館廃止後の方針としてまちごと図書館を設置すると話を持ち出したところ、協議会で猛反発をくらって…」 御島媼「むべなるかな」
かえで「それで市は、事務局案が『移動図書館は廃止の結論に達した』となっていたのを『やむなく休止』と表現を替えたんだってさ」
御島媼「ふむふむ」
かえで「移動図書館は廃止なのか休止なのかとの宮本議員の質問に対して、市は何ともはっきり言わないのよ」
御島媼「廃止という本音を隠しておるのじゃな」
かえで「こうも答弁してたわ。『協議会の意見を踏まえてまちごと図書館の準備を進めていく』って」
御島媼「やっぱり移動図書館は廃止じゃな、その言い方では」
かえで「だけど協議会の意見は存続なのよ。その意見を踏まえるならば…」
御島媼「踏まえて…の意味がな、どうも協議会の意見を足で踏みつけて、押さえつけて市の方針を貫きとおす、ということのようじゃな。ふぁっふぁっ」
かえで「笑わないでよ、変な声で。協議会の意見を尊重するなら廃止にはならないはずよ」
御島媼「ふむ。入札不調になった…、それならもう少し予算を増やして再入札という方法もあるのじゃがな、そういう予算を付けるべきではない、人口収縮の時代にあってはサービス低下も已むをえない、そんな真正面からの議論を市もすればよいのじゃがな」
かえで「堂々と議論しないで逃げてばかり。みっともないったら、ありゃしない」
御島媼「市議会における議論は、政策の選択肢を市民の前に示すことになるのじゃが…」
かえで「それがないの。市議会ではテキトーに答弁しておいて、結局は自分のやりたいことをやる、市はそういう態度に見えるの。まじめな議員が怒るのも当然よ」
御島媼「もっと増えればな、怒る人が。」
かえで「宮本議員は、こうも言ってたわ。図書館は市民の未来に役立つものだと」
御島媼「なるほど。図書館の経費は未来のための投資というわけじゃな」
かえで「ほかにもね、図書館長が司書の資格を持った専門家ではない、頻繁に交替する、これは問題だと、別の切り口も」
御島媼「ふむ」
かえで「答弁が協議会での事務局の意見や6月議会での答弁と矛盾する、なんて指摘もね」
御島媼「頼もしいのぉ。ほかに面白い話は?あ、もう刻限じゃなぁ」

116日「12月議会一般質問 図書館」
御島媼「昨日、バスは混んでいたようじゃな」
かえで「うん、でも運転手さんがとっても優しくて親切でね、おじいちゃんが降りる時、しっかりおじいちゃんの足下を見てたわ。大丈夫かな?って感じで。その目が、なんか慈愛がこもっているというか…」
御島媼「そうか、そりゃよかった。市議会の議論をかき消すような、情のある世界じゃな、現場は」
かえで「現場に、地に足の着いた議論は強いわね。そこへ行くと、高木りゅうた議員はすご~い。一般質問の前に現場を訪れている。現場を確認した上で一般質問の議論を始めてる」
御島媼「何のこっちゃ」
かえで「あとで言うわ。図書館の話だけど…」
御島媼「長くなりそうじゃな」
かえで「うん、今日中に終わらないかも。図書館、これは12月議会の目玉だわね。23カ所のステーションを巡回していた移動図書館が廃止されて7カ所のまちかど図書館が新たにできる、一言でいうとそういうことだけど」
御島媼「?ちょっと待ちやれ。移動図書館は入札不調で、とりあえず休止じゃがいずれ再開する、そういうことじゃなかったかの。市の広報紙にそう書いてあったぞよ」
かえで「それが違うらしいの。」
御島媼「移動図書館がなくなる…、そりゃ困る。市民サービスの後退じゃな。身どものような年寄りは遠い図書館に行くのもままならぬ。本を借りられなくなるではないか。まちかど図書館は移動図書館のステーションすべてをカバーしておるのかな?」
かえで「いいえ。それで12月議会では4人の議員が一般質問でこれを取り上げたの。中でも高木りゅうた議員と宮本雄一郎議員の意見は重みがあったわ。聞いていて、なるほどと思うことばかり」
御島媼「市の政策をチェックする、これぞ市議会!喝采したいところじゃな。だけども大多数の議員は無関心。市のイエスマン。市の言うがままじゃ。情けなや」
かえで「高木りゅうた議員はね、公民館の図書コーナーを見て、そのうえで一般質問に立ったの。だからまちかど図書館を始めたとして、それがどうなるか的確に将来像が見えているみたい。司書の訪問回数、図書の数、図書の入れ替え回数とかね、具体的に問題点をあげて市の答弁を求めたけど、答はみんな「検討中」。4月から始めようと言うのに12月時点で検討中では、開始が危ぶまれると高木議員は危惧してるの」
御島媼「昭和のころ、歌があったなぁ。山口さんちのツトムくん、返事はいつも、『あとで』…」
かえで「ほんと、つまんない。高木議員の追及に市もタジタジ。必死に逃げて、逃げ場を失っていたわ」
御島媼「ほぉ」
かえで「発言するたびに無知無能をさらけ出し、それを自覚すらしていない議員もいるけど、彼は立派」
御島媼「惚れこんだものじゃな」
かえで「議員の能力を見分けないのは市民の罪よ。それで高木議員の言うには、2008年の図書館整備方針との整合性を図るべし、移動図書館についてのアンケートの方法に誤りがある、とかね。いちいち納得できる」
御島媼「いちいち…、副詞の呼応に問題あり。それはともかく、アンケートの誤りとは?」
かえで「図書館に来た人に、移動図書館について質問してるの」
御島媼「図書館が近くにあるとか、自分で図書館に来られる人にとっては、移動図書館の必要性は低いぞな」
かえで「そう。少ないに決まっている。そのアンケート結果を市は移動図書館廃止の根拠にしているみたい。そういうやり方はおかしいと、高木議員は言ってるの」
御島媼「市の方針は根拠薄弱じゃな。あ、そろそろ、かまどに火を入れる刻限じゃ。八百比丘尼とて腹も減る」
かえで「はいよ、続きは明日ね」

115日「12月議会一般質問 高齢者バス無料制度」
かえで「ママ、寒いわね~」
御島媼「何のこれしき。この200年は暖かいぞよ。この頃は、と言うても英吉利で石炭を燃やし始めた産業革命以来のことじゃが、二酸化炭素が増えたでな。室町時代なぞ、もっともっと寒かった。寒くてものなりが悪くてな、それも戦国の乱れた世の背景にあったぞな」
かえで「そぉ。実はね、あれこれローンがかさんでいてね、暖房費を節約してるのよ。だから、さむい~」
御島媼「ローン?借金のことか」
かえで「うん。いっそ棒引きとか、ならないかなぁ。昔あったでしょ?」
御島媼「徳政令のことじゃな」
かえで「うん、それそれ」
御島媼「あれは乱発するものじゃないぞよ。富の偏在が閾値を超えて社会が不安定になりそうなとき、発せられるもの…」
かえで「ちょっと待って。分かりやすく言ってよ」
御島媼「金持ちと貧乏人の格差が大きくなっていってな、しきい値、つまりある一線を越えたとき」
かえで「一線を越える…うふ」
御島媼「そなたは何を考えておる」
かえで「一線を越えた女の情念は止めどなく燃えさかり~」
御島媼「これこれ」
かえで「あなた、800歳になったらもう燃えないでしょ。要するに安易に出るものじゃないのね」
御島媼「なにが」
かえで「徳政令よ」
御島媼「そう。そう簡単に、というか頻繁に出されたら世の中落ち着かない。土一揆すれすれになったら…、な。室町時代というのは、誰が、いくら、金を貸そうが、全く自由だったけれども、その自由で社会に大きなひずみが出そうになったときに発令されたのじゃよ。いわば社会の安全装置じゃ」
かえで「室町時代に金貸しがいたの!」
御島媼「もちろん。稲を植えたあと収穫まで農民は収入がなかったからな。その間のつなぎ融資とか」
かえで「そうか…。昔の政治家も社会の安定ということを考えていたのね」
御島媼「民は宝という思想は太古からある。徳政令という安定剤あればこその金融の自由じゃったのじゃ」
かえで「見直したわ。昔の武士政権を」
御島媼「ところが、じゃ。平成の世には安定剤を準備しないままに自由だけを声高に叫ぶ集団がある」
かえで「あ、もしかしてここからが本論?」
御島媼「然り。今までは前置き。ちょっと長かったけどね。何もかも自由にし、何もかも民営化を目指そうとする。それが社会の安定的発展を図る政策と言えようか」
かえで「維新の会ね」
御島媼「無駄を省くというが、一見無駄に見えるものの中に真の政策があることもある」
かえで「もっと具体的に…」
御島媼「高槻市のバスじゃがな、維新の会は民営化を主張しておった」
かえで「3人のうち2人は維新じゃなくなったみたいだけどね」
御島媼「で、12月議会で、たった一人残った維新の木本祐議員が高槻市営バスの老人無料制度について一般質問したのだけどね」
かえで「まって!老人って言っちゃいけない。英語でもoldじゃなくagedっていうのよ」
御島媼「あ、そう。ま、ともかくその質問に大きな問題があるのじゃよ」
かえで「あらま。どんな?」
御島媼「第一。市議会議員は政治家なのじゃよ。市の政策をチェックし、一方で自分からも政策を提案する、そういう立場じゃ」
かえで「うん、ちょっと待って。市のHPで議会中継を聞いてみる。…あれ?一般質問なのに23分?短いのね。他の人も結構短い~。…うん? …そっかなぁ?…変だ。……全部聞いたよ」
御島媼「どうじゃった?」
かえで「木本祐議員、無料制度に反対…とはヒトコトも言わないのね。全体を聞くと論理の流れは制度に反対してるようだけど」
御島媼「そうじゃ。そこじゃよ。政治家ならばどちらかはっきりさせて、発言すべきじゃ」
かえで「こういう問題がある…って、学者や評論家が指摘してるみたい。はっきり反対と言うと制度の賛成論者から叩かれるだろうけどね」
御島媼「政治家はものごとを決定する、公務員は決められたことを実行する」
かえで「どこかで聞いた。後藤田正晴さんね」
御島媼「とにかく右か左か、はっきりさせにゃならん。」
かえで「ボクっていう言い方も気になるけどね」
御島媼「そこは表現の自由じゃ。他に気になるのは?」
かえで「高齢者も負担するよう、市長は市民に理解を求める努力をせよ、自分の責任でまっとうしろと」
御島媼「ふむ」
かえで「市長に丸投げしたみたいな表現も気になる。市議会議員には責任はないの?議員にとって、バス運賃は他人事?運賃改定は市長が独断で決めるの?」
御島媼「高槻市自動車運送事業条例で70歳以上は無料と定めておる。その条例の改正を審議するのは市議会」
かえで「そこで賛成も反対もしない議員って、あり得るの?」
御島媼「答えるまでもないわな」
かえで「二元代表制…」
御島媼「うんうん」
かえで「市長も市民に選ばれた政治担当者だけど、市議会議員も市民に選ばれた政治家なのよね」
御島媼「然り、さよう」
かえで「この問題に真剣に向かい合ってこそ責任ある政治…、これは市長に要望しているように聞こえるんだけど」
御島媼「市長だけの話ではないわな…。市議会でもしっかり考えて、市の財政や制度の経済効果など総合的に検討すべき話じゃな。あ、バスがきたぞよ」
かえで「うん、お金払って乗ってみる。じゃまた明日ね」

111日「維新 不審と不信」
昨日17時のNHKラジオニュースを聞いてあっけにとられた。都構想につき経済効果を数値化して呈示したい、数社にお願いして春ごろまでに出してもらう…と、松井大阪府知事が語ったとか。 都構想については3年前に結論が出ている。民意は明らかなのにそれを無視し、未だに固執していることに驚き呆れていたのだが、さらにこのニュースだ。これを誰も不審に思わないとしたら日本人とは何と論理性のない人種かと外国人は考えるので、私が一言苦言を呈しておく。 だいたい、順番が逆ではないのか。都構想を実施した場合の大阪府市民への文化・教育・一般行政上の影響、税負担の増減、経済的波及効果、それらを包含するメリットデメリット、施行の手順その他ありとあらゆることを大阪維新の会内部で検討し、その結果として得た結論が都構想推進ではなかったのか。数値化された経済効果など3年前の住民投票の前に確認されたはずである。今頃なんなのか。これが不審の第一点だ。検討はないがしろにして空想だけを根拠に、3年前は市民に危ない橋を渡らせようとしたのか。そうではないと思いたいが、今頃数値化を言い出しているのは都構想提案の過程に検討不十分な事柄があったと自ら白状していることに等しく、やはり維新に人は居ないのかと不信が深まるばかりなのだ。 また、外部に委託するのはいいが、御用学者に客観的な数字が導き出せるのか。後付けの理屈はプラス面ばかりが強調されるのが世の常だ。委託先が問題で、あくまで公正な第三者とする必要がある。さらにその経費だが、維新が自分で負担するのならよいが、府知事としての記者会見で発表するということは税金で賄うということだろう。公の税金で負担させて結果は維新に有利な資料作りにされるのでは、たまったものではない。我田引水の、政治の私物化はやめていただきたい。万博だとか都構想だとか、維新府政には無駄遣いが目立つ。 数値化の結果をふまえ法定協議会で議論をしてもらいたいとのお説だが、このような順番が逆の話に誰が乗るのか。議論はしぼむばかりだろう。 人々が維新という集団を忘れないよう、マスコミは維新に関するニュースを定期的に流せと、どこかから指示があるのかもしれないが、もう少しまともな記事を流せといいたい。他にないのか。これでは維新に不信がつのる。支持はなお下がる。(黄鶴)

110日「米軍ヘリを責めるべきか」
1963(昭和38)年4月10日、正午過ぎのこと。所は北海道・苫小牧上空、高度約1万㍍。訓練中のF104Jジェット戦闘機のスロットルレバーがエンジン全開の状態で固着し、動かなくなった。エンジンは最大出力を出したままで、減速ができない。その他の操縦系統には異常がない。 同機は訓練を中止して、基地と連絡を取りながら千歳基地に向かった。そして基地上空に到達した。しかし音速を越えるようなスピードでは着陸できない。同機のパイロットはエンジンを切った。そして滑走路に向けて旋回し、着陸態勢を取った。しかし機は急旋回のために失速し、主翼の揚力を失って急速に降下、滑走路までたどり着くことができず、その手前300mの位置で尾部から接地してそのまま滑走路端に向けて100mほど滑走したところで停止した。同機は着地のショックで大破、パイロットは頭蓋底骨折で即死した。同機には緊急脱出装置がありパイロットはそれを使ってパラシュートで無事に降下することもできたが、そうするとコントロールを失ったジェット戦闘機は高速のまま市街地に墜落して大惨事となるおそれがあった。このためパイロットは最後の瞬間まで同機の操縦を止めず、市民を殺傷することのない安全な場所まで運んだようだ。パイロットの名前は西三等空佐。旧海軍兵学校75期生、当時30歳台後半だったろう。 所変わって現代の沖縄。2018年1月06日午後、沖縄本島の東方にいた米軍普天間基地所属のUH1ヘリコプター操縦席で警報が吹鳴。エンジンにも異常な音が発生していた。同機は普天間に向かったものの、エンジントラブルのため基地まで飛べるかどうかわからない。無理をすると基地の手前の住宅地に不時着するおそれがある。基地までのルートを思い浮かべてみると、沖縄本島は隙間なく民家が立ち並ぶ市街地ばかりと言っても良い場所だ。手前の平安座島には石油基地のタンクが多数並んでいる。さらにその手前、伊計島の海岸が最も近く、民家もない。そこが不時着の場所としては最適だ。着陸時に砂を巻き上げエンジンに吸い込むが、已むを得ない。かくして米軍ヘリは不時着した。同機は再び飛び上がることはできず、他のヘリに吊りあげられて基地に運ばれたことから考えるに、その不時着は適切だったと私は思う。県民にも乗員にも危害がなかったから。 新聞などでは一様に非難が目立つ。その対象は米軍であったり日本政府であったり。しかしこのヘリは住民への危害を避けるためにベストを尽くしている。その点は称賛すべきではないか。沖縄=米軍基地=何があっても非難の合掌というステレオタイプの反応は如何なものか。事故が多すぎるとの批判もある。だが短期間の運用しか想定していない軍用ヘリとはそんなものだ。ヘリ自体が消耗品なのだ。米国防長官も謝罪の意を表しているがそれは日本向けの政治的発言で、本音は「仕方ないじゃないの」のはずだ。国際的に見れば事故多発が常識で、事故の少ない自衛隊は外国から見ればマジックだ。責めるべきは何か。不時着したヘリではなく、米軍ではなく、沖縄に基地を集中させ沖縄県だけに基地負担を重くした日本政府ではないか。そして、そのことを顧慮しない日本人(沖縄県民を除く)ではないか。安保条約を…それは国内に米軍の基地を提供する義務がある…再考しようともしない日本人ではないか。(黄鶴)

109日「邪99VS.01
大相撲の世界では貴乃花親方が理事を解任された。これについて疑問がある。 まず、解任が刑法の大原則である罪刑法定主義に則ったものかという話だ。つまり、何か悪いことをしたらその内容に応じて処罰するという定めがあらかじめ具体的に明らかにされていて、その定めに該当する行為があったのか、ということだ。報道では、巡業中に起きた事件を巡業部長である貴乃花親方が報告しなかったことが解任理由となっている。また池坊評議員会議長は礼を失したと評した。 そこで日本相撲協会の定款をみると、第32条は「心身の故障」「職務上の義務に違反し、又は職務を怠ったとき」の二つを理事の解任理由として挙げている。ここでいう理事の「職務上の義務」は、第28条に「理事会を構成し、法令及びこの定款で定めるところにより、職務を執行する」「この法人の業務を分担執行する」「毎事業年度に4か月を超える間隔で2回以上、自己の職務の執行の状況を理事会に報告しなければならない」と定めている。事件をすぐに報告しなかったことは、この条項の何に該当するのだろうか。何にも該当しない。だから定款上の解任理由はない。理由はないのに解任された。巡業という相撲協会の業務の執行にあたって、何かを怠って巡業をしなかったというなら、解任も当然なのだが。 明文になくても報告義務は当然のことだろう、業務の執行に含まれると言われるかもしれないが、通常は特別の報告義務は報告すべき事柄を具体的に明示している。明示のない限り義務はない。あるとすればそれは道義上の責務である。道義上の責務は道義的に譴責されるものの、解任まで行うのは無理がある。まして礼を失したとしても、それが解任の理由になるはずもない。感情論にすぎない。 そして実質的な疑問だが、仮に相撲界が暴力・リンチの常習団体であるならば(「仮に」ではない。すでに事件が多々報道されている)、そんなクロをクロと感じない相撲界に対して内部の暴力事件を報告しても握りつぶされるのは目に見えている。だから、相撲界の暴力体質を改善するためには、相撲協会理事長への報告とそこでの処断よりも外部の司法組織に事件処理を委ねるべき、と考えるのは理解できる。クロに染まった組織に白黒の判定ができるはずもない。貴乃花理事の解任劇はクロが寄り集まってシロを排斥したとしか、私には見えない。貴乃花理事の行動が相撲界の浄化を目的としたものであったなら、解任すべきは浄化のために動こうとしない他の理事や評議員ではなかったか。 これはこの世界に限ったことではない。日本のあちこちで、何が正しいかではなくどちらの声が大きいかの多数決で物事が決まっている。あいつ気に入らないと多数が思えば、いくら正しいことを言っても排除される。悲しい日本のムラ社会である。地方議会も同じだ。高槻市議会の定数削減を思い出す。あれは3年前…。(黄鶴)

105日「ご支援よろしく」
昨日の午後4時を回った頃、JR高槻駅前付近を自民党の宣伝カーが走っていた。スピーカーで曰く「皆様あけましておめでとうございます。こちらは自民党です。政権政党の…(一部聞こえなかった)…、市民の皆様、今年も自民党へのご支援、よろしくお願いします。皆様あけまして…」 これを聞いた初老の夫婦連れ(たぶん)の、男性が、 「市民が自民党の支援?あほか。反対やないか」 自民党の宣伝カーは「自民党のご支持をよろしく」と言いたかったのだろうが、なるほど、それもそうだ。市民・国民が自民党の活動を支援するのではなく、自民党が困っている国民を支援しなければ、政権政党としての責務を果たしたことにならない。自民党に限らず、政党とは国民の意見を集約し政策を掲げ、信を得ればそれを実行する集団のはずだ。平和を維持し、自然環境を保護し、国民の生活を豊かにする、そのような活動を通じて、幸福を願う国民・市民を支える、それが政党であり政治のはずだ。市民国民が支援するのは逆だ。現実問題として事務経費について若干のカンパはあってもよいが。 だいたい、市民が自民党を支援したとして、その自民党は今どんな活動をしているのか。大企業に莫大な消費税が戻ってくる税制を継続し、戦闘機を購入することによりアメリカの軍需産業に奉仕し、自衛隊を米軍の一部とし、そうやって幸福とは遠い所に市民を追いやってしまっているではないか。また、広く国民のためではなくお友達優先の、政治の私物化を進めてもいる。それらの決定過程において世論調査では過半数の反対があっても国会では自民党の賛成多数で議決されることもある。その自民党を支援せよというのか。 そしてもうひとつ。「ご支援をよろしく」とは、政党または政治家である自分が中心であって市民はそれを援助するシモベだという認識を露わにしたことばではないか。憲法の理念のひとつ、主権在民はどこにあるのか。民から成る政党であって王制ではないから理念は十分に活かされているとでも言うのか。ここにも憲法軽視の姿勢が明らかになっている。ご支持を、と言うべきところを言い間違えたのではなく、市民から票をもらい税金を納めてもらった後は、国民の意志に逆行してでもその税金を自由に使うなどの普段の行動のもとになっている基本的観念、その本音が出ているのが「ご支援よろしく」なのだ。語るに落ちた。(黄鶴)

104日「見えるもの」
2018年が明けた。戊辰戦争から150年の今年、TVや雑誌で「西郷どん」がもてはやされている。NHKの大河ドラマの影響だろう。 しかし、西郷どんは今俄かに出現したのではない。西南戦争後ずっと140年間、一部の人の心の中や書物の中に存在し続けていた。それが今、メディアによって誘導された多くの人々の視線が集まり、その人々の心に新しいイメージを植え付けている。 このプロセスは実は重要だ。そこに存在すること、それが人に見えること、そして価値あるものと認識されること、この流れに気を付けなければならないと私はいつも思っている。 人がそこにいる。しかし人は常に実体…というか真実の姿を表に出してはいない。一枚の皮の中にそれはあるのだが、周囲の人はしばしば美貌や雄弁に惑わされて真の姿を見ないままその人の価値を判定しがちだ。つまり、外見にとらわれて実体を見そこなうのだ。これがすべてのマチガイの始まりであって、ほんとうは自ら努力して実体を見抜こうとする姿勢、真の声を感じる能力が必要なのだ。しかし、残念ながらそれは普通の人に備わっているものではない。実体を表わしているのに目の曇りからそれが見えず、真の声が発せられているのに心の曇りからそれを聞きとれない、まあ普通の街の人とはかくなるものである。 では、その域を脱し実体を認識してもらうためには、何が必要か。徒然草の第五十二段のように、「すこしのことにも、先達はあらまほしき事」ではないか。昔、仁和寺の法師が長年の念願かなって男山八幡宮に参詣に行ったが、山上の本宮には参らず麓の寺を見ただけで帰り、同輩の僧に言うには「立派なものだった。みんな山の上に上って行ったが、何かあるのだろうか。寺社が大事で山などどうでもよいのに」…。 市議会についてのデータの分析によって表皮が除去されて実体が見えてくることもある。周辺事情の解説によって実体を認識できることもある。高槻市政に関し、そこにあるものを人に見せ、認識できるまでにしたい。今年も変わらぬ本ホームページの願いである。(黄鶴)

1227日「かくて今年も」
山小屋は雪の朝になった。 屋根に小径に一寸ほど積もり、樹木は白い斑を帯びたまだら模様となった。松の梢に重なろうとしたものは強い風に吹かれて霧のように飛び、小屋の脇まで来て速度を落とし、新しく降っている大きな牡丹雪とともにゆっくりと地に舞い降りる。地面に行きつ戻りつしている足跡はキツネだろうか。小屋の入口まで来ている。餌場のパンくずはすべて消えている。今朝は下界も雪らしい。 人間世界はいつの時代もこうなのか。科学技術が発展し人間は権利の主体と認められてきたが、道徳の世界は律令の昔から変わっていないように、むしろ退化しているようにすら見える。正邪を明確に判定するものがないまま、欲望にまみれた不正がまかり通る。 それはたとえば小選挙区制。国民の意志が反映されない制度であることが11月の衆院選によって明らかになった。国民の願いの実現よりも己が地位を保全するためにその制度の改正を阻む政治家が、そこに黒くたたずむ。また、たとえばNHKの受信料。その是非は法曹の判決にはなじまない、それより法改正という国民の審判の仕組みに委ねるべきと私は考えるが、その放送法は国民の意志を正しく体現しない政治家によって定められてしまう。いや、それよりも、最高裁で受信料義務化を明確にしてNHKの経営体質を最適化しようとする流れの中で、そのNHKに何かを宣伝流布させようと目論む大きな力が働いていないか。そして例えば処理済みの箱に入れられたモリカケ問題。そこには総理関係者への貢献の見返りを得た者、あるいは見返りはないものの貢献せざるをえない構造のなかで呻吟した者はないか。目を外に転ずれば、世界の帝王たらんとする中国共産党と力を背景に他国民を見下そうとする同国人。幼稚な米国大統領。流れてくるニュースに清廉なものは見えない。…流れてこないものの中にこそ、人々の想像を絶する世の中の真実があるのかもしれないのだが。 しかしともかく、一歩ずつの不断の努力は必要だ。歳をとると余計なものまで見えてしまう、それは嬉しくないけれど、屈せずにがんばろう。 今年も暮れようとしている。(黄鶴)

1226日「モリカケはどうした」
クリスマスも過ぎて、街にはそぞろ急ぐ人が目立つ。忙しい年の瀬だが、忘れて欲しくないことがある。 モリカケの総括はまだ終わっていない。話はまだ途中なのだ。だけど世の中には何となく、あれはもう過去の話だとのムードが漂っていないか。それより北朝鮮だ、ICBMだ、とかなんとか。マスメディアは、その性質上、新しい話に飛びつきやすい。それはある程度仕方のないことだけど、もう選挙前に起きた事件はネタとしては古いよ、という姿勢は怖い。マスメディアがそうだと国民もそれに乗せられて、大事なことを忘れてしまいそうだ。安保法制など餅を食ったら忘れるよとうそぶいた政治家の言葉を思い出す。負けてなるものか。野党よ、大新聞よ、追及の手を緩めないでほしい。 と思うのだが、NHKの調査によると12月の安倍内閣支持率は49%(11月は46%)、自民党支持率は38.1%(同37.1%)に上昇している。げに移ろいやすきは人の心と嘆く前に、ここに疑問がある。この支持率は誰かに誘導された結果ではないか。花から花へと移る蝶のようにマスメディアは本来追い求める話題の変化が速いが、それに加えて、人間の、特に日本人の忘れっぽさを促進するために思い出す手段をなるべく少なくすること、その圧力が働いているのではないかと感じるのだ。12月に入ってからというもの、特別国会が終わった途端、そのニュースは少なくなっていないか。一年を振り返る、そういう番組に話は少し出て来るけれど。 政権にとってまずいことは忘れさせる、そうして支持率を高め、権力を握る期間を長くする、それで日本の抱える財政赤字問題などにつき国民に苦い選択を迫るほどの強さがあればいいが、そうではなくて改憲だの日本人としての誇りだの国民の願いから遠いことばかりを押し付けられたのではたまったものではない。 繰り返す。野党よ、がんばってほしい。国民よ、世の中とは権力者の利得によってすべてが動かされる、そんなものだと諦めないでほしい。国民の諦めから政治の間違いが始まったのだから。(黄鶴)

1225日「これは一般質問ではない」
平成29年12月期高槻市議会の一般質問項目を眺めていて、あれ?と思った。その中の順位11に北岡隆浩議員の質問として「1会派や議員への議案や資料の説明等について」がある。他の議員の質問と比較して、その異質さが際立っていた。 一般質問とは、特定の議案にこだわらず市政全般について議員の問題意識やその知見に基づき政策の提案や現状の不備を糺すものである。その質問の範囲は、もちろん市政に関するものに限られる。一般質問だから何を言ってもよいというものではない。 ところが、北岡議員のこの質問は、同議員のHPを見ると「議案について他の議員には説明があったのに自分にはなかった、これは差別ではないか」というもので、市政とは何の関係もない話である。国政に関して調べて見ると、「国会議員への資料提供に関する質問主意書」というのがある(*)。平成16年に山井和則衆院議員から出されている。ただ、これは政治資金法の収支報告書について情報公開法による手続を経ずにコピーを発行せよというもので、山井議員個人の話ではなく議員活動全般にかかわる話である。標題の表現は似ているが内容は全く違う。どうこじつけても市政に関する一般質問とは言えないものを、なぜ一般質問の時間内に行うのか。間違っている。 *http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a160038.htm また議長もなぜこれを許すのか。一般質問の主旨に反する発言は制止して然るべきだ。事前にこの質問は除外するべき、あるいは、なおも発言しようとするならばその場で制止するべきで、そうしても言論弾圧でも何でもない。議会運営上、当然のことだ。制止しないのは作為義務違反だ。議会は議案・政策を審議し議決する所であって、それ以外の事項、まして不平不満を言う場所ではない。過去にも議員報酬について一般質問した議員があったが、これも一般質問の範疇ではない。にもかかわらず当時も発言を許している。この際、一般質問について明確な選択基準を再確認すべきだ。 もうひとつ、議案について説明がないと声をあげることは議員として正しいことか。議員控室に座っていれば市は自動的に説明をしてくれて当然なのか。違う。地方議会にはその地方公共団体の事務についての調査権がある(地方自治法第一〇〇条)。これは議会の調査権であって行政側に説明義務があるのではないのだ。議会(調査権は議員個人にあるのではない)は、関係の公務員の説明を待つのではなく積極的に主体的に努力して調査を行うこと、自ら議案について調べることを、法は期待しているのだ。私の経験でも、野党の先生から新年度予算のねらいなどについて質問があり、議事堂裏手の議員会館まで説明に行ったことがある。その熱心さ、国を思う情には心打たれた。 北岡議員の、この質問はおかしい。一般質問とは言えない。また議案説明を待つ姿勢にも疑問がある。議員の猛省を促したい。ただ、同議員の名誉のために付け加えれば、議員としての功績も過去にある。論語には人をもって言を廃せずとあるが、ここでは言をもって人を排せずと言っておきたい。(黄鶴)

1222日「質疑は日月と共に」
本年9月期の質疑・質問数を調べ、該当の記事を更新した。これに併せ各会期の質疑・質問総数が当選後の日月の経過とともにどう変化しているかを調べてみると、面白い結果になったので、下にグラフで示す。 この変化は何を意味するのだろうか。(黄鶴)

1220日「談合と言うけれど」
さる大手建設会社に勤め上げた友人がいる。彼は言う。 「人は談合と言うが、日本という風土の中で同業他社と相談しながら仕事を進め立派な公共的資産を造っていく、そんな社会的責務の果たし方が本当に悪いことだろうか。現代の合理主義の中にあっては競争によって無駄を省き価格の低減化を図るべきであると唱えるのは、現場を知らない学者と騒げば仕事になるマスコミだ。いま、ある公共工事を競争によって安い価格で入札したとする。そのしわ寄せは下請けに行く。下請けの賃金を下げて労務者を苦しめるか、低質な労働者の投入により作業の劣化を招くことになる。あるいは材料が粗悪になる。そうして工事全体が劣悪になるが、完成時にはきれいなコンクリートの上塗りで一見きれいに見える。すぐは表面に出ない。出ても素人にはすぐに欠陥と見破ることはできない。何年か後にそれは素人目にもわかる…たとえば、そんなに大した大雨でもないのに堤防が決壊するとか…のだが、そのとき損害を被るのは公共施設の機能喪失によって生活に支障をきたす国民だ。安物の公共施設が国民を襲うのだ。およそ工事にはそれ相応の適正価格がある」 入札に際して、その適正価格以下では応札しないようにすれば? 「競争となるとそうはいかない。何かを犠牲にして価格を下げなければならない。質の良い工事は競争にはなじまない一面がある」 競争を排した契約は割高になる、そこで建設業者が甘い汁を吸うとマスコミは言うが? 「今の世の中、というか日本の建設業界にはドラマに出てくるエチゴヤとか悪代官のような悪いのはいない。甘い汁は幻想だ。性悪説に立つ競争制度というのは日本人社会の中では異質なものと思う。だいたい、マスコミにそんなことを言う資格があるか。マスコミと建設業界と、平均給与がどれだけ違うか一度調べてみろ。どっちが甘い汁を吸っているか。まじめな話に戻ると、維持費が少なくて済む建設機械の採用とか人員の合理化やらで価格が発注者にも納得できるように常に努力はしている。コストダウンは至上命題だ。株主もいるから一方で利益も上げなくちゃならんからな」 建設工事=利権と連想が及ぶのだが? 「俺はずっと現場にいたから政治の話は詳しくは知らない。しかしそこに利権があるとするならば、それも工事を利権の眠る場とする政治家の幻想だと俺は思う。工事にたかる政治家がいなければ、その分、価格も安くなる」 いかがだろうか。報道を通じて部外者が形づくるイメージは、時として実像とは違うこともあるのではなかろうか。(黄鶴)

1219日「言葉の魔術」
アホノミクスで有名な、いやそれ以前から有名だった浜矩子教授の、私は大のファンである。教授は、何より見方が鋭い。その鋭さでヴェールの奥の真実を白日の下に引きだし、曝してしまう。毎日新聞に月1回のペースで連載される「危機の真相」は、まさにそういう浜教授の文章をうまく表現した題である。 12月16日の記事は、年代別の「一億総活躍社会」への期待度や安倍内閣支持率につき、他の年代が押し並べて低いのに20歳代が突出して高いことを示し、それらの原因として古い世代には「一億総活躍」から連想される「一億総動員」という言葉、さらにそこにある戦争の記憶がこの政策への拒否反応を呼び起こすのに対し、若い世代にはそれがないことを説いた。そして、若者特有の将来への不安がファシズムに結びつきやすい歴史を紹介しつつ、だからといって若者批判に流れ若者との間に溝を作るのは危険だ、もしかして安倍政権は大人社会から若者を分断させて政権に引き寄せることを狙っているのかも…と指摘した。 私はこれを読みながら、別のことも考えた。一億総活躍という言葉に飛びつく若者の、その彼らの不安は何から来ているのか。転変する国際情勢もあるが、派遣という仕事しかない現状、正社員になれず生活設計もできない現状が将来不安を招いているのだ。その現状は何に起因するのか。若者に定職を与えることもできない失政によるものだ。我々が若かった時代、自分が何に適しているかとの不安はあったが、将来の自分が危ういという不安を持ったことはない。1960~70年当時の政策は一つの成功をおさめていたというべきだ。それはともかく、これは何という皮肉か。自らの失政が若者の不安を生んでいながら、その同じ心の中で「総活躍」という失政を隠す言葉が若者を惹きつけ、自らの支持率を高め地位を守る結果を生んでいるのだ。失政が失政と正しく見える世代は安倍内閣を支持していないのだが。言葉の魔術に踊らされている自分を悟るのは、一般的な20代の若者には無理なのかも。 ふと思い出した。現役時代のことだが、何かの問題発生の芽には気づかず、誰の目にも見えるほど問題が大きくなった時に大騒ぎしてこれに対処するA課長がいた。弁の立つ男だった。麻雀好きの社交家だった。一方に、問題が起りそうなときに先回りして、その芽が小さい時に摘んでしまうB課長がいた。彼はいつもヒマそうで、寡黙で、しかし部下の信頼は厚く、組織を動かすことに長けていた。それでどちらが部長に昇進したかというと、A課長だった。さまざまな人の能力の、ある一面だけで人事が決まるものではないが、後で聞いたところによると、修羅場での獅子奮迅の働きは当時の上司に受けがよく、有能とみなされたのだ。そもそも修羅場を作らない方が利口だと思うのだが、人の評価というのはその程度のものだ。 安倍政権とA氏、言葉の魔術とそれに踊らされる人の人物観の拙さが共通している。(黄鶴)

1218日「政活費(旅費・交通費と事務雑費)
政活費のうち、旅費・交通費と事務雑費を抜きだし、グラフに示す。これらについても内訳がわからないので論評しない。論評させないために内訳を隠すのかと勘繰りたくもなる。制度の改正が望まれる。(黄鶴)


12月14日「政務活動費(資料購入・作成費と通信運搬費)」
先日の広報費に続き、政活費の収支報告書から資料購入・作成費と通信運搬費について抜粋し、議員別に示す。 政活費の使いみちは人それぞれ。各費目が政活費全体の50%を超えてはならないとのルール以外、何も規制はない。だから84万円の政活費の割り振りに各議員の考え方や活動方針、特殊事情が反映される。 使いみちの詳細は分からない。市政のための出費であるのか否か、その判定の資料がない。このようなやり方で公正さが期待できるはずもない。議員にとっては都合のよい制度がこれまで続いてきたのだ。(黄鶴)

1213日「政活費の使用額と仕事ぶりの関係」


政活費をたくさん使っていっぱい仕事をした、そういう状況をデータ化できないかと試みたのが上の図である。
質問しようとすると、そりゃ大変だ。条例案などをみると大学で専攻した分野以外の話ばかりだ。生活に密着した話で市民にとっては重大問題ならば、わたしゃ専門外だと藪医者みたいに逃げるわけにもいかず、どうしてもその分野の専門書も読み、脚を使って現場調査もして、その近所の人の話も聞いて、そうやって勉強したうえでないと突っ込んだ質問もできない。その勉強の過程にはお金も必要だろう。政活費を使う、質問する、その関係や如何に、通常ならば比例関係にありそうだが…。 結果を見ると、両者の間には相関関係はまったくない。散布図は、本当に散布状態で、データが右上がりに直線状に並んでいない。質問が少なく使用額も少ない議員、質問も多く使用額も多い議員もいるが、カネは使わず質問の多い議員、逆に金は使うが質問しない議員もいる。後者の場合、何のための政活費なのか。 平均使用額と平均質問件数で区切られる4つの象限の中のどこにどの議員がいるか、これは一つの議員評価の方法ではないか。質問だけが議員評価の手だてではないとの批判もあり得るだろう。しかしそれは議員のあり方について正しい考えを持ち合わせていないと断ぜざるを得ない。「議」「員」は「議会」の「構成員」なのだ。議会には議論しかない。議論が本来業務なのだ。(黄鶴)

1212日「広報費」

上の図は2016年度における政活費のうち広報費(紙メディアによる広報:活動報告等の印刷・送付の経費)の使用状況を示したものである(単位:円)。議員名は、左から生年の逆順、つまり若い方から順に並べた。ただし同年の場合の順は不同である。公明党議員団の場合、個人の広報費のほかに会派広報費を8分して各議員に賦課しているから見かけ上42万円の限度を超えているが、実態は全員が限度内に収まっている。議員名を青四角で囲っている議員は、Webホームページ、フェイスブックまたはツイッターなどのSNSで活動報告を行っている議員(ホームページを作ってはいるがほとんど更新のない議員も含む)を示す。 この図を見ると、紙に頼らず電子空間で広報に努めようという人は、やはり若い人に多い。年配議員は当然のように紙媒体という古式にのっとっている。あらゆる方法で広報に努めようとする議員、経費を節約しつつ広報も怠らない議員には好感が持てる。(黄鶴)

1211日「政活費のページの更新」
2016年度の政活費について、データ整理が終わったので該当のページを更新した。内輪話になるが、やってみるとデータ整理は、結構大変で、こんな面倒なことをよくやっていたものと感心した。間違っていては各議員に失礼だし、誤った情報を市民に届けるのも問題だ。 市のHPに載る資料は、そのまま見ても意味不明だ。と言うか、生データのままでは、そこに潜む問題が判らない。横並びにするとか過去のデータと見比べて時間的変化を見るとか、そうして初めてデータが読める。そんな料理をしたのが我が活動白書だ。自画自賛で誰も何も言わないが、すばらしいことをやっているのだ。 しかしこのような情報は、市議会が発行する広報誌にこそ掲載すべきではないか。本会議や委員会での発言者すら明らかにしない広報誌では広報誌とは言えない。市民が知りたい話をストレートに伝える、そうでなくちゃ。 なお、高木議員のHPによると、来年から領収書が公表されるそうだ。一歩前進ではあるが、その領収書には具体的な使途が書かれるのか。例えば図書を購入したら書名まで明らかにされるのか。単に「書籍代」では公正さを証明する資料にはならない。どのような書き方になるのか、どのような公表の仕方になるのか、この検討過程で誰がどのように発言したしたのか、知りたいところだ。(黄鶴)

1208日「政活費返納額を累積したら」

高槻市議会議員は、これまで政活費をどれくらい返納してきたか。上の図は2011年度から2016年度までの返納額の累積状況を示す。2015年に当選した議員は2か年分をグラフの右の方に示す。支給額は6年分で490万円(新人議員は2年分で161万円)で、その額に比べた場合の返納額の大きさが、各議員ごとに明らかになる。(注:便宜上、2011年度と2015年度は5月以降の金額を計上した。) 物言わぬ棒グラフだが、政活費に対する各議員の考え方が現われているのではなかろうか。すべてそうだとは言えないが、返納額が多いのはクリーンさと見ることもできる。公金に対するつつましさ、畏敬の念である。このグラフの中では高木議員は突出している。6年間の累積で450万円になんなんとする額だ。それだけ市に貢献しているとも言える。 返納額ゼロという議員もいる。だからクリーンではない、とも言えない。真摯な活動の結果、それだけの経費を要した場合もあるだろう。そうした場合、質問の数・その内容などに活動の成果が現われるだろう。 各議員個人につき、年度ごとの変化を見るのも興味深い。年を追うごとに返納額が減る議員、当選後の初年度から返納額が少なかったり、いろいろだ。先輩議員の影響もあるのだろう。 数値の詳細は追って明らかにしたい。(黄鶴)

1207日「市議の仕事か?府のテニスコート使用料裁判」
11月30日に大阪高裁で一つの判決が言い渡された。 高槻市内の下水処理場内にあった府のテニスコートを高槻市の職員が独占的に無料で使用した、だから使用料116万円(2008年から2年間分)を、府は使用者に請求せよ、という判決である。この訴えを起こしたのはニュースでは「高槻市議ら」としか伝えていなかったが、判決後の記者会見の席を見ると、真ん中に座っていたのは北岡市議であった。一審では訴えは却下されたがこの日の二審判決で一部認められた。 以上の説明だけでは高槻市の職員が泥棒まがいのことをしたように聞こえる。もう少し説明を要する。別の報道(読売)によると実はそのテニスコートは、1992年に高槻市を含む当時の下水道組合が福利厚生施設として設置したもので、下水道事業が2008年に府に移管された際にテニスコートの所有権も府に移ったものだ。市の職員は移管後もテニスコートを使い続けたのだが、既に福利厚生施設ではなくなったテニスコートを使うに際して府に使用料を払っていなかった、それがイケナイらしいのだが…。 こういう場合、下水道業務移管後もテニスコートを継続使用した職員に違法性の認識が発生するだろうか、という疑問はさておき、裁判自体に何か違和感があって、ニュースがすんなり耳に入らなかった。 なるほど、府の施設を使用料を払わずに使った、それは違法だと指摘するのは間違ってはいない。しかし、訴訟を起こすほどのものか?訴えの利益はどれほどのものか?府の違法行為があったとして、それを追及するのが市議会議員の本来業務か?本来業務でないものに議会開催中の時間を使ってよいのか?市議の働く場は法廷なのか?高槻市民のために議会で働くのが議員であると私などは考えるが、その訴訟が市民のためになるのか?請求すべきと府に命じられた金額はわずか116万円だが、市民に逸失利益があったとして、訴訟を起こすに値する被害・損害があったのか? そんなことより年間20~30日ほど本会議場や委員会の席に座っているだけの市議会議員に1千万円の税金を支払うことのほうが、市民にとってははるかに大きな問題なのだ。それも一人や二人ではないのだ。そっちを追及してほしい。 総じて、原告が市議会議員であったことが違和感の原因だった。ところで法廷は英語でcourt(Courtの綴りも)だが、テニスコートも同じcourtだ。ラテン語ではcohors (またはcors)で、中庭だ。こんなところに共通点があるけどなぁ…。(黄鶴)

1206日「高槻市議会の会派」
政活費のデータ整理のため必要があって、高槻市議会のHPのうち会派の構成のページを開けた。しばらく開けてなかったのだが…。開けると、あれ? 維新が消えた。…いやいや、消えていない。木本、岩、吉田稔弘の3名の議員により「大阪維新・無所属議員団」というのが構成されている。だが、理解不能な集団だ。誰が維新で誰が無所属なのか。そもそも無所属とは、どの会派にも属さないから無所属なのではないのか。会派を作りながら無所属とは何なのか。論理矛盾だ。そしてこの3名の共通点は何かあるのか。思想・哲学においてこの3名は一致しているのか。過去の質問からみて、それが見出せない。もっとも、質問自体が少ないから、なお判りづらい。もしかして、数が多い方が力をもつという、それだけの理由で集団を成しているのだろうか。意味不明の会派名と政治信条の共通性が見出せない点からみて、会派としての立ち位置は不明確と言わざるを得ない。「立憲主義を守り憲法を活かす会」のように鮮明な色を出していただくと判りやすい。。 更に不可解なのが「新政会議員団」だ。構成するのは太田、米山のお二人だ。この方たち、確か維新の旗の下に多くの票を得て議員になったはずだ。議員になるための維新の旗ではなかったと思いたいが、維新に何かを期待して投票した有権者の思いはどうなるのか。お二人に投票した市民はすべて、お二人の個人的政治力に期待して投票したのなら問題はない。しかし事実そうか。大阪府下にネットワークを張り広域的体制から効率的な行政を目指そうという幻想は幻想ではないと期待する有権者が、あるいは現状に飽き足らぬ有権者が、いささかの期待をもって維新の名を冠したあなた方に投票したのだとしたら、彼らの思いはどうなるのか。何度も言ってきたが、会派離脱とはこんなにも軽いものなのか。どうせあれは一時のブーム、国政で維新の衰えがはっきりした今、いつまでもしがみつくのは誤り、ということか。ならば、問いたい。いかなる政治信条をもって維新に入っていたのか、と。そして、いかなる点で一致して会派を組んだのか、と。これまでの質問の傾向を見ても、上記会派と同様にお二人の共通性は薄い。そしてもう一つ。「新」と名が付いた政党は短命に終わるのだが、維新以上に新しいとしたら何が新しいのか、明らかにされたい。新しい会派のことは、太田議員のHPには説明がない。米山議員はそもそもネットのHPがない。他のSNSによる説明があるのだろうか。議員活動に何かの変化があれば、まずはHPなどで説明すべきではなかろうか。 最近の会派の構成を見て、思う。もう少し考え方を整理したうえで市民の前に出るべきではないのか、と。(黄鶴)

1205日「仏性」
人みな仏性あり。そう説かれているのは何の経だったか。しかし人は同時に魔性を備える。ときとして欲望のままに動き周囲を顧みない。仏性が施しだとしたら魔性は侵奪だ。 そのような人の性を、そのまま引き伸ばしたのが政界か。施し、言葉を換えれば政策、あるいは所得の再配分の看板のもとに、それを掲げることで得られる地位、権力、富貴をわがものにせんとの欲望が渦巻く。 いわゆるモリカケはどうだったか。総理夫人、または総理の友人が関係する案件だからという特別扱い、そして総理の御意向という印籠を振りかざしての強行、忖度に基づくそのような行為に走ったのは、総理に認めてもらい、国会議員あるいは高級官僚としての自らの地位を守り発展させようとの欲望が原動力ではなかったか。そこに公正さに殉じようという潔さはない。自分が関与していないとしても、関与したと同等の結果が生じるのを制止しようともせず傍観していた権力者はもっと質が悪い。国会で追及されても上から下まで何の反省の弁もない。国民の声が届かない政府は、遥か遠いものに見える。誰のため、何のための政府なのか。日本人全般のためではなく、我がための政府なのか。国会の場で隠し逃げる。内に顧みてやましくなければ、それ何をか恐れ何をか憂えん。逃げること自体が自らの非を認めている。 人みな仏性あり、政府にありやなしや。 人みな仏性あり、それは魔性を露わにしている者たちを前にして唱える言葉だと、今、気付く。(黄鶴)

1204日「政活費は本当に必要か」
白雲子の代役として遅まきながら2016年度の政活費を集計中である。原資料は市議会HPの政活費収支報告書だ。 各議員から提出された収支報告書をざっと眺めてみると、なんともまあ、人さまざまだ。公金の使い方に人柄やものの考え方がよく現われている。 配布された額は年間84万円。それをほとんど使わず80万円前後を返納した議員(福井、高木)もいれば、使って当然とばかりに全部使い切った議員もいる。昨年度と比べると、概して同じ人が同じ使い方だ。 収支報告書には、支出の内訳として「研修会・会議費」「資料購入及び作成費」「広報費」などの費目と、それぞれの「金額」並びに支出の目的を書く「主たる支出の内容」という欄があるのだが、そこに具体的に支出内容を書く議員は僅少で大多数が右にならえとばかりに抽象的にしか書いていない。たとえば資料購入費について高木議員と吉田章浩議員は具体的に新聞の名称を書いていて公金使用の透明化を図ろうとの意図が見えるが、木本議員は「広報費」の主たる支出の内容として「広報代等」、「事務雑費」のそれは「事務用品代等」という記述しかない。このような報告の書き方の違いは、市民に具体的に説明しようという意思があるかないかによるのではないか。政活費の使い方がよく見えないのは、領収書の貼付など報告要領の不備もあるが、議員本人の熱意不足にも原因があるのだ。 また全般的に感じるのだが、新聞代や書籍代は、一般社会人としての常識を備えるためならば政活費を使うまでもなく自費でまかなうべき性質のものである。それを越えて市議会議員として必要な知識を備えるための経費だけが政活費の範疇であろう。そうと自信をもって言えるのなら、購入した書籍の表題などを明記すべきだ。別紙で添付してもよいではないか。また電話代、ガソリン代(使用した額の半分を政活費で支弁)にしても、公的私的の区分は明確なのか、疑問が残る。 年収1千万円の議員が、毎月数千円の新聞代やガソリン代を別途要求する、そのあたりも何となく笑ってしまうのだが。(黄鶴)

1130日「子連れ議会を許容せよ」
生後7か月の長男と一緒に議場に入ろうとした女性市議が待ったをかけられて入れず、ために議会の開始が遅れた。この女性市議に対しては市議会から文書による厳重注意処分のおまけまで付いた。場所は熊本市だ。 何たることか。一連の流れは、法的に、そして情的におかしい。 まず、子連れで議場に入るなという規則がない。規則がない以上、違反は成立しない。女性議員は入場を制止されたが、何を根拠に制止したのか。公務員は法令の根拠なしに行動を起こすことはできない。熊本市では傍聴者は議場に入ることはできないという規定を楯にしているらしいが、赤ちゃんは傍聴人ではない。傍聴人たる構成要件を満足しない。だからこの規定を入場制止やその後の処分の根拠にはできない。条例を制定する立場の議員達が法的根拠のない行動をとるのは、はしなくも自らにリーガルマインドのないことを自白することになったのだが、議員達はそれにも自覚がないのだろう。まるでマンガだ。このケースの場合、例えば高槻市議会会議規則151条にいう議会の品位にかかわるというのなら、まだわかる。 しかし、法律以前の話としても問題だ。母親が子供と一緒に行動して何が悪い。市議会本会議場周辺に託児所はなく、預ける祖父母もいないとなれば、子連れで動くしかないではないか。子連れで議場に入るのは、子どもを背負って農作業をするのと基本的に同じ行為だ。働きながら子どもを育てる女性に対し、周囲の人はこれを暖かく見守るのが人としての当然の義務であろう。さらに子供は大切にしなければならない社会の宝だ。次世代を作る子どもたちに対するそういう温かい目をなぜ持てないのか。赤ちゃんの泣き声くらい、我慢しろ。そうそう、思い出した。私が仲人をした結婚式でのある人のスピーチだ。世の中には幸せな音が三つある、新聞をめくる音、朝の台所で包丁がコトコト鳴る音、そして赤ん坊の泣き声だ、と。 子連れの議場入場を非難するより、もっと非難すべきことが議員にないか。本会議中に、①勝手に席を離れて5分ほど帰ってこない、②微動だにせず居眠りをする、③机の下でスマホをいじる、④議事に関係のない資料を読む、⑤手帳を開いて予定を確認する、そして原稿棒読みの議事進行だ。(黄鶴)

1129日「友人の一生」
高校の同窓会に出席し、そこである友人の卒業後のことを聞いた。 その高校は旧制中学以来の長い歴史をもち、広く近隣の市町から生徒を集めていた。だから俺は中学の生徒会長だったというのが何人もいた。 O君はやや離れた町のA中学の生徒会長だった。家は土地の旧家で、高校2年と3年は私と同じ7組。彼は人間的な魅力がすごかった。決して他人の悪口を言わず、誰かが学校を休んだりすると「あいつ大丈夫か、勉強が遅れないか」と本気で心配した。人はこうあるべしという信念のようなものも持っていて、断定的なものの言い方が常だったと記憶する。論理的で弁舌さわやか。彼の話には皆が納得した。そして何かの会議で議長をやらせると、議事進行のうまさは抜群。生徒会の役もやってくれていた。本当に、尊敬に値する人物だった。 学科の方も相当なもので、英語と数学は能力別編成になっていて、彼は最上級のE組だった。 進学校でもあったその高校では、毎月のように大学入試の模擬試験があった。試験の結果は朝のホームルームで上位者だけクラス担任から発表された。その中に彼の名前も時々あった。 そして卒業、つまり受験本番の時を迎えた。しかし彼は、国立1期2期、すべり止めの私立大学も、ことごとく失敗した。 一浪の翌年度、二浪の翌翌年度も、すべてだめ。新聞の地方版に載る大学合格者の中に彼の名前はついぞ発見できなかった。彼の力で普通にやれば、そんなはずはないのに。 高校卒業後、何年か年賀状を出したけれど、彼からの返事はまったくなかった。どんな生活を送っているのか、私はわだかまりを心に置いたまま数十年を過ごしてきた。 同窓会で聞いたのは、その後のこと。生活のため何もしないわけにもいかなかったのか、彼は地元の一部上場企業のガードマンをやって、糊口をしのいでいたそうだ。そして、結婚もせず、ずっと独身。そうして、数年前、亡くなったとか。親もそれ以前に亡くなっており、今は無人となった邸宅は雑草に埋もれているとのこと。 一瞬、思った。彼は人生の敗者として一生を過ごしたのだろうか、と。しかしすぐにその考えを否定した。彼のことだ、そんなはずはない。一般的に人が会社勤めを終える頃まで生きてきたのだ。彼なりの意義をもってその長い年月を過ごしたはずだ。 生きるとは何だろうか。生きる己を支えるものは何だろうか。もちろんそれは人によって異なる。 彼を支えたものは何だったのか。世間並みの、カネだとか社会的な地位だとか家族とか、そういう世俗を越えたところでの祈り、安らぎが彼にあったに違いない。その工場に出勤してくる人の今日一日の無事を祈り、勤務中の無事故を確認し、帰って行く従業員の後姿を見送り、門を出入りする関連会社のトラックを眺め、そうして働くすべての人の幸せを我が喜びとする、そんな生活であっただろうことが彼の高校生活から展望できる。 彼は人生の敗者ではない。宗教的な域に入った勝者だったのだと私は信じている。(黄鶴)

1128日「日本製品」
昨日の衆院予算委員会。案の定の展開だ。自民党議員本人にとっては意味があるのだろうが国会の機能からみても国民の疑念を晴らす観点からも何の意味もない時間が長々と。質問とは質すこと、さらには糺すことのはずなのに。 さて、神戸製鋼に続いて三菱マテリアル。製品の検査データを改ざんし、不合格品を合格品として出荷した。これによって日本製品への信頼性がゆらぐと新聞紙上では批判されている。 だがしかし、批判だけで良いのか。そろそろ考え直す時期ではないのか。 日本製品は中国では日本「精品」と表記され、汎用工業製品の品質の高さには彼らは完全に脱帽している。宇宙関連など一部を除き品質管理概念のない中国で誉められても嬉しくもない。が、アジア・アフリカの開発途上国をいくつか訪問し、現地の人々の日本製品とそれを産み出す日本人への尊敬の念、もう信仰にも近いその思いを肌に感じたときは、祖国日本を見直した。 一方で彼らは話していた。日本製品はすばらしいが、いわば神のように聖域にあるものだ、それを供与されるのだから有難い…、日常的にとりあえず我々が購入するのは、急場の用をしのぐために我々の経済力で手の届く安いものだ、品質は少々劣っても構わない、だから中国製品を買うことになる、と。 品質に対する寛容さは開発途上国の人々だけが持つものではない。日本人の感性では1%の不良品発生率は許せないが、ヨーロッパでも、それくらい不良が混じるのは当たり前、人間のやることだから、と考えられている。そういう発言をこの耳で聞いたことがある。そのビジネスマンは日本人の潔癖性を不思議がってもいた。人間に神の業を求めるのかと。 不良品も時には混じる、それが世界の常識だ。ならば、これまでどおりの高い品質の製品も維持しつつ、Bクラス製品として少し品質は劣るが安いものも輸出してはどうか。冒頭に挙げた会社も、背景に納期とコストダウンの圧力があって、わずかに基準を満たさない製品をも合格品として出荷したのではないか。品質を落とせばコストダウンできるのならば、孤高を守るのではなく世界の常識に合わせてもよいのではないか。それで良いのだ。(黄鶴)

1127日「値引きの根拠なし」
森友学園の国有地購入について、会計検査院は値引きの合理的な根拠なしと結論付けた。忖度の有無については言及しなかったが、会計検査院の任務は会計手続きの是非をチェックすることにあるのだから、それは当然だ。余計なことを言うと越権行為になる。 国有財産を売るにせよ何かを買うにせよ、公務員は通常の場合、契約すべき内容とその対価を徹底的に調査・検討し、その予定価格がいかに適正であるかの証明資料を残す。資料を残すのは会計検査に備えるため、ひいては間違った仕事をしていないことを国民に示すためだ。売買の発議は担当者から課長・部長へと上司の決裁を得る。決裁の過程で不備は補強され不合理な要素は排除される。そうしてパーフェクトなものとなり入札から契約に至る。これが鉄則だ。今回の件でも同じ作業の流れがあったはずだが、なぜか算定価格の根拠がないまま決裁が進んだようだ。 普通の公務員がこんなことをするはずがない。担当者のみならずその上司もいい加減なものを認めるなんて。これは組織ぐるみの異常事態だ。そこには通常の手続きに従えない何かの圧力が加わっていたからだとしか説明できない。察するに、8億円値引きするという結論が先にあってこれに適合する理屈を見つけようとして見つからなかったのではないか。政治がらみの案件だと担当者は説明し、そういうものならやむを得ないと上司が苦い顔で認める姿が見えるようだ。行政をゆがめる外圧は政治しかない。公務員は政治家には弱い。 財務省が国交省に積算を依頼した辺りにも疑問を覚える。財務省は値引きの理由づけに困り、責任回避のため仕事を国交省に押し付けた…のではなかったと思いたい。しかし、財務省が早期開校にこだわったことにも外圧の影がちらつく。また財務省は今回の件を受けて改善策を打ち出した。しかしそれに目新しいものはなく、証明資料を残すとか当たり前のことばかりが並べられている。何か対応策を講じなければ批判されるから、形ばかりの策を打ち出したようだ。対応策なら、政治家が行政のプロセスにまで口出ししなければ、それだけでいいのに。 今後国会でどのような丁寧な説明があるのか、楽しみだ。国会での議論を材料に、政権の是非について自由な心証に基づく判定を国民に期待する。(黄鶴)

1122日「どこまでアホか」
毎日々々、ブログの題材に事欠かない。たまには政界に非の打ちどころがない日が欲しい。アホノミクス、とは浜矩子氏の命名になる現政権の経済政策だが、これもアホかと言いたくなる事例だ。 ①首相が参院本会議で所信表明演説の際に原稿のワンセンテンスを読み飛ばしたらしい。高等教育無償化の部分だとか。②それを、官房副長官が謝罪した。③読み飛ばしたにもかかわらず自民党は議事録には原稿どおり書けと要求している。 この一つひとつが常識外れだ。まず①。読み飛ばす…とは何を意味するか。読む人にとってその文章は重要なものではないということだ。政策の根本方針である所信表明演説が。その場所もテキトーにお茶を濁し時間を過ごしておけばいい程度の場所なのだ。国会が。そして読む人は文章の内容を確認しながら、重みを噛みしめながら読んでいるのではないということだ。一国の政策でありながら。たとえば息子や娘の手紙を読むのにその一部を読み飛ばす親はいない。一字一句まで食い入るように見つめ、一回読んだら全文を記憶するほど、その文章に集中するものだ。そこまでの熱情もないのだ。 ②では、なぜ官房副長官が謝罪するのか。読み飛ばしたのは首相本人ではないか。過失は首相にあり首相が謝罪すべきであって、やるとしても官房副長官はその意を伝える伝達役を務めるのがスジではないか。それとも読み飛ばしは官房副長官の教唆によるもので真犯人は官房副長官か。 ③がまた自民独特のごり押しだ。議事録は疑似録ではない。会議中に発言された言葉の記録であり、それ以上でも以下でもない。議員の発言は漏らさず書くべきだし、発言以外のことは書くべきではない。あくまで客観的な記録でなければならない。それを、改竄しろと自民党は言っているのだ。雑誌の対談などはゲラの段階で修正することもあろうが、それとは違う。 一連の流れがまた自民党らしい。親分の不始末は子分の不始末。親分が謝る代わりに子分が謝る。ほかの事案ではあったことをなかったことにしたようだが、今回はなかったことをあったことにしたいらしい。公正さというのはこの党には無理だ。 何から何まで理不尽。これが自民党だ。しかしここまで来ると、もう浪花節と落語の世界だ。国会を傍聴するときは何がしかの木戸銭を払うことにしよう。(黄鶴)

1121日「丁寧」
これまでも丁寧な説明を重ねて来た…。 確かそう聞こえた。国会の代表質問に関する昨日19時のNHKのニュースの中での、加計問題についての安倍総理の答弁だった。 丁寧な説明?そんなもの、いつあった?どうやら閉会中審査を指すらしい。だがそれは言葉使いこそ丁寧にはなったことはあったが、行政が歪められたのではないかという疑念を晴らす中身があったか。十分な説明の機会もないまま国会は解散され、有耶無耶にされた。…言い換えよう。国民の疑念を有耶無耶にするための解散があった、あの怒り、忘れいでか。昨日の答弁であの怒りはますます燃え上がった。もしかして、首相の言う「丁寧」とは、あえて説明をする必要のない軽微な事柄に対してわざわざ総理までが出席して野党のガス抜きの機会を設けた、そういうことを指すのか。論理的で具体的、かつ詳細な説明をすること、さらに質疑に対して十分に答えることではないのだ。叢生踏むべし、生かすに値せず、か。 それにしても、何も説明はなくても、やったと言えば、やったことになるのか。それが事実になるのか。国会とはそういう所か。そうやって「歴史」が作られ、後世の人はその「歴史」を信じてその時代を評価するのか。なんともやるせない気持ちだ。思い出した。会社勤めをしていた頃、何も仕事をしない男が他人の仕事を掲げて自分がやったと社長に報告した。その男は、ひとたびは評価されたが実力がないだけに後が続かず、結局は伸び悩んだまま数年後に退社した。天網恢恢疎にして漏らさず。 数のおごりによる暴挙。まとまらない野党を鼻で笑いながらの、しかしそう笑う資格もない愚劣な挙措。自民党の目の中に国民はいるのだろうか。国民に見られているという意識はないのだろうか。人間としての信義に照らして、人としてのあり方に照らして、恥ずかしいと思わないのだろうか。それとも、これでもかこれでもかと醜悪さを見せつけて、嫌気が差して政治から目をそらす国民が増えるのを待っているのならば、そうはいかない。徹底的に糾弾するまでだ。(黄鶴)

1120日「これぞ高槻」
朝、自転車で買い物に出かけた。 車1台がやっと通れる狭い道でゴミ収集車とすれ違うことになった。私は自転車を停め、収集車が通り過ぎるのを待とうとした。と、収集車が10mほど向こうで停まった。運転席側の窓が開き、手招きする右手が見える。なるほど、私が自転車を停めた所よりも今収集車が停まっている位置の方が道は広そうだ。収集車の脇を自転車も楽々通れる余裕がある。手を挙げて、私は自転車を走らせた。フロントガラスの反射で運転手さんの表情は見えなかったが、この寒い日に自転車の老人の安全のためにわざわざ窓を開ける人だ。想像はつく。 続いて、私は幅2mほどの路地に入った。その先に電動車椅子の老人がいる。私も老人だが、もっと…。 「とおりま~す」と、私は後ろから声をかけた。 「は~い」…。その声の何と明るく元気なことか。 車椅子=不自由=暗い、ではないのだ。この明るさをもたらしているものは何だろう。 路地を左に曲ろうとしたら、正面から来たバイクも同じ方向にハンドルを切った。今度は若い男性だ。通勤時間帯でもある。急いでいるだろうな。私は少しバックした。バイクが走りやすいように。しかしバイクは動こうとしない。どうぞ、と、言うのでもなく、黙ったまま私が先に行くのを待っている顔だ。 頭を下げて、私はペダルを踏んだ。 以上、11月20日月曜日、30分以内に連続して体験した出来事だ。 高槻に、特別の産品も、有名な景色もいらない。こんな心根の人が街にあふれている。これだけで十分だ。ついでに、市議会もなくても困らないのでは…。言い過ぎか。(黄鶴)

1117日「政治家の資質」
国会における与党の質問時間が長くなった、その結果どうなったか。政策審議という国会の機能が減殺された。政策の是非を議論すべき場でありながら野党批判を行う維新には疑問を禁じ得ない。その詳細は新聞紙上に伝えられているので再掲はしないが、与党の国会軽視ないしは国民軽視はここまで来たかと思うと同時に、議員たるに必要な資質にも思いが及んだ。 必要な資質とは何か。法律や行政に関する知識、行政需要をキャッチする調査能力、そうした技術的なことももちろん必要だが、もっと根本的なもの、言葉にしてしまえば安っぽくなるが、人への愛が必要なのではないか。そしてそれは、一人二人を愛するのではなく、千人万人を愛せる大きなもの、でなければならない。大きな愛が形になったもの、それが政策ではないか。 政治家ではなかったが、幸いなことに私は過去の社会人生活の中で、何人かそういう人に接することができた。優しいまなざしや穏やかな声は彼らに共通しており、そこにたゆとう海のようなものを感じさせた。そして彼らの率いるプロジェクトは、すべて成功した。その人のためならと、部下がみんながんばるのだから当然だ。麻雀をしながらふと漏らす言葉などから、その大きな奥深いものは、天性、生まれつきのもののようにも感じ、私は完全に脱帽したものだった。 しかし、テレビやネット中継に登場する多くの議員の発言からは、そうしたものは感じられない。伝わってくるのは、国会議員として存在する自分への愛でしかない。 論語にある。「樊(はん)遅、仁を問う。子曰く、人を愛するなりと」(顔淵)。仁をもって国を治めようとした孔子の教えは現代に通じるのだ。(黄鶴)

1116日「衆院文科委員会」
昨日、衆議院文科委員会のインターネット中継を少し視聴した。テレビ中継のある予算委員会と違い、普通の会議室のような場所で行われており、カメラは質問者と答弁者のみを映し出していて周囲にこれ見よがしに詰める他の議員はいないのが気持ちいい。ただ、音声や映像が途切れることが多く、聞きづらい。 数人の委員の質問を聴いたが、平野博文委員の質問は圧巻だった。静かな語り口の中に不動の信念や哲学といったものを感じさせ、声高に誹謗するわけでもないのに、すさまじい迫力を感じた。 平野委員は言う。獣医学部新設の4条件の一つに「既存の大学で対応困難な場合」とあるが、既存の大学は時代の要請に対応するために必死の活動をしている、対応困難なんてありえない、と。この世界で長年知見を貯めてきた人の言葉だ。さもあらんと納得させられる。抽象的な4条件にどのような意義があるのだろうか。 また彼は言う。認可もしていないのに今治では校舎の建築はどんどん進む、募集も始まっている、これでは国民は委員会の存在価値をうたがうのではないか、と。国会の委員会とは何なのか、国会での議論を離れて行政が勝手に進む、行政のありかたがおかしいのではないか、と。たしかにそうだ。申請者が自分の責任と判断によって行っているとの大臣答弁があったが、認可もされていない大学が募集をかけるのはおかしい。認可されなかったら、募集に応じた学生は空振りになる、学生側に損害が発生する、その惧れがあるのを承知しながら行政がこれを止めないのは、行政の作為義務違反である。加計学園側は認可されるのを内々に承知しているのではないかとの疑いをぬぐいきれない。 特区で大学の設置はそもそもおかしいという基本的な議論に、政府側は誰も応じなかった。わずか20分の質問時間という、その制限によるものではないだろう。加計学園問題は、まっとうな議論の場で勝負できる案件ではないのだ。それを誰もが承知している。その雰囲気がインターネット中継でも伝わってきた。(黄鶴)

1115日「逃げの党」
三十六計逃げるに如かず。孫子13編、呉子6編、尉繚子(うつりょうし)8編、六韜、三略、編数をすべて合計すれば36になる。これら古来愛読されてきた兵法書の総体よりも逃げることの方が上策なのだ。戦えば負ける、そういうときは逃げるに限る。 「モリカケ」問題でも自民党は逃げの一手だ。わざわざ今の時期に質問時間の配分見直しという問題を作り、若手議員にそういう声を出させ、揉める素を作って14日の衆議院文科委員会を流会させた。実質的に審議を拒否したわけだ。「丁寧な説明」はどこに行ったのか。そんな気がないことは、こうした委員会開催に対するこうした妨害行動から了解される。1対4であった質問時間比率を1対2にし、野党も一時的に妥協したが、それも已むを得ない。1対4にこだわって徒に時間を送り委員会そのものがなくなるのも困る。1対2になって自民党が何をするか、国民に見せるのも一法だ。1対2の時代ですら般若心経262文字を唱えるのだから、今度は大般若経600巻か。ところで、その文科委員会だが、15日、今日開催されるものの、TV・ラジオの中継はない。インターネット中継しかない。報道機関も自民党に加担するのか。 時間をかけていれば、その間に他の大変な社会事象も発生し、問題はうやむやになって国民は「モリカケ」を忘れる、餅を食えば忘れる、そういうねらいなのだろう。ここまでコケにされて怒らない国民は、やはり仏様か。うん、お経をあげたのは正しかったのだ。 もう一つ。小池氏が希望の党の代表を辞任した。放り投げたのかと書いたその日、そういう報道があった。プロジェクト達成のために必要なものは計画性、実行力、途上に発生する計画外の諸問題に対する危機管理能力、それらを担う体制だと思うが、何が欠けていたのか。顧みて明日に備えるべきと思う。(黄鶴)

1114日「希望の党 続き」
毎日新聞が「小池劇場の役者たち」と題する上中下3回のシリーズを組んだ。その下編で今日、「…が共同代表に就任した。小池氏は「基本的に国政はお任せしていきたい」と語っている。」という一文でシリーズを結んだ。 あらためて怒りがこみあげてきた。「お任せする」とは、放り投げたという意味にならないか。共同代表という制度自体にも疑問があるが、共同代表の一人は国政を担当しないというのは、何なのか。担当しない人がなぜ国政政党を立ち上げたのか。安倍批判の担い手としての党の将来と小池氏本人の指導力を信じてその旗の下に集まった議員志望者は、国民は、どうなるのか。何のための立党だったのか。 およそ政治家には、と言うより、世の中で何かをやろうとする人には必要なものがある。剣道の気剣体の一致にも通じるのだが、能力・体力・胆力が必要だ。能力とはすなわちその道に必要な知識技能、プレゼンテーションや人心収攬、対人関係構築などの力である。体力は長時間その能力を発揮し続けるための土台になる。気力も体力に支えられる。そして胆力とは噛みつく者に対しては顎が外れるまで噛みつき続けさせる度量、脅しに動じることのない気迫、苦難に堪えぬける意志の力である。胆力は高い理想とそれを実現しようという意欲によって作られ維持される。 誰にも苦しい時はある。必ずある。楽をしたいものだが、そこで耐え抜き、逃げずに挑戦し続けることが必要だ。逃げれば味方も去っていくが、がんばっていれば、それを見る周囲が変わる。こちらを向き、手助けを始めてくれる。 希望の党よ、原点に帰れ。もともと都議選において反安倍で盛り上がった集団だ。反安倍の姿勢を共にする他の野党と組み、モリカケ問題について自民党を糺す姿勢を見せろ。とりあえず他の政策に関する路線の違いは措いていい。あの問題はそういう姿勢を見せるには格好の材料として天に与えられたものだ。他党との協調姿勢によって「排除」の過去を塗りつぶせ。(黄鶴)

1113日「過疎」
瀬戸内地方のその町を、40年ぶりに訪れた。そして、変貌の激しさに驚いた。 昔の国鉄、JRの駅の職員はわずか1名となり、改札を出てみると待合室に人はいなかった。朝夕は特に人波の多かった駅前の道は、昼間のせいもあったが、1km先の曲がり角まで見通せた。その途中に猫が1匹、道路に寝そべっていた。絶え間なくバスが出入りしアナウンスの女性の声が流れていたバスセンターは空き地となり、その跡地の一隅に営業していたらしいガソリンスタンドも今は店を閉めていた。また、かつて賑わった商店街はシャッター通りと化し、通いなれた本屋は跡形もなかった。 町と言ったが、行政上は市である。帰宅後に調べて見ると1970年には5万人いた人口が25年前に4万人、今は3万5千人となっていた。現在、65歳以上の人口比は35%を超えている。ちなみに高槻市の65歳以上の人口は約28%である。むかし、おばあちゃんの原宿と称された東京は巣鴨の地蔵通りに立ち、一見お年寄りと見られる通行人がどれだけ通るのか調べたことがあった。その時は、300人中100人、約33%がお年寄りだったが、その実数以上にこの通りの印象は「年寄ばかり」であった。久しぶりのその町は、地蔵通り並みの町になっていた。 一体誰のせいだ。過疎の町を歩きながら、私は考えた。 人口減少と老齢化はこの町だけではない。全国的な傾向だ。人は農業を捨て、故郷を捨てて都会に出た。出たっきり戻らなかった。田舎町に残った人は少なく、したがって子どもの出生数も減った。減った子どものうち、またその何割かは都会に移り、街を支える人はさらに減った。人間の活動を維持するには一定の数が必要で、その閾値(しきいち)を下回った時、地域社会は崩壊する。既にその域に入っている。そんなふうに、国内はボロボロになった。 誰のせいか。ここ30年の自民党の政策のせい、無策のせいではないか。国内社会を崩壊させておいて、何が安保か。守るべき社会はどこにあるのだ。グローバル化と言えば、みんなが納得するのか。それは免罪符になり得るのか。違う。他国に移転した在来技術のあとに、何も育ててこなかったせいだ。他国に移転可能な仕事を日本人にもやらせよう、そのとき他国と同じ賃金で、と考えた者が悪い。そういう自民党に憤りもせず支持し続ける、それも悪いが。 数十年かけて減らした人口をすぐに取り戻そうというのは難しい。しかし、減少に歯止めをかけ、同じ時間をかけてまた増やすのはできるのではないか。産業政策次第では。 高槻に帰って来て思い出すその町の様子は、あまりに悲しい。揺籃の地が廃墟になりかけている。(黄鶴)

1110日「希望」
希望の党に今後の希望はあるのだろうか。 まず小池氏という人物が私には理解不能である。第一に都知事という重要な守備エリアがありながら国政にも関与しようとする(した)姿勢がわからない。都知事の仕事は一日24時間寝食を忘れて精魂を傾けるほどの重さはないのか。第二に国政政党である希望の党の運営は国会議員にまかせるというのもわからない。ではなぜ国会議員でもない人が国政政党を作ったのか。党首がなぜ運営に関わらないのか。仕事をしない社長がいるとして、そんな会社が発展するのか。第三に惜敗率97%よりも32%の候補者をなぜ優先するのか(2017比例近畿。ここでは維新が惜敗率90%の候補者よりも26%の女性候補者を優先した。罪の重さは維新も同じ)。国民の、より大きな支持、ということはより大きな声を採用しない、民主主義の大原則に沿わないのはなぜなのか。わからない。 希望の党には民進党から流れた議員が多い。希望の党に合流する党の決定に従わざるを得なかった人はともかくとして、民進党を見限って希望の党に流れた人もいる。その方々に言いたいのだが、民進党の衰退は党のせいではない。党を構成していたあなた方に魅力がないから国民が離れたのだ。民進党から離れて他の党に移ったとしても元々資質に欠ける人々が急に有能になるわけではない。だいたい、党が傾いたときに支えようとしないで逃げ出すとは何事か。あげくの果ては先に逃げ出した人間が後に出る者を評価しようという、およそ仁徳にもとる行動をとった。党が傾いたときに逃げ出す人物は国が傾いたときは国を逃げ出すのではないか。自分のことしか考えない御仁に国政は任せられない。骨のある人物は立憲民主党を作った。 そして今でも腹立たしいのは、今回の衆院選における戦略ミスだ。政権奪取のために、どのような政策を提示してどのような体制で臨むのか、混乱があった。ために批判勢力は四分五裂して政権勢力の比較多数という結果を招き、政権支持よりも批判の方が多かった国民の意志は実らなかった。ひとたび無能を露呈した者・集団に信頼は戻らない。人間の本質は時間が経っても変わらないのだ。 以上により、希望の党には希望はないと言わざるをえない。ついでながら、「希」は「こいねがう」とも読むが「まれ」とも読む。まれな望みなのだ。有望ではない。希望の党とは未だ実体のない幻想であること、政権担当能力が育っていないことを国民が見抜き、ついて行こうとしなかった、その結果の50人当選なのだ。(黄鶴)

1109日「GPIFは大丈夫か」
大丈夫に決まっていると専門家はおっしゃるだろうが、シロウトの直感はこれに危惧を覚えるのだ。 いわゆるGPIF、年金積立金管理運用独立行政法人の2017年9月末における資産額は約157兆円。本年度第二四半期の運用収益は約4兆5千億円、2001(平成13)年度の市場開始後の累積運用収益は約63兆円である。 ほぉ、たいしたもんだ…と、感心してはいけない。この資産は時価評価であり、しかも9月末時点で24.35%は国内株式、24.03%は外国株式なのである。この株式保有比率は過去1年間で国内株が2.76ポイント、外国株が3.03ポイント上昇した。それぞれ25%が上限と聞くのでそろそろ買い入れも限界か。 まず、この比率が高すぎないか。いま、株式市況は活況を呈している。元気なうちだからこそ先だって心配するのだが、上がったものは下がる。ここまでの株価上昇はGPIFの買いと外国人の買いによるものだ。GPIF が買い、その結果株価が上がり株主のGPIF自身が株価上昇の恩恵を受けている。そして、売るときはGPIFが…、株価の下落を嫌うGPIFが買い手に回るだろうと読んだ外国人が買い、売り時を待っている。保有資産の24%、約38兆円の日本株式保有高は、例えば22937.60円(11月07日終値)が16000円に下がれば、11~12兆円が煙と消える。16000円はかつて某内閣が死守しようとした日経平均だ。下がるときはそんなものでは収まらない。日本株が下がるとき、外国株も無傷ではいられない。 また、株式の運用内容に疑問がある。購入の際に営業成績をしっかり見極めているのか。公表された株式保有状況(2016年度末)の中に「東芝 715億円」を見るとき、銘柄選択の不健全さに心配が生じるのだ。 繰り返す。GPIFは大丈夫か。見かけ上運用成績のよい今はニュースにもならない。しかし、大きな割合で株式を運用する限り、危険はつきまとう。理事長の言「当法人は長期的な観点から運用を行っており、投資原則・行動規範を遵守し、年金財政に必要な積立金を残すためにしっかりと受託者責任を果たす」の中に、私の危惧は解消される動きを含むと期待したい。(黄鶴)

1108日「自民党議員による国会質問」
兎小屋といえば兎が身をよじって笑いそうな、小さな山小屋を建てた。 その地の標高は約500m。朝は遠い山なみから陽が登る。太陽は、山からすぐに顔を出すのは希で、たいがいは山の上に漂う黒い霞のようなものの上に、さっと金色の光を放つ。そして瞬時に周囲の雲霞を金色に染める。 それは荘厳で、善であろうが悪であろうが人の所業の小さいことを教えてくれる。 ひとつには世俗を脱するための山小屋だったが、やはりニュースは入ってくる。そして大自然の中にいるだけに、ものごとの本当の姿がより鮮明に見えてくる。 7日の自民党総務会では質問時間の増を求める声が相次いだそうだ。いったい、自民党代議士とは何者なのか。「議員活動としての記録を残したい」との理由は一見もっともらしいが、要するに自分が目立ちたいだけの話だ。国会議員はだれのために存在するのか。国民のためだ。何のために存在するのか。いろいろあるが究極的には国民の福利増進のためだ。であるはずなのに、それを忘れ、自分の名を挙げて選挙区の支持者に己が姿を華々しく見せようとする、そして国会議員としての自分を長続きさせようとする、なんという愚かしさか。自民党の質問時間が増えて、その結果国会が国政チェック機能を減退させ、かつてのように国民をあらぬ方向に導く、それでもよいのか。野党の追及がいやで逃げまわる、そんな政府中枢に加担するのか。そんな国会での質問より、政策提言で自分をアピールしたらどうか。今の閉塞的な状況をどうやったら打開できるのか、どのような法案を提出したら政界での明るいニュースになるのか、そのアイディアを出したらどうだ。それができる実力がないから、質問の場で目立とうとしている。 記録を残すためなら、自民党内での議論を公開・公刊し、TVにも放映し、文字や映像での記録を残したらどうか。「自由民主」という機関紙もそういう場ではないのか。ともかく何でもよい、既存のものにすがりつき、慣習を壊して物議をかもすのではなく、広報のための新たな手段を産み出せ。そうやって、新たな時代を切り開くのは我々だと、その力があることを示したらどうか。(黄鶴)

1107日「2%への疑問」
物価目標2%というのは正しい政策なのか。この疑問がずっと頭を離れない。 物価が上がる。それはそもそも望ましいことなのか。国レベルで総体をみたときはいざ知らず、個々人にとってそれが喜ばしいことであるはずがない。物価が上がる、手持ちの金融資産の価値は下がる、貧しくなる…、それは困る。保有資産がない場合は、毎月の収入で買えるものが減る、暗い灯の下の夕食は貧しくなる、子どもの服も買えなくなる…、そんな世の中を誰も喜ばない。 日本の労働者5391万人のうち2023万人、37.5%は非正規労働者だ(平成28年総務省労働力調査)。弱い立場の人にとって、1年で2%、5年たてば10.4%の物価上昇は問題ない数字なのか。年金受給者402万5千人(平成27年)にとってはどうなのか。厚生年金受給者の平均年金月額は、平成23年に152,396円だったのが平成27年には147,872円に低下している。また労働者の平均年間所得は平成17年約437万円だったのが平成27年には約420万円に低下している(国税庁)。 その中での物価上昇なのだ。幸いに(!)政策は実らず、これまで物価は上がらなかったから、問題視はされなかった。しかし今後はわからない。過去1年、円/ドルレートは108円あたりから115円ほどのボックス圏で変動していたが、欧米の金利正常化と日本の低金利据え置きのおかげで、近いうちにその範囲を越えるだろう。そして石油などエネルギー源をはじめ輸入物価が上がり、物価全体に波及していく。ただ、買い控えがそれを抑制するかもしれない。ともかく、生活を苦しくするのが政策として正しいか。 将来物価が上がるとなれば、今、欲しいものを買うだろう、そして需要が拡大するだろう…との説を聞いたことがある。なんという愚かな考えか。2人以上の勤労者世帯において、貯蓄2千万円以上の世帯は全体の約3割に過ぎない。勤労者の大半は何か大きなものを買いたくても余力がない。そして余力のある人は、すでに必要なものは身の回りにあって、新たに購入したいものはない。そういう理由で需要は増えない。政策立案者に現実は見えているのだろうか。 どの国もそうだが、内政に行き詰ると為政者は外国に問題を作る。周辺国を悪者に仕立てて国難を演出する。私たちはそうした嘘に目を奪われてはならない。給料が増えない、安定した仕事がない、結婚できない、子どもを作れない、将来の人口は減って産業を形作る人材が不足する、これこそ国難なのだ。遠からず日本は自滅する。隣国はあえて軍事的危険を冒す必要もない。(黄鶴)

1106日 「獣医学部」
欠け学園、いや変換ミスだ…、加計学園獣医学部新設が認可されるらしい。総理の意向云々で衆院選前に国民の疑惑を招いたあの話だ。 認可という結論に至ったのは、申請内容が認可の基準に合致したからという合理的な理由からなのだろう。それとも審議会は自民党の管理下にあり、圧勝という結果から、世論はもう抵抗しないと自民党は読んだ、そういうことなのだろうか。そりゃ下衆の勘繰りに違いない。圧勝とは小選挙区制のなせるマジックであって国民の支持が数字となって表れたものでないことは誰もが承知している。 ただ、どうにも疑惑は解消しない。認可の裏に何かあるのではないかという思いが消えない。自民党が今回の衆院選で敗北していたら、同じ結論になっただろうか。 それはともかく、今からは何かやりたいと思ったら、権力者のお友達になるのが一番の早道のようだ。仲良しになり、法の網を広げてもらい、あるいはお目こぼしを頂戴する、そして見返りに何かを提供する、そうした関係を作り上げることが、愚直に法に従うことよりもはるかに重要らしい。 しかしそれは中世以前の日本の姿だ。近世以後の日本民族は、契約内容を文書化し、度量衡を統一し、村々の内にまで法制を整備し、そうやって何百年もかけて近代化への道を歩んできた。ここでいう近代化とは客観的公正さを目指す道だ。その背景には儒教的道徳観やヨーロッパ列国との対抗意識があったと思う。 その積み上げたものが一挙に崩れようとしている。というか、日本人の本性はこの500年間ずっと、外見上の近代化といっしょに変わってはいなかったのかもしれない。歴史への透徹した眼があれば、歴史に逆行すると見えることはいっさい為しえないはずなのだが、政治の世界での瞬間風速は逆に吹くこともあるようだ。歴史の財産をさらに積み上げることは今の政治の世界では難しいのだ。古来変わらぬ日本人の本性に沿っているがゆえに現政権は人気も高い。だがそれでよいのか。(黄鶴)

1102日 「静かな議会」
里の秋という歌がある。たしか、小学校の音楽の教科書に載っていたように記憶する。 静かな静かな里の秋…。裏庭に木の実の落ちる音が聞こえる静かさが、昔の里にはあったらしい。 市議会を傍聴するたびに、なぜか私の頭の中にはこの歌が響く。高槻市議会の3月期と6月期における議員の質疑状況は、全議員を平均すると1会期当たり常任委員会で1回、本会議で1回の質問(議案に対する質疑または一般質問)をしただけだった(7 基礎資料 (1)②改選後 2017年3月~6月議会)。ただし、質疑は特定の議員(中村・川口・北岡議員が10件以上)に集中しており、この御三方を除けば、そして内容の重さ軽さを加味すれば、静けさはさらに深まる。この静けさに対して、高槻市民はこの半年間で議員一人に対し約500万円の税金を与えている。 ところで「里の秋」だが、あるTV番組でこの歌が流された。歌の紹介に( )書きで昭和20年の作とあった。これで歌の意味が瞬時にわかった。 「お舟に揺られて帰られる、ああ、父さんよ ご無事でと…」というのが歌詞の3番である。船で日本に帰ることが無事を祈るほど大変なことなのか、この数十年間不思議に思っていたのだが、歌の中の「私」は、南方の椰子の島から復員する父の帰りを待っていたのだ。 復員船に乗ること自体が難しく、乗ったとしてもその船は客船のような設備はなく甲板や倉庫に収容されていたはずだ。そして日本近海には米軍機が投下したおびただしい数の機雷が残存していて、船舶は触雷沈没のおそれがあった。そういう危険の中を帰る父への祈りであったのだ。 外地にあって家族を思う父の思いも、今ではよくわかる。 テレビから流れる歌声が体に沁みた。(黄鶴)

1101日 「維新はどこへ」
本来は高槻市政についてのHPでありブログなのだが、衆院選についてもう少し触れさせていただきたい。 今回、維新が埋没した。 図は2012年から2017年の過去3回の衆院選における大阪10区の候補者得票数合計、その中の維新(政党の名称は過去いろいろと変わったが、ここでは「維新」と表記する)の松波候補の得票数と比例区近畿ブロックにおける維新の得票数の推移である。


この図に示されるとおり、2012年の選挙は維新が盛り上げた。維新が人の目を政治に向かわせた。比例区近畿では約300万票を集め、全体の約31%を占めた。大阪10区では約20万人を投票所に向かわせた。それが5年たてば、比例近畿に占める率は約18%、約155万票に低下し、大阪10区では投票総数は約17万7千となった。その退潮がそのまま松浪候補の票数の低下となっている。高槻・島本地区に、維新に期待したもののその後は政治に興味を失い、投票所に行かなくなった人が約2万人いるのだ。 なぜか。「身を切る改革・実のある改革」というが、何をどう改革するのか、したのか、有権者に見えていないのではないか。大阪府議会議員の数を減らした、給料を減らしたと言われても、それが大阪府の財政改善にどの程度役立ったのか。仕事がなくて困っている若者、正社員になれない、派遣の仕事しかない若者をどうやって救うのか、その具体策はどうだったのか。地下鉄民営化が真に府民のためになっていると検証したか。検証結果があったとして、それをどのようにアピールしたか。私たちに見えないものがあれこれあるのだ。 繰り言になるが、政党ならば、応急措置として必要な財政カットや教育上の手当を行うと同時に、人の生活を骨格から形づくる政策…極言すればそれは産業政策…を考え実行することが必要だ。それがない限り、一時的に人目を引いたとしても、永続的な支持は得られない。確かな手ごたえを感じない政党に人は集まらない。集まった人もやがて離れる。それは歴史が示している。 半減したとはいえ、今も維新は比例区近畿ブロックで約155万票を集める。かの立憲民主党がそこで得た約134万票を上回るのだ。実に根強い、固定的な支持層がある。世直しへの彼らの期待に応え5年前に比例区近畿で得た約300万の人々を呼び戻すためにも、地方自治の形態論などにこだわらず、安定的な組織運営のもとに、幅と力のある政党への脱皮を期待したい。そうでなければ、かつて維新に期待した多くの人々の心は癒されない。(黄鶴)

1031日 「質問時間その2」
今朝のNHKニュースを聞いて耳を疑った。これが政権政党のやることか。 国会延長を望むなら与党質問時間の配分増を認めよ、という自民の提案だそうだ。 まるで腹を空かせた人に対して「食事を与えるから別の毒も飲め」と言っているようなものだ。なんと、あくどいことを。 それにこれは、子供だましの話であることがすぐわかる。国会を延長する、質問時間が増える、増えた時間は自民党が使う、野党の質問時間はそのまま…。これでは野党にメリットはない。丁寧な審議を期待する国民の意志にも副わない。法案に対する意見を抑える、これで民主主義の国と言えるのか。 法案に自信があるなら、質問時間に制限なし、何でも聞いてくれ、じっくりとありとあらゆる切り口から検討した法案だ、国民の福利厚生に役立つ法案なのだ、何でも答えよう、そういう態度がなぜ取れないのか。顧みてやましくなければ、堂々と野党に立ち向かえるはずだ。 だんだんと自民党のねらいが見えてきた。審議時間の大半を形式的な質問で埋め尽くし、そうして国会を陳腐化する、これに呆れた国民をますます政治から離れさせる、政治への絶望から選挙にも行かなくなるように仕向ける、こうした風土を作って、その中で自分の希望・欲望を達成したいのだ。国民の希望ではなく。国家昏乱して、忠臣が出るのではなく逆臣ありだ。(黄鶴)

1030日 「質問時間」
またぞろ数を恃む自民党の横暴が始まった。 今まで野党に比較的多く配分されていた国会での質問時間を、今後は議席数に応じて配分しようと、自民党は言う。場所を国会だけに特定して考えると、これは一見合理的である。しかし、その理由が面白い。自民党若手議員に質問の時間を与えたいから、だそうだ。若手議員に質問させたいなら、いま自民党に割り振られている時間の中で、老人議員の質問はやめて若手にやらせればよいだけの話ではないか。 そもそも議会における質問とは何か。法律案、すなわち政策に対するチェックではないか。今まで与党の質問に政策のチェック機能が働いたことがあったか。形式的な質問や聞き飽きた政策効果を再確認するもの、政府首脳への賛辞・献辞ばかりだったではないか。一言もってこれを覆えば、自民党による質問は時間の無駄であった。 その無駄な時間を、さらに増やそうというのである。増やして、国会という舞台でのショーの機会を若手議員に与えようというのである。それを地元の支持者に見せたいのである。国会軽視も甚だしい。国会を、真に国策を議論する場所ではなく、どこかの劇場程度にしか認識していない。 別の面からみると、国会に上程された法案は、既に自民党の関係部会において十分な審議がなされている。自民党の了承を経た上で国会の場に出されているのだ。既に自民党内で料理されているものを、なぜ自民党は国会であらためて審議するのか。そりゃ、建前上は自民党も国会における会派であって、政府案を審議する立場にある。だから質問するのだとしても、国民の目にはあまりにそれは白々しく映る。そういう意味でも無駄な行為である。 昔むかし、中学生だった私は、政府と一体である自民党が質問するのはおかしい、そんなことは一切やめて社会党(当時)、民社党(同)と共産党だけが質問するようにすれば、時間は少なくて済むし議論が引き締まるのではないかと考えていた。今もその考えは変わっていない。またお経を唱える議員が出てこないのを祈る。(黄鶴)

1027日 「政党に望むもの」
あらためて漢和辞典で「政」、「党」の意味を調べてみたのだが…。 政党の「党」は形声文字で、一般的には「仲間」という意味だが、原義は「さえぎられて暗い」である。大修館の新漢和辞典では、「おもねる、へつらう」「かたよる、えこひいきする」「助け合って悪事を隠し合う」という意味を並べている。なるほど。Partyという英単語に対して「政党」という字を当てた意味が、今わかった。ちなみに、角川の漢和中辞典では「党」の説明にそこまでは書いてない。「党人」には「助けあって欠点を隠し合う仲間」とあるが。一方、「政」は「正す」である。「ととのえ、おさめる」(角川)である。まあ、ここでは政党を「意見を共にする集団」(IDIOMATIC AND SYNTACTIC ENGLISH DICTIONARY)としておこう。 立憲民主党に望みたいことがある。その第一は、文字どおり、政治を正す集団であってほしい。嘘によって国民を錯覚させ誤った道を歩ませるのはやめてほしい。第二に、草の根も良いが、市民活動家の延長のような視点は捨ててほしい。身の回りの細々とした話よりも、国政集団であるからには財政・産業・外交といった国家存立の柱となることにつき、まとまった理論体系とその帰結乃至は現実的対策としての政策を自ら構築してほしい。難しい話は官僚に任せて…では困るのだ。そうしたことによって、政権を担える政党としての国民の確固たる信頼を築き上げてほしい。自民批判によって成り立つのではなく、あるいは自民支持であるが安倍批判者の一時的避難場所ではなく、自ら灯となって国民を集め誘ってほしい。 政治とは甘い話ばかりではない。この先、1000兆円の借金は我関せずと安逸をむさぼりたい人間の本性との厳しい戦いが予想される。そういう時こそ枝野さんの弁舌の出番だ。そうそう、立憲民主の旗の下に加わりたいという人がいれば、『排除』だけはやめてほしい。(黄鶴)

1026日 「Publish or perish
こうしたブログの場合、思ったこと感じたことは早めに書かないと何かの記事の後追いになる。 どうせ同じ環境にある同じ日本人だ。同じようなことを感じ考えるものらしい。昨日山尾さんのことを書いたら、同じ日の毎日新聞(東京版)の夕刊が「私生活よりも政治家としての実績」として山尾さんの選挙活動の跡について1ページ全部を使う大きな記事を載せた。さすがに自民党謀略説は書いてなかったが。やれやれ、一日遅れたら我がブログの原稿が腐ってしまうところだった。 さて、立憲民主党にお願いがある。既に誰かがどこかで言っているかもしれないが、早急にシャドーキャビネット、いわゆる影の内閣を編成してほしい。それによって、いつでも政権交代できること、その意欲と能力があることを国民の前に示して欲しい。シャドーキャビネットの編成表を見れば国民の2割が思う。10月22日に自分が鉛筆で書いた投票先に誤りはなかったと。他党支持者にも何らかの衝撃があろう。 その人材はどうか。ひとたびは政権を握った民主党を構成していた面々である。大臣・副大臣を経験した議員も多い。また、その職位になくても、かかる場合に我ならばこうすると、政権にあったときに大臣の傍近くで行政の裏表を勉強していた議員もいるだろう。人材には事欠かないはずである。 だが万一、不安があるならば、野党でいる間に人を育ててほしい。議員には国勢調査権もあるからあれこれ調べて行政の最適解を見出し、頻繁に勉強会も開いて、議員個人と政党としての力をつけてほしい。 健全野党など要らない。枯れ落ちる自民党の代わりとなる若葉になってほしい。一日も早く。(黄鶴) *Publish or perish:公表せよ、さもなくば腐敗する(拙訳)

1025日「山尾さん、おめでとう」
2017年秋の衆院選でうれしかったことの一つは愛知7区での山尾さんの当選だ。得票数は128,163票。自民党の鈴木候補との差はわずか834票であったが、当選は当選だ。 この票数は何を示すか。週刊誌ではいろんなことを書きたてられたが、山尾さんの潔白を信じる人の多さを、あの週刊誌の記事に収束する一連の騒ぎは誰かの謀略ではなかったかと疑う人の多さを物語るものではないか。 実際、政府にとっては手ごわい論客である。不正を見抜き詭弁を論破する力がある。ありすぎる。生かせておいてはまずい人物である。何とか闇に葬りたいところだろう。辻元さんを秘書給与問題で一度政界から追放したように、折りあらばと失脚させる機会をうかがっていたことだろう。そして、不倫疑惑を生ぜしめた。 実際はすべてが下衆の勘繰りで、やましいことなどなかったのだろうが、仮に恋愛があろうが不倫があろうが、そんなことは知ったことではない。政治家は政治の世界で実績を挙げればそれでよい。反社会的な犯罪行為は困るが。だいたい、誰かに不倫があったとして、その人を石もて追うことのできる真っ白な男がどれだけいるのか。過去の大政治家の私的生活はどうだったか。 ひとたび泥の海に沈んでも、そこから這い上がった人間は強い。山尾さんの今後に期待する。国会で再びあの姿を見ることができるのは、うれしいことだ。ただ、無所属のままでは質問時間も割り当てが少ないので、立憲民主党に入るとか、統一会派を組むとか、そんな手段も必要ではないか。(黄鶴)

1024日 「胸を張ろう」
選挙期間中の10月16日だったろうか、各党がどのような情勢にあるかが各種メディアに発表された。「自民党三分の二に迫る勢い、希望失速…」という内容だった。この種の調査は、いつも選挙結果を正確に予測する。前回の衆院選のときもそうだった。この日から、私は眠れなくなった。 愚民は愚政しか選べないのか。18歳の若者に選挙権を与えるのは、彼らが自民支持と知ってのことか。比較第一党でさえあれば支持率が50%を超えなくても政権を握る、小選挙区という悪魔の制度をこのまま存続させてよいのか。なぜ今選挙なのか。それは野党の態勢が整っていないからだ、卑怯だ…、しかし敵の虚を突くのは戦法の基本だ。自民党の、国家を守るという選挙戦の謳い文句。そんなことは当たり前だ。日本人であれば、どの党だって同じことをする。争点になり得ないことを争点に揚げるとは、なんと国民を愚弄した態度か。…様々な思いが交錯した。 今後どうなるのか。みそぎは済んだ、自民のやったことやこれからやろうとすること、すべてが国民の信託のもとにあるとして、過去に行われたことが繰り返されるのだろう。国民の多数意見を無視した強行採決、政治の私物化、何があっても説明しない国会を軽視した態度、などなど。 しかし、選挙結果を見て、私は思い直した。反安倍の方々よ、胸を張ろう。まっとうな政治を望む国民が多いのだ。自民支持の組織票を向こうに回して、草の根の票が堂々の数字を得ているではないか。そういう国民の気持ちが立憲民主党を野党第一党に押し上げているではないか。すばらしいことだ。それに、比例区で立憲と希望の2党の数字を合計すると、大体の選挙区で自民より多いではないか。これは野党がきちんと結集することができれば、政権交代も可能であるということだ。今回の選挙でそれが明らかになったのは、収穫のひとつだ。そうだ。胸を張ろう。そしてシャドーキャビネットの設置や国家の骨となる政策の提示など、頼りになる野党として必要なことを、今後は語ろうではないか。(黄鶴)

616日「トップの責任」
18歳になる親孝行の息子がいた。酒好きの父親のために、息子は酒屋の店先から四合瓶を1本盗もうとして、バッグに入れて立ち去ろうとしたとき、店主に呼び止められた。警察の調べに際し、息子は他店で買ったものだと犯行を否認したが、目撃者の供述や瓶に付着していた店主の指紋などの証拠を突きつけられ、隠しきれずに自供した。父親は「盗めとは言っていない。飲みたいなぁと話したこともない。息子はもう大きいので放任だ」と、言った。さて、父親の責任はどうか。 言葉での指示も態度でのそそのかしも何もないから教唆犯とはいえない。息子の年齢は、親の監督責任を云々(でんでん、ではない)する時期でもない。したがって刑事法上の責任はない。しかしそれで世間は許すか。父親ならば、ルールに外れた行為はしないように幼い頃から指導し、後ろ指を指されるような結果を招かないように息子の言動には普段から常に留意しておくべきで、それをしなかったために結果が発生したことに、道義的な責任があると百人中百人が言うのではないか。 政治・行政の責任も同じだ。トップの指示はなくても、指示したと同様の結果を招いて行政の公正さと国民からの信頼が失われ、結果が発生するまでのプロセスにそれを未然に防止しようとする努力がまったく認められない場合、結果発生を未然に防止するための作為義務に違反している、そのことによる責任が発生すると言えるのではないか。「指示したことはない」と言うのは、責任がないことにはならないのだ。 本日午後、トップは参院予算委員会で何を言うのだろうか。(黄鶴)

615日「馬脚」
悲しい朝になった。日本が馬脚を現した。日本は民主主義の国だというのは実は教え込まれた錯覚で、本当は政治貴族による独裁国家であった(わがパソコンは「どくさい」をなぜか「ど臭い」と変換した)。民主主義の理念を実践しようとする国民は少なく、民主主義国家たらんと指導する政治家はもっと少ない。組織票によって選出された自民党代議士に「代議」の意識はなく、党に言われるままの白い1票提出マシーンに過ぎない。そんな惨状が露わになった朝になった。いま、日本の何を誇りにすればいいのだろうか。外国の政治状況を笑う資格は日本にはない。 採決に関し私の言いたいことは、既に新聞やテレビが声高にしゃべっている。曰く、審議をしない国会の存在意義は、既にない。曰く、民主主義の自滅。曰く加計隠し。だから、これ以上触れない。 国会議員は、自分の罪がどれほどのものか、わかっているのだろうか。法律は議員立法を除き、各省が企画し国会に送る。企画立案の主役は各省の官僚である。国会議員はそれを審議し賛否を表わす。提出される法律案は、真に国民の福利の増進を願うものもあるが、各省の役人が許認可の権限を増大すること、仕事をやり易くすることが目的のものもある。国会議員の行うべきは法案の本質を見極め国民にとって何が幸せかを考えつつ自分の態度を決することである。 この共謀罪法案の裏には警察官僚の姿がある。実行された犯罪を捜査するのではなく犯罪の準備段階で検挙できたらどれだけ治安維持の仕事が効果的にできるだろうかと思う心情は理解不可能ではない。しかし、既に言われているとおり、民心の内面に踏み込む危険性が伴う。その危険性を、これまでの政治の良識は押しとどめていたが、今回ダムは決壊した。国民の不安を除去するための、主体や犯罪の準備に関する厳格な定義づけの議論もなく、議員達はこれを成立させた。実行犯処罰から準備犯処罰への転換は、思想信条に踏み込む権力を警察官に与えることにより、民の力よりも警察の力を大きくした大転換となる。或いは暗い時代への大転換にもなりうる。それが議員にわかっているのだろうか。 次の国政選挙まで、この怒りは絶対に消さない。(黄鶴)

613日「不定見」
高槻市議会のHPを見ると、大阪維新の会・市政刷新議員団は4月28日付で会派を解散し、会派代表者であった太田貴子議員が無所属となり、残り4人が大阪維新の会高槻市議会議員団を構成している。これは何だ? 太田議員の維新離脱については大きな問題がある。その一は有権者の期待に反した行動であることだ。維新の会ならば旧来の枠にこだわらない自由な発想の下、さまざまな斬新な政策を展開してくれるだろう、そこに期待して維新の候補に投票した数千人の有権者がいるはずで、その人々の心を裏切ることになる。裏切られた有権者の市政への願いは宙に浮く。それを思えば、会派離脱は議員個人の意思で勝手にできるものではない。思いを空しくすることになった彼らは次回の選挙にどのような投票行動をとるのだろうか。その二は会派の代表者としての責任を放棄したことである。代表者ならば構成メンバーの活動を支援し会派全体をまとめて一つの方向に向かわせる責務がある。それは4年の任期の最後まで全うすべきだ。さらに会派解散に際して、その理由や事情を知りたいが、会派構成員のHPやフェイスブックで何ひとつ説明がなされていない。そもそもこの維新・市政刷新の会派ではHPを持っていたのが太田議員1名で、太田議員のHPでは今もって「維新の会高槻島本支部幹事長」「…維新議員2期目活動。…現在3期目…」等々の言葉があり、これを読む限り、文脈上は今も維新の議員であるかのような印象を受ける。大阪維新の会に属してはいるが市議会では維新の会とは無縁なのか。理解に苦しむ。公人ならば、自己の政治活動について十分な説明が必要なのに、何もない。それともHPは、4月16日の島本町議の選挙結果は書いてあるから、その後の更新がされていないのか。ともかくこれは許されることではない。議員の政治活動は税金によって支えられているのだ。税金を払っている側に活動状況を逐一説明する必要がある。いや、義務がある。ついでに言えば政務活動費も総額84万円をほとんど残さず使用しているではないか。議員個人の金で自由に活動していると、勘違いしてもらっては困る。 さらに言えば、維新の議員3名、自民党の議員2名が、今期議会の始まりに際して連動し5名の集団を作ったのだが、その数を減じたことも問題なきにしもあらずである。良きにつけ悪しきにつけ政治は数である。数がものを言うのが現実である。その大きな力の源泉を自ら弱めた。市議会の4人の会派は、これで4つになった。さらにさらに、自民党議員だったはずの2名が維新の会という名の会派に所属している。これも奇怪だ。自民党から維新の会に鞍替えしたのか。市政刷新は止めたのか。会派の所属替えは、社会観・歴史観・政治観にその程度の見識しかなかったのかと疑われないか。(黄鶴)

612日 「卑怯」
国のやることは、この程度のレベルか。失望すること限りなし。その振る舞いをどんな言葉で批判するべきか、言葉もない。 森友学園関連で検察庁は、籠池氏を詐欺容疑で立件する方針を固めた。国や府から補助金を得たことにつき、人を欺いて財物を交付させたという構成要件を満足すれば、それは詐欺罪になる。詐欺罪を捜査することは、司法機関としては当然のことであろう。 しかし、国民の真に知りたいことは、そもそもなぜ森友学園に小学校の認可が下りたのか、なぜ国有地を格安の金額で購入することができたのか、そのプロセスにどのような力が働けばそのような結果が生まれるのか、である。そのあたりの解明作業をないがしろにして、刑法犯に相当する部分だけを取り上げて事件にしようとするのは、不都合な事実を隠すために関係者を犯罪人に仕立て上げて社会から遠ざけ、事案の全体を闇に葬り去ろうという意図によるものと言わざるを得ない。些末な事案はどうでもよい、正々堂々とすべての客観的事実を明らかにせよ、卑怯な振る舞いはやめろ、と言いたい。 ただ、検察庁も詐欺事件とは別に、国有地を安く売ったことに関し担当部局を告発しようという一般人の申し出を受理し、背任事件として捜査するようだ。ほかにも確か、会計検査院も公会計のやり取りの中から事実関係を明らかにしようとするはずだ。そのあたりの活動にも期待したいが、そういった各省各庁の機能を総合調整し、国として森友学園事件の全体像を明らかにしようとする人も機関もないのが淋しい。今の政府にそれを期待するのは無理か。欲求不満がつのる。内閣支持率は今どうなっているのだろう。こういう時こそ、支持率を明らかにしてもらいたい。(黄鶴)

609日 「高槻市議会議員のパフォーマンス」
2年前の市議会議員選挙で、みなさんいろんなことを公約され、議員になったり落選されたりしました。議員になられた方は、その後の議会活動の中でどのように公約実現に努められたのかを知りたいと思いまして、 ①2015~2016年度の一般質問回数と、その中で公約に触れられた質問の回数の比、 ②公約の項目数と一般質問でそれに触れられた項目数の比、 ③2年間の一般質問の回数 を、xyz軸上に三次元的に表わしてみました。右に行くほど、奥に行くほど、上に行くほど議員としての本分を全うしようと努めた議員であると言えます。 とくとご覧ください。(白雲)

6月09日 「無関心」
政治への無関心は、このようにして醸成されるのかと納得した。 森友学園に続く加計学園問題で、政府は必死にこの実態を隠そうとする。隠す先からぽろぽろと実像がこぼれ出て、政府の嘘に国民は呆れ果てる。日々、政治家への不信は深まっていく。国会ではまともに質問に答えず、質問者を小ばかにしたような政府中枢と高級官僚の答弁が続き、質問者のみならず、その背後の視聴者、国民の怒りを買っている。 誰だって醜いものは見たくない。醜悪なものからは目をそらし、美しいもの、清らかなものに目を向けたい。いやなことや辛い現実は忘れていたい。で、そうすることに努める。このようにして、政治を離れ、趣味の世界や飲食の楽しみの中に身を置く…、そんな人も生まれる。 その一方で、眠りから覚め、政治家からなめられていることへの怒りに燃える国民も増えてきた。新聞の読者の声の欄に、その傾向がうかがえる。 為政者がどうやって国民の声の大きさを測っているのかわからないが、もうこのままでは世論の圧力に抗しきれない、無理をして突っぱねることを続けると内閣が瓦解すると判断したのか、文科省が加計学園文書の再調査を行うことを決定した。しかし、もう遅い。文書はあるとわかっているのに、今さら何の調査だろうか。一度ならず二度までも事実を糊塗しようとする態度によって失った政府への信頼は、取り戻せない。(黄鶴)

531日「PKO部隊」
南スーダンからPKO部隊全員が無事に帰国した。政権にとって「無事に」帰国したことの意味は大きい。実態は兵員の損害が出る前に逃げ帰ったのであろうが。 南スーダンの情勢がPKO5原則に合わなくなってきたと報道され始めたのは昨年秋だ。それを政権は合致していると言い、部隊派遣を続けてきた。政府軍と反政府軍の間に交戦はあっても戦闘はないと政権は言い、事実を隠してきた。この状態で死者が出たら政権は窮地に立つ。内閣の支持率は一気に下がる。それを未然に避けるための早期帰国とみるのが順当だ。資質に欠ける大臣であることをマスコミはもう追及することをしないが、何かあったら今の防衛大臣ではもたない。新しい国づくりが始まったなど、真っ赤なウソ。その画期的事実に関する具体的な説明を聞かない。国連に対する説明はどうだったのか、その報道もない。 PKOに関しても、いま、何のための政策決定か。国家のためではない。内閣保護のためである。誰のための政治になっているか。国民のためではない。内閣自身のためである。そこにあきれ果てるのだ。グローバルな需要よりも国内政治のために利用される自衛隊も気の毒だ。(黄鶴)

526日 「総理の御意向・文書は在る」
文科省の天下り問題で責任を取った前次官の前川氏、よくぞ言った。ひさしぶりに気持ちがすっきりするニュースだった。 行政の現場への政治の圧力、ないはずがない。いっぱいある。私の公務員時代、「議員〇〇の秘書ですが…」と聞こえる電話が時々あった。しかしそんなもので行政の本筋を捻じ曲げられるのを私は嫌った。自分が働くのは公共の利益のためであって議員のためではない。〇〇の意向を私は無視した。それかあらぬか、私自身は組織の中央から存在を無視され続けた。呵呵。このあたりを上手にやることが、公務員の素養の一つなのだが、どうにも私は不器用だった。…私事はどうでもよい。 在るものは在る。これが実態だろう。しかし、それをないこととする。建前を、あちこちに差し障りのない虚構を作り上げて、公表する。これが役人の常識だ。それが事実であっても、政権に不都合なことは現職公務員には言えない。人事権をもつ相手に、言ってはならないのだ。 大人の世界には当然あることとして、建前を国民は納得して受け入れる、それが官邸の判断だろうか。国防や経済の安定という大事の前の小事、ここは建前を押し通すことを国民は許容する、そういう判断だろうか。しかし、森友学園といい今回の加計学園といい、政権中枢による政治の私物化は目に余る。前川発言も「いくらなんでも、そこまではなあ」という関係者の反乱と見える。官房長官は文書の存在をあらためて否定し、前川氏の人格攻撃をおこなっているが、みっともない。どちらに理があり非があるか、一目瞭然だ。国民も、一方に何らかの業績があったとしても、醜態の続く内閣には嫌気がさすのではないか。(黄鶴)

524日「がん患者は働かなくてよい」
どのような精神構造がこの言葉を外に出すのだろうか。 癌に侵され将来を失った悲しみ苦しみ、癌でありながら生活のために働かなければならない辛さ、たとえ寛解してもまた悪化するのではないかという不安…。本人も家族も、癌と共に生きる毎日は、暗く重い。 それを理解しようとしない、理解できないからこそ、標題の発言が生まれるのだろう。優しさに欠ける人物である。 政治の究極の役割を人の痛みを和らげることとするならば、人の痛みの理解できない人間に政治家の資格はない。ウィキペディアによると、この人は1975年の江戸川区議当選以来の政治家だが、よくも長期間続いたものだ。 政治家として不向きなことが明らかになった以上、即刻議員を辞職すべきだ。しかし、その気配はない。都連副会長を辞任したらしいが、その理由は都議選に迷惑をかけてはいけないからと、報道は伝える。 本人にその気がないなら、自民党は不適格な人間を除名するか、武士の情けをもって辞職を勧告するべきだ。が、本日24日午前11時現在、何の動きもない。厳重注意があっただけだ。人として失格と言わざるを得ない人物を抱えたまま離さない政党ならば、この政党もまた公党として失格である。衆院本会議場での1票を失うことを恐れるのか。その場合、1票を守って国民の信頼を失うことになるはずだが、そうならないと読まれているらしい。ここまで国民はこの政党に愚弄されている。およそ公の組織とは子供の将来の目標になるべき仁義礼智信に富む存在であるべきと思うのだが、この政党はその種の存在とは違うようだ。 では新聞はどうだ、非を非としているのかと思って紙面を見るが、3日もたつと話題にもなってない。社会のありようは、このような人物の存在を許容しているのか。では、最後のよりどころ、東京16区の選挙民の良識に期待しよう。次回の選挙で。(黄鶴)

330日 「交響詩」
普通は4つの楽章から成る交響曲だが、1つの楽章だけによるものを、確か交響詩といった。「モルダウ」もその一つではなかったか。
森友学園事件も一幕だけで終わるのだろうか。数で優勢を誇る自公がそう意図するのだから、多分そうなのだろう。水掛け論に終わらせ、有耶無耶のうちに過去の闇に葬る作戦だろう。しかし、私の目には、時間と共に余分なものが洗い流されて、隠されている事件の本質がくっきりと浮かび上がって見えてくる。疑惑と言うより既に確信に近い。国民の多くもそうなのだろう。真相解明は不十分との世論調査もある。虚しく流れる言訳の向こうに、人は真実を見抜くことがある。今度の事件もそうだ。
総理は「忖度はない」と言う。しかし、忖度される側に、その有無を断言できるのか。二言目には民進党の悪口を言う子供の喧嘩のような国会答弁も聞き飽きた。
松井大阪府知事は「良い忖度と悪い忖度があり、自分は良い忖度をした」と言う。ルールを都合のよいように変更して、それによって行政への府民の負託を捻じ曲げ信頼を損ねる行為に、良いも悪いもない。すべて行政上の不法行為である。その自覚もないことが何とも悲しい。
国も地方も、今や批判の対象の域を越え、滑稽な存在に見えてきた。早く選挙がないものか。
森友事件について大阪地検は告発状を受理したと、今朝の毎日新聞は伝える。まるでそこに国家の意志が働いているかのような記事だが、実は告発状を受理する・受理しないという点に自由裁量の働く余地はない。司法警察員は告訴や告発を受けたときは速やかにこれに関する書類と証拠物を検察官に送付しなければならない(刑事訴訟法第二百四十二条)のだ。そこには司法事務の自然な流れがあるだけで、特別な自公の意志や警察の忖度は存在しない。しかし、籠池理事長を悪者に仕立て上げ、100万円の寄付を虚言妄言と印象付けたい者にとっては、かっこうの材料だろう。国家機能を総動員して犯罪者をつくりあげ、国民の視線をそちらに向けて、自公に向かう批判の流れを変えるのが、第二幕だろうか。(黄鶴)

324日「2016年質疑・質問数」
12月議会の議事録が公開されましたので本会議と常任委員会における各議員の質疑・質問数をまとめ、3月以降9月までの数と合わせて2016年分として「3.市議会という舞台」の中に掲げました。2015年に質疑・質問数が少なかった人は、2016年もやはり少なかった傾向が見られます。委員会では静かですが傍聴者のある本会議では発言するという議員、委員会でも本会議でも活発に質疑・質問を行う議員、議会は人さまざまです。
次に示す数字は、12月議会における各常任委員会での審議時間、議論のあった議案の数/審議された議案の総数 です。
総務消防委員会 51分 4/4
都市環境委員会 28分 2/8
福祉企業委員会 75分 6/8
文教市民委員会 57分 4/5
(白雲)

316日「大臣」
適性のない人に重荷を背負わせるのは、はたから見て実に気の毒だ。それが国の重要な仕事であればなおさらのこと。
国会答弁は国民への答弁だ。単に委員会の狭い部屋での野党に対する応答に留まるのではない。だから資料に基づいた正確で厳密な回答でなければならない。記憶に頼った不正確な答弁など、責任を一方に置き忘れたあまりにも軽すぎる行為だ。
ヒラの公務員すらその点には気を付けている。公務員も証人として裁判に呼び出されることがある。その日あるを見越して日記やメモを残すのは役人の常識だ。一期一会の精神で日々を過ごしてきた者ならば、自分が書いた一言をそこに見れば、何十年前の出来事であろうと、すぐに処理した事案のあれこれを生々しく思い出す。メモも確認せずになぜ答弁ができるのか、実に不思議だ。
仕事を依頼された記憶がない、それが本当ならば、別の疑問が生じる。弁護士にとって受託事件とはすぐに忘れてしまうほど軽いものなのか、と。いや、その表現では他の弁護士に申し訳ない。この方は、すぐに忘れてしまうほど、身を入れて仕事をすることのない弁護士だったのか、と。今の仕事も十数年経てば忘れてしまうのか、と。十数年後のこの人の記憶には国民の存在はないのか、と。
故意に虚偽答弁をしたのではないとこの方は強調する。しかし、答弁の前に記録に当たって正確な事実を調べることができたのにそれをしなかったところに、まっとうな答弁書を作る方向に向かわないひとつの自由意思が認められる。だからこの種の不正確な答弁は過失とは言えない。
一般的に、TVの国会中継で空しい答弁を聞くとき、私は実に悲しい思いに落ちる。我々国民は我々の生活に対し我々の安全に対し、この程度の人をあてがわれたのかと。愚弄されているにもかかわらず、50%の国民は内閣を支持し続ける。(黄鶴)

314日 「松井知事」
森友学園問題の第一幕が終わって、とりあえず、ほっとした人も多いだろう。
大阪府の松井知事という人が、その土地売買にからんで先週はしばしばテレビに出ていた。まっとうな発言をするのなら出てもよいが、大阪府のパネルを背にして口を開くたびに疑問を感じさせてくれる。これでは、あまり画面に出ない方がよいのではないか。秘すれば花だ。
何が変か。疑問の素は何か。森友学園の小学校設立を認可するかどうか、それは他府県においては学校教育法第四条により知事の権限だが、大阪府においては教育委員会事務決裁規則第三条によりその権限を教育委員会の決裁事項としている。役人には、それぞれの担当者に何が決裁できるか、何をしなければならないかが法令によって決まっている。それ以上のことはできない。役割分担がしっかり決まっているのだ。
にもかかわらず、松井知事はそれがあたかも自分の仕事であるがごとく、認可は不適当だの何だの、教育委員会で決めるべきものなのにその方向性につき自分の意見感想を述べていた。TVカメラの前で取材を受けるのは床屋政談ではない。「所管の委員会での慎重な審議を望む」と言うべきではないか。役人の役割分担をまるで理解していない。越権行為だ。専決に関する規則をちゃんと読んでいるのか、役人はすべての行為が規則に縛られていることを理解しているのか、疑問に思わざるを得ない。維新の代表にしてこれだから、その疑念はすべての維新の議員に広がっていく。今の行政の現場を知らないが、議員が行政を混乱させることがあったら大変だ。
認可申請取り下げで第一幕が終わり、激しい火の手は消されたが、注意すべきはここからだ。多くの人とマスコミの関心の対象でなくなり、土地売買のプロセスに、ひとたびは認可相当との結論が出された審議のプロセスに、自民党と維新がどのようにかかわって来たか来なかったか、そのあたりが闇に葬られるのを、私は恐れる。国会審議の流れからも、その憂いは深まる一方だ。(黄鶴)

309日 「記録がない」
「売買契約締結をもって既に事案が完了しており、記録が残っていない」
これは先刻ご承知の森友学園への国有地売却に関する財務省の言い分である。熟読すると、実に立派な文言であり表現である。ほとほと感服つかまつった。そのとおり、契約が終われば一見落着。契約関連文書の保存は必要だが、契約を完了させるための作業に使った雑書類や個人的なメモなど、公文書の範疇に入らない「記録」は保存の必要はない。もし関連文書を廃棄すれば、どの省庁にもある文書取扱規則に違反するから担当者は処罰されるが、そうは言っていない。誰にも罪を着せず、すべてを過去の霧の中に押しやる、うまい表現である。
だがしかし、これには誰も納得しない。己の行為が正しかったことを証明する資料をすべて廃棄する公務員がいるはずもない。会計検査院が入るというのに、正しい契約だったことをどうやって説明するのだろうか。どこかの段階で誰かにやましいことがあるから、組織として証拠資料を捨てたことにしている、と見るのが自然だろう。
姑息な言い逃れでコトが収まる、そんな世の中でいいのか、これが正しい社会のありようだと子供に教えられるのか…。ここに国民の怒りがある。国民の感性は正しい。正しくないのは特定の者に利益を与えようとして行政を捻じ曲げるべく圧力を掛ける政治家だ。
たしかに、行政メニューは実はどのようにでもなる。ある業界を育成するに際してその対象者につきどのように線引きするかは担当役人の胸三寸ということもある。だから線引きによって不利な状態に置かれないように、企業はいろいろと手を回す。役人のそうした決定には、理屈は後からトラックで付いて来るが、役人にも意地がある。正義感がある。時代劇の悪代官じゃあるまいし、普通の役人は公益を目指して国民の福利増進のために働く。そのことを生きがいにしている。その活動の最中に外乱として種々の圧力がかかるのだが、公益を守ろうとする姿勢と特定少数の我欲との戦いが役人の日常である。ただ、今回は担当役人の守備力を越える圧力がかかったのではないか。彼らの心中、察することができる。
極めつけは総理の言葉だ。誠意ある答弁せず、あげくの果てに「国民の腑に落ちない政府の答弁がある」と言う。腑に落ちる答弁をできなくさせているのは誰なのか。その犯人を牛耳る総元締めにそんなことを言われたのでは、担当者はたまったものではない。近来まれにみる茶番である。(黄鶴)

305日 「行政の責任」
豊洲移転問題につき石原元知事は3日の記者会見で、「自分独りではなく行政全体の責任」と述べた。これは間違いではないが正確な表現でもない。
国の役所でものごとを決めるときは、担当の職員によって企画・起案され、案は順次、課長・部長のハンコをもらい、局長(特に重要ならば最終的に大臣)決裁によって決定する。軽微な事案の場合、あらかじめ課長や部長に決済の権限を譲られていることもある。決済に回すとき、担当者はその案が世の中に必要なことであり、それを今実行しなければならない緊急性があり、社会的にそういう要望もあり、実行すれば世の中がこんなふうに改善される、などの資料を携えて決裁権者を納得させる。上司はそれを聞きながら、法的に問題はないか、一部の人だけが得をするとか特定の政党を利するとか行政のバランスを欠くことはないか等、長い経験の中で得た自分の鑑に照らし、問題ないと思えばハンコを押す。担当者は完璧な調査のもとに上司が判断するための十分な資料をそろえる責任があり、上司には公正な判断をする責任がある。要するに、政策決定は階層毎の職務分担の下に役所全体が行っている。この意味では「行政全体の責任」は正しい。
しかし、決済には責任の度合いというものがある。上になればなるほど、責任の度合いは大きく重くなる。だからこそ、課長よりも部長、部長よりも局長の方が給料は高い。給与については、決めたことに問題があった場合、本来は上から順番に責任を取っていくので、そのことに対する通常時からの保険と思われるのだが、往々にして上が責任をとらず、下の担当者だけが処罰されることもある。それはともかく、給与とは高い判断能力を求められること、順々に高くなる、その重さへの対価である。よって、組織のトップには最も重い責任があるのは当然だ。
以上のことから、「自分独りではなく行政全体の責任」ではなく「行政全体の責任であるが知事であった自分の責任は最も重い」と言うべきであるのが、論理の帰結となる。
ところでそれは、行政だけの責任か。その知事を選んだのは誰か。自分たちが選んだ知事の行いに対しては自分たちにも責任があるのではないか。言動に信頼がおけないならば、リコールという手も地方自治にはある。選びっ放しで何もせずに独走を許すのは困る。これは東京だけの話ではない。(黄鶴)

303日 「わが市 高槻」
既に終わった行事のことで申し訳ないのですが、高槻市立しろあと歴史観の「津之江」は大変興味深い展示でした。
津之江地区から出てきた旧石器の数々、古墳時代の継体大王の治めるクニの外港としての性格を示す、フネの線描のある埴輪片や当時の想像図、直径40㎝に及ぶ柱根(奈良時代?)の実物、旧家に残された江戸時代の古文書、衣装などなど、古代から江戸時代までのご先祖様の生活ぶりがよくわかる展示会でした。
一番面白かったのは、あじゃりの森で催されていた花見で酔ったあげくの喧嘩口論に及んだことを反省し「もうしません、ごめんなさい、今後は遊び場所には行きません」と入れた一札や、駆け落ち(当時の表記では「欠け落ち」)した文七と忠兵衛の娘の捜索に要した費用を、その二人の家族や親戚に負担させた一札でした。
そして、明和2年の「村方諸事相談申合覚」では会議のルールを決めて文書にしており「一、庄屋年寄五人組頭、何事によらず諸事相談致し候節、心得ざるの儀は遠慮なく、心得ず候旨を申し談ずるべきこと」という条文もあって、会議の中では身分の隔たりなく発言の自由が認められていたのは、注目すべきことと思いました。これを根拠に、江戸時代も言論の自由があった…と言う訳にはいかないでしょうが、それに近い素地はあって、江戸時代の農民は西洋の農奴ではなく、民主主義というものが必ずしも明治以後の輸入品ではないと証明できるのではないかと思います。
そして、今城塚古代歴史館の企画展にありました新名神高速道路関連地の発掘調査ですが、ここ掘れワンワンで、どこを掘っても何かが出てくる、高槻市とはおもしろい所だと思います。こちらも先週終わってしまいましたが。
とにかく、そんな高槻市に私たちは住んでいるのです。うれしいことじゃありませんか。「わがまち」を愛するきっかけになる企画展、今後もよろしく~。(空)

3月01日 「国会答弁逃げるが勝」
重要な事だから官僚が答えているのか、昨日の参議院予算委員会、午後4時頃は財務省理財局長と国土交通省航空局長が答弁に立っていた。質問者は民主党舟山康江議員。
森友学園の小学校用地の価格について…
答弁者「適切に処理しています」
質問者「適切に、と口で言うだけではわからない。正しいことを証明せよ」
答弁者「#$%&*><…(意味不明の答弁)…」
国や地方公共団体の会計事務は、財産を売るにしてもモノを買うにしても、予定価格を作成する。その予定価格の根拠は誰が見ても納得できる合理的なものでなければならない。会計検査院の厳しい検査を思い浮かべながら、公務員は皆必死にこの作業に取り組むものだ。だから森友学園が購入した国有地にもそういう細部にわたる証明資料があるはずなのに、答弁者は明らかに逃げている。真実を白日の下にさらし、そのことにより政権が不利な状況に追い込まれ、同時に自らの地位も危うくなる事態から逃げている。逃げている姿から、きちんとした証明資料もなく契約した疑惑があることを余計に国民に感じさせる。他にも公にできない事実があるのではないか。
繰り返すが、この質疑の場は参議院である。既に衆院を通過している予算案は、参議院で何が問題になろうが30日過ぎれば成立するという与党の腹が透けて見える。数の驕りもある。こうした状況の中、与党は森友学園事件について国民の前にすべてを明らかにするつもりはないであろう。これだけ愚弄されていても、国民はおとなしい。
国会答弁については、昔聞いた先輩の言葉が記憶に残っている。「答弁は簡単明瞭に事実を伝えるということを、皆さんやらないねぇ。昔はあれ何でだろ?頭悪いんじゃねェかと、思っていたけど、違うんだ。逃げおおせるってのは、頭いいんだ」。追及される種を蒔かないというのが、最低限の要件だ、と言う人もいた。
国会答弁から何を透視するか。賢い国民は少なくなった。(黄鶴)

224日「候補者選び」
次期堺市長選に維新は読売TV元アナウンサーの某氏を立てると、朝日新聞が報じた。と思ったら、当の維新の代表がそれを否定した。慰安婦のときのように朝日新聞の誤報か?捏造か?…いや、取材源は明かせないが、報道するのだからそれなりの根拠があってのことだろう。その取材源は立候補すると言い、維新代表はまだその時期ではないので発表しない、そういうことだろうと私は勝手に想像している。堺市出身の元アナウンサーは前回の選挙でも維新に推されたが固辞したとの情報もある。
この元アナウンサーはどういう人か。大学の専攻は文学部社会学科。学卒後はアナウンサー一筋である。その仕事柄、社会のいろんな出来事に接し、そこから学び考えたことは多いかもしれないが、行政経験もないし、法律の専門家でもない。財政・会計、産業政策、科学技術に関する知識経験・能力も未知数である。要するに市長適任者であるという心証を抱かせるものがない。
知事・市長なんて誰でもできるのか。そうではない。選挙で当選すればその地位にはつけるが、資質能力を備えていない者が職務をまっとうできるはずもない。上に並べた専門的能力のすべてを備えるに至らなくても、足掛かりになる何かの専門性は必要である。一つの道に達すれば他の道の極意もわかることがあるから。
堺市長選に限らず、素人を候補に立てることは何を意味するか。それはその政党における政治というものに対する認識水準を如実に示すものである。政治が人に幸福をもたらす、あるいは不幸をもたらすことの重要性を無視していることを示すものである。そして、知名度さえあれば選挙民はそっちに投票すると選挙民を愚弄していることでもある。一言でもって表現すれば、その政党のレベルそのものである。「市民感覚を導入して」とよく言われるが、政治の骨格は「感覚」で構成されるものではない。市民のもつ行政需要への感受性は必要だが、それを基にして政策を打ち立てる能力・技術は別にある。もちろん、政治への情熱の素となる不正への怒りなどの「市民感覚」を否定するものではない。(黄鶴)

223日 「愚策?」
維新というグループの提案には次から次へと疑問が生まれる。
その一つ、南スーダンの情勢を直接確認する必要があるからと、維新の国会議員による調査団を現地に派遣すると2月21日馬場幹事長が発表した。
たしかに、現地に行かなければ体感できないこともある。アフリカの貧しさ、気候、子どもの表情が教える彼らの未来、そういったものは報道や統計では実感として受け止められない。どこから銃弾が飛んでくるかわからない緊張感も現地でなければ味わえない。
しかし、この調査団は何をしに行くのか。物見遊山ではない。日本PKO部隊の派遣継続の是非を判断することが目的だ。その判断の材料として、政治・経済情勢・国民の意識動向・自然条件などを基礎に置いた軍事情勢をさぐることになる。維新には高学歴・海外留学経験のある国会議員もいる。しかし、情報・軍事のプロがある程度の期間を費やして初めて調査できるものが、軍事のプロでもなければ情報を取る難しさも知らない諸兄に可能なのか。南スーダンの公用語は英語なので日本人の多くにとっては仏語よりなじみやすい。しかし、その英語すら、専門用語もある。専門外の人間が「直接確認する」ことのできる範囲は狭い。まして短時日の調査で何が解るのか。厳重な警備に囲まれておっかなびっくり宿営地に行き、派遣部隊から話を聞くぐらいが関の山だろう。
別の心配もある。他国軍や現地政府・現地の当事者から何かを聞き出せたとして、官邸の意図とは方向が異なるとしてもそれを日本国民にすべて公表できるのか。その胆力ありや。それができるならば維新の会は本物の政党だ。官邸の意を体した帰国報告になるなら、聞く必要もない。(黄鶴)

221日 「産廃住民投票」
石川県輪島市門前町。町名は鎌倉時代末期に總持寺と名を変えた禅寺に由来する。明治の終わりに横浜市に移るまで曹洞宗大本山としての活動の中心がここにあり、文字どおり門前に市を成すにぎわいがあった。今でも祖院として寺は残る。しかし町は2006年に輪島市と合併、輪島市門前町となった。
門前町に大熊地区というのがあった。町の中心部から南へ約15km、輪島市の中心部からは30km以上の道程がある、山間の限界集落だった。地区を流れる小川に沿って海まで2kmほど下り、小さな岬を回った所には鳴き砂で有名な琴ケ浜がある。
この大熊に産廃施設の建設が予定されている。建設の是非をめぐって19日に住民投票が行われたが、投票率が50%に達せず、住民投票は無効となった。市は建設を進める意向と報道は伝える。
この住民投票について、驚くべきことが行われていた。市議会の最大会派である自民系会派が、市民に投票ボイコットを呼びかけていた。毎日新聞2月20日朝刊は、呼びかけのチラシを掲載している。「今回の住民投票は(中略)反対する方々からの請求により実施するものであり、反対する方が投票に行き、民意を示していただき、それ以外の方はあえて投票に行く必要はない」と。30kmも離れた街外れの(元はと言えば隣の町の)施設に対して、輪島市の中心部に住む人が高い関心を示すとも思われない。高くもない投票率の中で賛成派が投票しなければ、投票率は50%に満たず、住民投票無効となることは目に見えている。
投票ボイコットという戦術は民主制の基本をないがしろにしている。共通の土俵の上で議論を尽くす、そうあるべきなのだが、そうすると負けが明白なので投票率を下げることに力を注ぎ、住民投票自体を骨抜きにした。姑息なやりかただ。古いムラの体質を思い起こさせる。そのレベルの人間によってこの市の自民会派は成り立っている。まずそこが残念だ。
建設賛成派は、住民投票に関して反対派を押さえこむのに成功したかもしれないが、大きなものを失っている。まず、議員が投票ボイコットを勧める、それは民主制の中での完全な自己否定だ。議員自身が投票によって選ばれているのに、その投票システムを否定する、それは自分が選ばれたプロセスを否定することだ。自分には拠って立つ場所がない、存在価値がないと自称するに等しい。50%未満の投票率ならば住民投票を無効にするという制度もおかしい。それが無効なのに、なぜ投票率50%未満の市長・市議会議員選挙が無効でないのか。同じ住民意思の表明ではないか。哲学を持たない身勝手さがここにある。そして、市は建設を進めると言うが、それでよいのか。住民投票が無効になった、それは住民意思が賛成とも反対ともわからない、ということであって、建設は保留にすべきではないか。建設を進める根拠はどこにあるのか。市議会の決定だけでよいのか。
また、産廃の中に何が含まれているか。想像するだに恐ろしい。それは土壌を浸み地下水を犯し地上に出て、流れ下って海に達する。そして海流に乗って輪島沖に向かう。確実に自然は破壊される。破壊されたものは再び元の姿には戻らない。大熊地区は、産廃施設建設に備えて既に住民は移転させられており、今は無人と新聞は伝える。現代人が後世に伝えるものは、このような自然を食い荒らした姿なのか。(黄鶴)

220日「己自身を島とする」
日本の現状は嘆かわしい。中央には、質問される度に後ろの官僚席を振り返り、その援助を求める大臣や、直ぐ席は立つがまともな答弁のできない大臣がいる。地方には、誰のため・何のための予算か、それがどれほど危機に瀕しているか、まるっきり理解のない知事がいる。
日々、政治(いや、治めていないから政事か)の世界に繰り広げられる愚行・蛮行。それを知らない、知る機会の少ない、あるいは知ろうともしないまま支持を続け、それによって国(大阪府)を破滅の縁に押しやろうとしている国(府)民。そして、その両者をつなぐどころか、政府(府知事)に不都合な情報は書かないことによって国(府)民をミスリードし、両者の溝を深めている大新聞。いずれも罪は重い。
このような状況の中で、一国民としての私たちはどうすればいいのか。自分たちだけが目覚めた国民であると言うつもりはないが、国から地方まで分布するある種の議員達と、生活に追われ、蒙のまま啓かれることのない普通の人たちを見ると、この国の将来に対して「絶望」の二文字が脳裏をよぎる。議員に尊敬できる人は少ない。考える余裕のない人たちに政治意識を持てと呼び掛けることも空しい。
だが同時に、絶望は終点ではない、絶望したところからすべてが始まるのだという思いも胸中に芽生える。今までがそうだったじゃないか。絶望の淵に立った。しかし、諦めなかった。そこから人生が開けたじゃないか、と。過去の自分の生活と同じように、諦めないで何かを継続するとき、絶対に何かが生まれるのだ。そのとき、他人に頼るのではなく、己自身を島とすれば(中村元訳「ブッダ最後の旅」(大パリニッバーナ経 第2章26 p65~66 *)、そのことによって他人も流れ着く場所が生まれて、他人も救えるのだ。そうにちがいない。(黄鶴)
*:同書p254によれば、「島」ではなく「燈明」とする経もあるようだ(阿含経)。

214日 「柏原市長選」
大阪府のほぼ中央部の柏原市で2月12日、市長選が行われた。その結果、維新系の前市議が当選した。
ただし、この選挙の投票率は43.88%で、総投票数25,001票のうち11,757 票を獲得しての当選であって、その得票数は有権者数の20.40%に過ぎない。それでも市長たり得るのであるから、当選者は今の選挙制度に対して大いに感謝するべきだろう。それと、市政に関する市民の無関心と、支持率が低くても市長になれる制度を目の前にしながら怒りもしない羊のような市民にも、頭を下げなくては。
しかし、どこにも正義の士はいるものだ。その無関心を嘆き、不正にまみれた市政を攻撃するグループが柏原市にもある。(腐食の柏原城を暴く!!!/大阪維新の会・中野市政は本物か!?全くの偽物と断定!!!
http://rebirth11.exblog.jp/ )
そのブログは、例えば…、
市政の政務活動費でリースした印刷機を使って名刺を印刷・販売したとの疑惑が報道され、その直後に議員辞職した維新の市議会議員…
竜田古道の里山公園について執行予算に使途不明金があることと、その疑惑を追及する裁判…
などについて、舌鋒鋭く実態をつたえようとしている。1人でも多くの柏原市民にこのページを見て欲しいと願う。同時に、監視を怠ると市政は直ちに腐敗することの実例として、他市市民も関心をもつべき姿でもある。
人はなぜ市政に無関心なのか。いままで当サークルもさまざまな説を掲げてきたが、人は本当の姿を見ようとしない、あるいは人の本当の姿と言うのは神ならぬ人には本来見えない、そのことが原因の一つではないかと、最近思うようになった。
他人の真実の姿を見抜くのは難しい。自分の眼が人の真実の姿に到達するまでにはいくつもの障壁がある。まず、自分の眼に曇りがある。その曇りは、先入観、欲得、願望によって発生する。対象の人物は、衣装や容貌、弁舌、演技によって己を覆う。また視線の途中には他人の噂や時代の流行があってバイアスを掛け撮像を歪める。かくして、相手の真実の姿を知らぬまま、見たつもりになって、人はその相手との間に何かを決める。
市政も同じ。真実の姿は市民には見えない。見えないことが根拠のない安心を呼ぶ。そうして腐敗が始まる。

211日 「すり寄り」
あの人は何をしにアメリカに行ったのか。アメリカに雇用を増やすことを言明し、その次はフロリダでゴルフだそうだ。
日本の総理なら日本の雇用を増やすことをまずもって考えるべきではないか(派遣社員が増えて有効求人倍率が上がったとしてもそれは国民を幸せにする安定的な雇用の増大ではない)。次の時代の長期産業ウェーブを引き起こす日本発の戦略を構築し、その一環として、技術的補完関係にあるアメリカの産業も潤う、そう言うべきだ。しかしそもそも今は金融政策だけで、そんな骨になるようなプランがないから、上っ調子なアメリカへの貢献の言葉だけに終わってしまう。
アメリカの雇用を増やす、日本の総理のそんな発言を聞いて世界はどう感じるだろうか。日米の緊密な経済関係とは日本のメディアが言うだけのこと。対等な関係とは他国の誰も思わない。独立国らしからぬふるまいの日本を、尊敬できる国とは誰も感じない。それは長期的な日本の国益を失うことではないか。日米がアジアをリードするなど、とんでもない思い上がりだ。
特定の国の人を対象に入国禁止を命ずることなどに対して、ヨーロッパ諸国の批判は大きい。その状況下、日本はその大統を批判するどころか、すり寄って行く。そこにも日本の日本らしい姿勢は見られない。アメリカ国内でその大統領が輝きを失ったとき、世界中の批判的な目の中で日本も共に沈没することを覚悟しているのか。
アメリカにとって「いい子」であることは、大きな負担を日本国民に押し付けることである。国家権力は、経済的負担や生命の負担を国民に強いることを、容易に行うのだ。それは歴史の中にいくらでも露出している。それでいいのか。(黄鶴)

209日 「戦闘」
その映画の題名も覚えていない。多分子どもの頃だったと思うが見た時期も覚えていない。しかしそのシーンだけは強烈に覚えている。
拳銃を持った犯人を警察は捜している。その犯人の居場所がわかった。刑事が二人、現場に急ぎ、着いた。犯人は拳銃を構える。刑事は犯人の右左、二方向から、素手のまま、何のためらいもなくずんずんと歩いて犯人に迫る。犯人は拳銃を右に向け、次の瞬間には左に向け、どちらを撃つか迷う。右に向けたら左の刑事が背後から迫る。左に向けたら右の刑事に後ろから撃たれるかもしれない。窮した犯人は目を閉じて、真上に向けて引き金を引いた。銃口からの火花とともに轟音がその場を貫いた。
警察にしろ消防にしろ、任務を遂行するについては命の危険を伴う。自衛隊も同様だ。安全な日本国内とは違い、中東やアフリカの紛争を抱える国にあって仕事をするなら、その危険性はなおさらだ。職員は当然それを知ったうえで日々仕事についている。
稲田防衛大臣は、戦闘のあった南スーダンで「法的な意味での戦闘行為ではない」と言った。噴飯ものとはこのことだ。法的な意味での戦闘でなかったら、弾に当たっても死なないのか。安全なのか。
たしかに、PKO派遣基準にふれるような国と国との戦争状態ではない。だから稲田発言は法的には正しい。しかし政治家としてふさわしい発言ではない。
問題は、現地が危険な状態でありながら、言い換えによって、それを聞く国民の印象を変えようとする姑息な態度にある。愚かな国民にはあらぬ幻想を抱かせ、自称賢い政治家が国民の幻想とは違う世界で政治を行おうとする態度にある。現地は危険な状態である、相応の覚悟を持って行かねばならない、国民もそれを理解したうえで自衛隊員を送り出してほしい…と、なぜ言わないのか。危険と言うと国民の反対にあってPKO派遣そのものがつぶれる、だから言えない、ということだろうが、派遣がつぶれるなら、それでよいではないか。国民の総意だ。厳しい国際情勢の中で日本がやるべきことを国民が理解していないのならば、それはそれまでだ。その覚悟を今まで育ててこず、平和ボケの中に国民を置いてそれでよしとしてきたシステムが悪い。無理解を背にしてアフリカに行く自衛隊員も気の毒だ。
繰り返す。政治家は真実を国民の前に出せ。そして日本としてやるべきことは何かを正面から問え。そして、このようなことを重ねて国民意識の成長を促せ。
ついでに言う。PKOで自衛隊員が死んだら辞めると中央政界の誰かが言ったが、辞めるだけで済むのか。かたや炎熱のアフリカで命を捨てて、こなた辞職したとはいえ国内で生活の心配もなく余生を過ごす。それでよいのか。私は昔、死ぬかもしれないという任務に派遣されたことがある。同行者は独身者ばかりだった。その時の上司は旧軍人で、君たちにもしものことがあったら俺も死ぬ、とでも言ってくれればドラマチックだったが何も言わず、私たちの出発報告と挙手の敬礼に対し、静かに答礼してくれた。電灯の下、陰影を作った無表情の、その顔は死相に近いとその時思った。(黄鶴)

2月05日 「スプリンクラー続編」
かえで「この前の、障がい者グループホーム(GH)へのスプリンクラー設置義務なんだけどね」
御島媼「ふむ」
かえで「1月25日の毎日新聞の夕刊(大阪版)で、それ、そのものを扱っていたのよ」
御島媼「左様か」
かえで「読まなかった?」
御島媼「給料日で忙しくて、な」
かえで「八百比丘尼に給料?誰からもらうのよ」
御島媼「いや、配るのじゃ。配下の百鬼に」
かえで「新聞ではね、障がい者のGHにスプリンクラーを取り付けることの不都合を、まず紹介していたわ」
御島媼「一般家屋や府営住宅のGHには、不可能とは言わないまでも難しいじゃろなぁ」
かえで「そうなの。取り付け出来なかったらそのGHは消防法違反の建物となって、住めなくなる。せっかく地域社会になじんだ安住の地なのに」
御島媼「ふむ。気の毒じゃ」
かえで「その紹介の次にね、スプリンクラーを取り付けなくても済むような特例を大阪市が設けたことと、高槻市は国の基準を守ることが対比されているの」
御島媼「ほほほ」
かえで「ほかにも専門家の意見とか国の動きとか。まるで私たちの会話を聞いていたようなタイミングの記事だわね」
御島媼「まさか、それはないじゃろうが、誰であれ、聞いてくれる人がいるのは嬉しいねぇ」
かえで「でも、よくよく考えると、変だわね。高槻市の理屈は」
御島媼「そうかな?」
かえで「大阪市は、国の基準では対応できないGHが多いことから特例を設けたのよ。大阪市の状況に合わせて、大阪市の基準を作って、そうしながらも安全性を確保したのよね」
御島媼「なるほど」
かえで「そもそも地方公共団体の行政とはどういうことかしら。国が何かの方針を示すとき、地方は国の方針を実地に生かすために、その地方の特性に合わせて具体的な実施方法を考えて実行する、そういうものじゃないかしら。国の基準そのままで実行できれば、それでもいいけどね」
御島媼「ほぉ」
かえで「ここで大切なのは、その地方の特性に合ったやり方を考える、市の実情に見合った政策を打ち出すように高槻市は努力する、ということよ。その跡がないから、みんな納得しないのよ。高槻は私たちの自治のまち、市民憲章の第一条の精神はこれなのよ」
御島媼「うんうん」
かえで「大阪市はそれをやった。けど高槻はやってない。安易に国の基準に寄りかかったのよ。そのままって、楽でいいけどね。はっきり言って怠慢」
御島媼「ふふふ」
かえで「国の基準では対応できないGHが多い、それは大阪も高槻も同じでしょ?なのに、なぜ対応が違うのか、わからない」
御島媼「現状把握が足りないのではないか?高槻市の消防の…」
かえで「市のやりかたを決めるとき、まったく自由に何でもできるのではなくて…」
御島媼「…」
かえで「寝ないで聞いてね。やさしく言うから。」
御島媼「はいよ」
かえで「自由裁量とは言っても、市民の暮らしに特別な負担がかからないような決定をしないとね…」
御島媼「裁量権行使における作為義務違反によって行政の違法性が問われる…。ある条件下においてはこういう決定をしなければならないという裁量権収縮の法理というものがある」
かえで「あら、言うわね。寝てたのかと思った」
御島媼「いいや、目を閉じて考えておったのじゃ。で、別の面から言うと、じゃな」
かえで「はいよ、攻守交替ね」
御島媼「政策とは利害の調整なのじゃ。村と村、人と人、領主と民との利害のバランス、個人における利と害のバランス…。天空から下を見ておること八百年。わしゃそう思う」
かえで「ははは」
御島媼「領主の都合ばかり言うと、京都の朝廷に直訴されたり、百姓一揆が起きたり」
かえで「そうね。昔の民は強かった」
御島媼「一種の契約社会じゃったからな。領主は年貢をもらう代わりに社会の安寧を守る」
かえで「あら、今とおんなじ」
御島媼「いや、違うぞ。今は年貢が多すぎても一揆も起こさぬ。ともかく、個人においては予想される利益に対して負担が多すぎるのは政策とは言えないわな」
かえで「うん」
御島媼「スプリンクラーの話でも、補助が出ると言っても設置するとなったら住民の負担は大きい。いっぱいお金がかかるのに、命のためだ、取り付けろと言われてもなぁ、理解はするが納得できないぞよ」
かえで「火災で焼け死ぬ前に、生活できない」
御島媼「効果があって、そして負担の生じない政策を考えないとな」
かえで「それがベスト」
御島媼「それから、消防法違反の建物の公表の話じゃが」
かえで「うん」
御島媼「お金持ちが、な、出費がいやじゃと言ってやるべきことをやらないのは責めるべきじゃが」
かえで「そうそう」
御島媼「お金がない人に出費を強制して、できないからと言って消防法違反だと犯罪者呼ばわりするのは如何なものか。昔、蓑踊りといってな、年貢を納めない百姓に蓑を着せて縛って、蓑に火をつける悪代官がいたのよ。熱くて跳びはねるから、それを称して蓑踊り。それに近いではないか。許せん!」
かえで「いよっ!遠山の金さん!町人の味方ァ!」
御島媼「まじめに聞きなはれ」
かえで「うん」
御島媼「法律にかなうような行動が期待できない、そういう可能性がそもそもないとき、それを悪いことと決めつけられるじゃろうか」
かえで「たしかに、ね」
御島媼「犯罪として社会的に非難すべきものじゃないのに、公表するのはおかしい」
かえで「そうよね。そう思う」
御島媼「高槻市が福祉のまちなら、そうして欲しい」
かえで「うん。ただね、お金持ちかそうでないか、どこかできちんと線を引かないとね」
御島媼「然り。左様」

124日 「12月議会一般質問 
御島媼「一般質問についての話の途中だけど、お隣の茨木市議会議員の改選があったねぇ」
かえで「うん、だけど改選と言ってもね、28人中25人は現職そのまま。元が1人、新人は2人」
御島媼「ほほほ。ほとんど同じ顔ぶれ?こうなると議員は固定の職業じゃな」
かえで「維新の現職3人が落選、替わって維新の新人が1人、自民元が1人、民進新人が1人当選」
御島媼「あらま、維新という旗をあげても今は落選するの?」
かえで「そうみたい。茨木ではね」
御島媼「さてと、12月高槻市議会の一般質問に話を戻そうか。ほかに印象に残ったのは?」
かえで「うん、中村議員と岩議員の質問と、市の答弁」
御島媼「終わりごろの話は記憶に残りやすい」
かえで「あはは、それもあるけどね。それと、高木議員の質問のキレの良さ」
御島媼「なるほど。さもあらん」
かえで「中村議員はね、子どもの貧困について取り上げたのよ」
御島媼「よいテーマじゃな」
かえで「子どもの貧困の発見の機会を見逃すなとか、居場所づくり・学習支援・医療費助成の必要性を訴えていたの」
御島媼「それはそれで重要じゃな」
かえで「ただね、貧困の連鎖を断ち切るために何が必要か、もっと深い議論が欲しかった。中村議員にとっては暖簾に腕押し」
御島媼「深い議論?…そりゃ、期待する方が無理かも」
かえで「連鎖を断ち切るために子供に自活能力をつけることが絶対必要と、私は思うんだけど」
御島媼「昔は地域社会があってな、貧しいみなしごには、親の代わりに近所の大人がいろいろ教えておった」
かえで「いいわね」
御島媼「教えたのはイネの育て方とか…な。それでも自活していくには十分じゃったが、今はなぁ」
かえで「希望すれば大学まで行かせてやるとか。職業教育とか、必要と思うの」
御島媼「カエルの子はカエルという要素もあって…。誰もそれは言わぬが」
かえで「何のこと?」
御島媼「まあよい。ともかくな、激しい就職競争の世の中ではなく、能力に応じて様々な職業に就くことができる、そんな世の中をつくることも一方において必要じゃな。それから岩議員?」
かえで「うん、市長の政治姿勢についての質問があってね、『静かな議会』への批判があるのが面白かった」
御島媼「市民の感想を代弁してくれました」
かえで「そう。それはいいけど、市長の政治姿勢を質しているのに、市長は答えなくて、副市長でもなくて、総合戦略部長が答えるのって、なんか変じゃない?」
御島媼「そうじゃな。答弁の適格性がない」
かえで「答えないということは、議会も市民もバカにされてるってことよ。もっと怒ってもいいのにね」
御島媼「やっぱり、『静かな議会』じゃな」
かえで「2期8年と決めて立派な業績を残した市長が、過去の高槻には多かった。市長、あなたはどうするのか…って問いにね」
御島媼「ふむふむ」
かえで「総合戦略部長が『全身全霊を傾けて市政運営にマイシンします』だと」
御島媼「本人の言でないところが、既に全身全霊ではないように思うが。ふほほ」
かえで「あ~あ。がっかり。高槻市の将来のためにしっかりした議論をしようという、そんな雰囲気がないのよね」
御島媼「一部の議員にはあるがなぁ」
かえで「議会には希望が持てないな」
御島媼「いやいや、世の中の何についても、変化を焦ってはいけない。世の中は、いろんな人がいろんな思いをかかえながら生きておる。その動こうとする方向は千差万別じゃ。じゃから一気にどちらかの方向に動くことはない。それは健全な姿じゃよ。何事も一歩ずつ、じゃ。動く方向がどちらかに揃って、あるいは思想教育により揃えられて、動き始めるのは本当に怖い。日本にそうした時代もあったし、今の地球上にはそういう国もあちこちにある。それはいかん」
かえで「そう…ね」 (この項終り)

118日 「12月議会一般質問 
御島媼「とにかく、こういう議員ごとの散発的な一般質問では市政の進化あるいは深化は望めぬな。議員の皆さん、なぜこのような現状に不満を述べないのか、不思議じゃよ。ところで、わかばよ」
かえで「わたし、かえで」
御島媼「そうじゃったな。15日から16日にかけての一般質問について、そなたの印象は?」
かえで「わたしねぇ、議会が市にお願いをしているように見えて、変だなあって思ったシーンがあったのよ」
御島媼「ほぉ」
かえで「議会の主役は誰?市政の主役は誰?」
御島媼「民主主義じゃから、主役は市民に決まっておる」
かえで「それが、ものごとを決める主役はお役所で、市議会はその決定に際して要望を出すところと勘違いしていない?」
御島媼「具体的に話しておくれ」
かえで「野々上議員と三井議員が『障がい者グループホームにおけるスプリンクラーの設置義務について』って、質問してるの」
御島媼「ふむふむ」
かえで「これは、老人施設などで火災があって収容者が焼け死んだなんて事故が最近あったため、大きな施設だけでなく重度の人が一定割合以上いたら小さい障がい者グループホームまでスプリンクラーをつけなければいけない義務ができて…。3~4人収容の小さいグループホームでもね」
御島媼「ふむ」
かえで「だけど実際はグループホームというのは、普通の民家をつかったりしてて、スプリンクラーを付けるなんて無理なのよ」
御島媼「そうじゃな」
かえで「だから、そういう小規模の施設にはスプリンクラー設置義務を免除とか緩和すべきだというのが両議員の意見だけど、消防はきっちり法規を適用します、だと」
御島媼「普通の役所は、さもあらん」
かえで「だけど、スプリンクラーを設置できなかったら、重度の人はグループホームに入居できないことになるのよ。実質的な障がい者排除だわ。高槻は福祉のまちだと思ってたけど…、違うのね」
御島媼「…」
かえで「老人夫婦の家はどうなるのかしら」
御島媼「一般家庭じゃからな。設置義務なし」
かえで「スプリンクラーを設置しないグループホームは消防法違反施設として公表するって言うしね」
御島媼「消防局が、公表する?」
かえで「うん」
御島媼「しゃくし定規に法令を運用すれば、そうなる」
かえで「しゃくし定規じゃなくて、そこに高槻らしさを出せないものかしら。大阪市が特例を定めているのだから高槻市だってできるでしょうよ。問題解決のためにどう動くか、そこに議員の値打ちがあるんだから」
御島媼「良き意見じゃな」
かえで「法律に逆行する条例は制定できないけれど、何か救済策を考えるべきよ。グループホームは文字どおり家庭なの。福祉施設というよりも。ね!議員って、本当はすごい力があるの。それを使ってほしい」
御島媼「どんな救済策?」
かえで「まず、消防法施行規則の改正要望を国に出すこと。グループホームへの予算を増やすこと。大阪市並みの特例を定めるよう、議員個人じゃなく議会として決議すること。とにかく市政の主役として働かなくちゃ!」(続く)

116日 「12月議会一般質問 

御島媼「12月議会で印象に残ったもの…、待ちなはれ、ワラワの印象に残ったものであって、良い悪いという絶対的な評価ではないぞえ」
かえで「うん、わかってる。でもまあ、ママが良いと感じるものって、多くの人が同じように感じると思うけどね」
御島媼「その前に、野々上議員の質問中に、野々上議員の後ろの席が空席じゃったぞ。名札は立ててあるのにな」
かえで「トイレかな?」
御島媼「いいえ、休憩直後だし、野々上議員の質問時間の16分17秒から44分42秒まで、ずう~っと不在。だから厠じゃないでしょ」
かえで「誰?」
御島媼「まあ、HPを開ければすぐわかる」
かえで「それに、そのお隣さん、野々上議員の質問中に誰かと喋ったり笑ったり、印象悪いね」
御島媼「ここ、最後列は傍聴席からは見えないからね。さて、と」
かえで「うん」
御島媼「川口議員の問題意識、然るべきものじゃな」
かえで「シカルベキモノって、ほめ言葉?」
御島媼「そう。市民の心配事を代弁しておる」
かえで「それから?」
御島媼「岡井議員と宮本議員の小中一貫教育の話」
かえで「うん、6・3制じゃなくなるのね」
御島媼「左様。4・3・2制になる」
かえで「わ~。小学校6年生で、わたし、最上級生になったから、しっかりしなくちゃと思ったけどね。そう思う機会というか、小6の最上級生という1年間がなくなるのね。」
御島媼「そのかわり、中学に入るときに不登校が増える中1ギャップもなくなる。学力も上がるし、全体として一貫教育は良い制度じゃという結果が出ておる」
かえで「そうなの…。まあね、わたし、古いものにはこだわらないけど」
御島媼「ほほ。郷愁を根拠に新制度に反対してはダメね」
かえで「そうよ。現実を見なくちゃ」
御島媼「岡井議員の歴史的観点からの発言もよかったし宮本議員の論法にも惚れ惚れ~♡」
かえで「ちょっと、あのねぇ…」
御島媼「ではあるがな、黄鶴先生の危惧のとおり、別々に質問しておるから散発的というか、リーダーシップ育成上の問題とか大規模校に附随する問題とか、ポイントを突く質問がありながら、それぞれが単独に議論の入り口で質問時間は終わっているというウラミがある」
かえで「残念だわねぇ。義務教育の体制が変わるという大問題なのだから、もっと市民の注目があってもいいし、もっと多くの議員が集中的に質問して深い議論があってもいいのにね」(続く)

113日 「12月議会一般質問 
かえで「さむ~」
御島媼「寒波じゃなぁ」
かえで「カンパ?よく聞くけど、これって?」
御島媼「海の波ではなく、上空に冷たい空気が押し寄せて来たのじゃ。波のようにな」
かえで「私、カンパしてほしい。お正月で使い果たして…」
御島媼「そちらはロシア語のカンパーニャの略。運動資金を大衆からの募金でまかなうこと。私は大衆にあらず。そやからカンパできないの」
かえで「理屈はいいから、お小遣い…」
御島媼「ダメ。今度の寒波は長く居座るぞよ」
かえで「どうして判るの」
御島媼「高層気象図を見るとな、樺太の上空を中心とした冷たい空気の渦がある。渦の中心が樺太で端っこは日本の東北地方。今日はな、上空3000m付近では最速25m/秒の風が吹いているわ。巨大な寒気の渦じゃ。こういう寒冷な渦が日本の北東にあるときは、天候がそのまま、長引く」
(http://www.jma.go.jp/jp/metcht/pdf/kosou/aupq78_00.pdf)
かえで「冬場の天気の特徴?」
御島媼「夏でもそうじゃ。周囲の空気より冷たい空気の渦があれば、それを寒冷渦という。冬以外にもある。夏場の寒冷渦は長雨の原因にもなる」
かえで「この天気図に等圧線の大きな環があるけど、これ?」
御島媼「そうじゃ」
かえで「テレビのお天気お姉さんは、こういう話しないわね。ところで、市議会の一般質問、聞きに行った?」
御島媼「八百比丘尼の会の忘年会で忙しくてな」
かえで「では、市議会のホームページのネット中継で聞けば?」
御島媼「ちょっとだけ開いてみたが、どうも…なぁ」
かえで「どうも…なに?」
御島媼「まず、全部聞くのは時間がかかり過ぎるわ。議事録として文字になったものは速読できるが、耳で聞くとゆっくり話す速さそのままで、なんとも焦れる。ワラワは忙しいのじゃ」
かえで「たしかに」
御島媼「それに、せっかく我慢して聞いてみても、その内容たるや唖然とするものがある」
かえで「ととと…。名誉棄損にならないように、注意してね」
御島媼「まことに。具体的な名は挙げぬ。市民の皆さんが議事録を読めばわかる」
かえで「はいはい。」
御島媼「質問内容の知識水準において、質問内容のインパクトの大きさにおいて、12月議会の一般質問には、質問の名に値しないものがある」
かえで「では、録画を見ても時間の無駄だったわね」
御島媼「いや、そうでもないぞよ。録画の画面から議員の熱意を感じてこちらも熱くなったり、質問から知識を得たりすることもる」
かえで「傍聴に行けば、質問しない議員が議場で何をしているかも見えるよ」
御島媼「然り」
かえで「立ち歩く人、手帳を見る人」
御島媼「ほほほ」
かえで「で、印象に残ったのは?」(続く)

2017110日 「質疑数」
9月議会の議事録が公表されていますので、常任委員会における議案質疑数、本会議における議案質疑及び一般質問数につき、全議員について調べ、「1市議会という舞台で 第一部 質疑・質問の数からみた市政への貢献度」のグラフ、「7基礎資料」のデータを修正しています。
2015年に比べ、2016年3月~9月の実績に大きな変化はなく、熱心に質疑・質問を行う議員は変わらず行い、寡黙な議員はずっと寡黙なままです。
質疑・質問の状況をよく見ると、傍聴の少ない委員会でも傍聴のある本会議でも変わらず質疑を行う議員、本会議では発言するが委員会では質疑のない議員、委員会でも本会議でも発言のない議員の3形態に分類できそうです。(白雲)

1228日 「カジノ法の悪辣さ」
やはりそうか。カジノ法には裏があった。デモクラTV(*)によると、日本におけるカジノ法案の成立の陰にアメリカのカジノ資本(以下「米カジノ資本」と略す)による戦略があり、成立を急いだのは彼らの圧力があったからだとか。
デモクラTVはいろいろ教えてくれる。①カジノ法案は以前から勉強会という名の米カジノ資本によるロビー活動があり、2年前には成立の予定だったこと。それが阻まれたのは当時の民主党が党に持ち帰って検討した際、辻本議員ほかが異議を唱えて民主党内の意見がまとまらなかったためであること。②今回成立を急いだのは、これ以上待てないという米カジノ資本の圧力があったためであること。③カジノは胴元が確実に巨額の利潤を得る仕組みであること、その胴元になれるのはノウハウを持つ米カジノ資本しかないこと。④米カジノ資本は、50億ドル(約6000億円)の資金を用意して、ギャンブル依存症が多く貯蓄率も高い処女地日本での解禁を待っていること。彼らは日本を400億ドルの市場と見なしていること。カジノ資本としては「ラスベガス・サンズ」「MGMリゾーツ・インターナショナル」の名前が列挙されていること。⑤カジノの客として彼らが想定するのは、中国からの観光客もあるがそれは景気による変動があるので、経営安定化のために日本人の客を当て込んでいること。等々。
いやはや、驚いた。来たるべきカジノで利潤を上げるのは、アメリカの資本家なのだ。日本の企業ではない。ここがポイントだ。日本の政策によって日本を犠牲にしてアメリカの事業家が巨額の利潤を上げる、こんな政治が日本にあってよいのか。
カジノ設置運営のためには施設の建設や従業員の雇用もあろう。その投資額は50億ドル。だが、そんな経費はただちにペイするだけの7~8倍の利潤が上がるからこそ、アメリカの資本は日本に向かうのだ。日本の国富がアメリカに移転されようが、カジノの陰にどれだけの人が破産に追い込まれ不幸な家庭が生まれようが、彼らの知ったことではない。企業にとって利潤は至高の道徳だから。
繰り返しになるが、投資額は50億ドルである。それだけの投資が日本に呼び込まれる。しかしその7~8倍の金が日本から出て行く。カジノがなければ日本国内の他の産業に向かうべき5兆円近いカネが国外に出て行く。
このようなカジノを成長産業・地域振興であると自民党や維新の会は国会で説明する。大嘘だ。政治が何かの業界の利益を代表する、それは解る。しかし、米カジノ資本の利益を代表し、日本の他の産業に向かうべき5兆円近くの金の流れを変えてアメリカに利益を提供する政策が、日本の政治家としてやるべきことか。嘘を口にしながら法制化を急ぐ彼らは、もう国賊としか言いようがない。そして大新聞は真実を伝えず政府発表の嘘をそのまま流している。こちらも同罪だ。
何の政策にも応援団やシンクタンクはある。カジノ法案については、日本プロジェクト産業協議会(JAPIC)・複合観光事業研究会というのがあった。議員立法として提出された同法案は、そこで書かれたとデモクラTVは言う。アメリカのカジノ資本、JAPIC,国会議員の間にどのような金の流れがあったのだろうか。勉強会の交通費はいくらだったのだろうか。
• (*)デモクラTVはインターネットで視聴できるメディアで、『いまこの国で起きている出来事やニュースの本質を、わかりやすく解説する「新しいニュース解説テレビ局」』(同ページから)である。月額525円。日本の真実を知るには有用な媒体と思う。ただしカジノ法案についての対談は12月11日から無料公開されている(https://www.youtube.com/watch?v=fBUKeov5DbU)。

1226日 「この国の希望」
この国に希望はあるのか。2017年度予算の大筋を眺めて、私はそう思った。
歳出は、増え続ける社会保障費や国債費に押されて目玉を失っている。目玉とは重点的に経費を当てるもので国家の将来像はこれだと国民に指し示す旗印のようなものだ。たとえば、深海に眠るメタンハイドレートの開発によって20xx年度の日本はエネルギー供給国になる、などと聞けば元気も出てくるが、それはない。関連予算はわずかに242億円だ。また、人口減少は様々な要因がからまって発生した現象であるが、それを組織的系統的に食い止める方策はこれだと、そう銘打ったものもなさそうだ。そういう将来の日本の骨格をなすものは、報道に接する限り来年度予算の中に見当たらず、その代わりに民主党政権で削減された農林関係のバラマキ予算は2000億円も復活された。
これを誰が推進したのか。与党の政治家だ。彼らは、収入の多い老人家庭の療養費について負担額を増やそうとした原案に抵抗し、現状どおりの軽い負担に留めることを選んだ。そうしなければ選挙民の支持を失うからだ。国の将来が危うくなれば自分の存在すら否定されるのに、これら与党の支持者たちは目先のことしか考えない。与党政治家はそんな愚民に迎合した。将来のために本来はこうあるべきだと国民を説得するのも政治家の仕事ではないか。もっとも、カジノを成長戦略と位置付ける程度の思考レベルでもあり、多くは望めない。16年度3次補正で1兆7千億円の赤字国債を追加発行し、17年度で34兆円の赤字国債に頼る、そうして返す当てもない借金をますます増やして子や孫を苦しめる。この責任は誰がどうとるのか。三菱東京UFJ銀行は今年7月、国債市場特別参加者の資格を返上した。この銀行はこれ以上国債は買えないという意思表示とも受け取れる。事態はそこまで来ているのに、政治家は皆、ギリシャのように実際に財政破綻しないと深刻さに気が付かないのか。
野放図に金を使い借金を減らすことは考えない、こういう政治家に任せておいて、この国に将来はあるのか。
希望の芽はある。去る12月17日、高槻で市民連合が組織された。アベ政治にノーと言おうとするゆるやかな団体だが、収容人員200人の旗揚げ会場は人であふれた。立ち見(立ち聞き)の人が20~30人いたほどだ。国を憂い国民のほんとうの幸せとそれをもたらすための正しい政治を求める人々が、呼びかけに即応して高槻でこれだけ集まる、これは希望の光ではないか。(黄鶴)

1220日 「一般質問」
高槻市議会の2016年12月定例会は15~16日の一般質問をもって終了した。その一般質問は18名、内容は、街づくり・公共施設整備8問、教育5、医療・介護4、交通安全・防犯3、障がい者対策3、防災2、産業振興2、その他行政一般5という状況である(1人で複数の質問があるので合計は18を超える)。日常的に市民と接し、市民の声を代弁しようと努める議員が相当数いるので、この質問の分布状況がそれぞれの行政需要の高低であるといえないこともない。
質問項目を眺めて、思うことが二つ。一つは、質問のレベル…次元と質的水準…だ。聞いてみないとわからないのだが、これが市議会本会議の一般質問に値する次元の話かと疑問に思うものがある。一般質問とは行政事務の個別的局面における細部の問題を扱うものではなく、市政の根幹をなす原則的事項・基本的考え方を質すもの、あるいは多くの市民の生活に影響のある問題に対する市の処置の是非を争うものではないか。些末な問題は個別に事務担当者との間で処理すればよい。それと、過去に傍聴した経験では、時間の無駄でしかない市長へのゴマすり質問、問題が実在しない仮定の質問、社会的意識水準に疑問がある質問があった。こういう質の劣る質問は事前にどこかでフィルターにかけられないか。…いやそれは言論の自由を妨げることになりかねない。ならばせめて、誰がどのような質問をしているかについて市民の関心を集めたい。市民はお祭り騒ぎの選挙はともかく、平時の市議会にあまりにも無関心であり過ぎ、このため議員の水準低下の拡大・ダメ議員の再生産を招いている。いまの「市議会だより」は真実を伝えていない。
もう一点。一般質問は属人的というか、議員一人ひとりが通告の順番に質問に立っている。いわば、議員の晴れ舞台である。ただ、その内容は同じものが時々ある。だから答える方も聞く方も、時間を置いて同じ内容の話に接することになる。今回の場合、小中一貫教育の話が、宮本議員、岡井議員からそれぞれ出されている。質問の順番からみて、同じテーマの話を15日と16日、別々に聞かねばならなかったようだ。こういうのは議会運営委員会とかで何とか調整できないものか。共通したテーマで複数の議員が連続して意見を展開する、そういう議会は面白そうだ。議会の活性化につながるのではないか。議員毎に何回も同じ話を出すか、それともテーマごとに複数の議員が登壇(だから、複数の質問項目のある議員はその項目数だけ登壇することになる)するか、それは一般質問が議員のショーの時間として議員自身のために行われるのか、あるいは真摯な議論として市民のために行われるのか、その違いと言えるだろう。(黄鶴)

1214日 「数の暴政」
もはや日本には政治はなくなった。あるのは多数派による暴走だけだ。
政治とは何か。それは国内的には日本人に将来への夢を与え現実生活の明るさと富をもたらし、総体として幸せに導くことだ。それらのすべてをアベ政治は踏みにじった。その代わりに、数による暴力は次々に悪政を生み国民経済を破滅に追い込もうとしている。
アベノミクス、戦争法案の愚挙に続いて、昨日いわゆるカジノ法案が参議院内閣委員会で可決された。世論調査では賛成よりも反対が多かったが、国民の声は一顧だにされなかった。民主主義はこの国にはなく議員政治という貴族政治だけが存在する。
カジノでは国は潤わない。納付金を利益の50%以上としない限り、国よりもカジノ企業の方が儲かるのは自明のこと。この納付率は企業の言いなりになる。企業の意志を尊重しないと誰もカジノを開かないからだ。このカジノ企業、外国資本にも門戸が開かれる。だとしたら、日本国民の富の喪失と賭博依存の病気を踏み台に外国企業が栄えることになる。グローバル化とはそういうことだ。
戦争法で誰が喜ぶか。アメリカ軍だ。カジノ法で誰が喜ぶか。カジノについてのノウハウをもつ外国企業だ。外国のための政治しか日本には存在しえないのかと慨嘆に堪えないが、暴走する自民と維新に数を与えたのは国民だ。自分の将来と今を悪政に委ねたまま破滅に向かっていることに、愚民故にそれにも気付いていない。
絶望的な状況だが、絶望してはいけない。道が違う、退き返して別の道を進むべきだと、声を上げよう。(黄鶴)

1209日 悪法カジノ法案 
国会がなぜカジノ法案を素早く成立させようとするのか、わかった。問題を検討し始めたら蜂の巣をつついたような騒ぎになり、収拾がつかなくなるからだ。そんな法律をなぜ通すのか、裏の事情を知りたいものだ。
さて、健全性についてもう少しふれる。カジノ施設の建設や運営は民間が行うのだが、施設・設備の輸入・取得の段階で、技術研修の段階で、あるいは施設運用の段階に入ったあと、他の民間団体と接触する中で外国マフィアや暴力団の影響が排除できるのか。第十条は政府(第五条以下、主語は国ではなく政府に替わる)の措置として「有害な影響の排除を適切に行う」ために行う事項を掲げ、第三号に「不適当な者を排除するために必要な規制」を政府が行えと述べるが、実効性のある規制が本当にできるのか。設備の購入・保守費用の一部がそうした裏社会に流れないと断言できるのか。できなければ、国が裏社会を保護育成する構図ができあがる。
第十二条は、カジノの運営者等から国が納付金を徴収できると定める。宝くじは寺銭が売り上げの50%を超えるが、カジノはどれくらいの率にするのだろう。それ次第で国の堕落の度合いが定まる。
第三章の規定では、「特定複合観光施設区域整備推進本部」なるものが内閣に置かれることになる。その本部長は内閣総理大臣で、副本部長は国務大臣だ。国を代表する者が公認の博打の総元締めになる。これは日本開闢以来のことではないか。博打国家の面目躍如たるものがある。この法案を考えた議員の品性を疑う。
この章の第二十条では、本部は所掌事務に関し関係行政機関に協力を求めることができると定める。国家行政組織法第十五も省同士の協力関係を謳っているくらいで、役人同士の協力は当然のことだ。いろんな法律に関係機関への協力を要請できる旨の規定がある。ただ、その2項はすべての人への協力依頼ができるとしている。ここは類例があまりない特異な条文である。警察官職務執行法は、警察官に対し、犯罪発生に関して職務質問を行ったり危害防止のためにその場にいる人を避難させたりできるとし、災害対策基本法は、災害予防責任者に防災訓練に関し関係の住民や団体に協力を求めることができる権限を与えているが、対象を限定せず協力要請権を役人に与えている法令は極めてまれである。国家と国民との関係を考えると、国民への干渉の権利を公務員に無制限に与えるのは問題ではないか。私たちは、ある日突然カジノへの協力を求められることが、今後はあり得るのだ。
またこの本部に関して必要な事項は政令で定めるとしている。それはどのような内容になるのか。物事を定めるには法律事項・政省令事項の別があって、国民の権利義務に関する規定は法律で、組織や手続きなどの詳細は政省令で定めるのが常識だが、政令ということは国会の審議は経ない、つまり国民の監視の目は届かないということだ。そこに問題はないか。
最後にギャンブル依存症への対策だが、このカジノ法案は、カジノを含む観光施設区域の整備を促進するのが目的であるから、この法案の中で競馬競輪パチンコを含むあらゆるギャンブルの依存症対策まで規定する必要はないが、カジノがそれを助長するおそれがある以上、少なくともカジノに関する依存症対策の基本規定を置くとか、社会現象としての依存症を防止する法案をセットで考えるべきだろう。それがないのは片手落ちだ。1年以内に関連法を定めるのでその中で謳うと提案者は言うが、それは間違いだ。基本法の中に原則的事項を謳い、関連法の中に詳細を規定するのがスジだ。基本法による授権のない話が関連法で突如として出てくるのはおかしい。
総じて、カジノ法案は幻想と虚構を前提とし、日本の魂を捨てる悪法である。廃案にすべきだ。(黄鶴)

1208日 「悪法カジノ法案 
次に挙げる諸点について、カジノ法案に賛成する人の意見を聞いてみたいものだ。私には答が見つからない。
カジノ法案は、第一条に「特定複合観光施設区域の整備の推進が、観光及び地域経済の振興に寄与するとともに、財政の改善に資するものであることに鑑み、(以下略)」と謳う。「地域経済の振興に寄与」という文言は第三条にもある。疑問の第一は、ここに謳うことが果たして本当なのかということだ。地域経済に役立つことは、いろいろ想定はできる。まず施設の建設だ。次にカジノ目当ての客が来ると仮定すれば、その滞在に付随する飲食業・クリーニング・タクシーなどの交通業・モノの流通業などが好影響を受けると考えられる。だが、それがどの程度のものか。定量的な検討は経ているのか。施設の建設は一過性のものにすぎない。昨日の党首討論では、安倍総理は「国際会議場や商業施設などの複合施設への投資が人々に雇用をもたらす」旨の答弁をしたが、カジノが地域経済に寄与するのかという質問には正面から答えなかった。答えられなかったと言うべきだろう。カジノは地域には何ももたらさないと答えたに等しい。総理の言のとおりカジノを除く複合施設が地域に富をもたらすなら、国際会議場などがある横浜のみなとみらい地区は殷賑を極めているか。横浜市は特別な富裕な市か。また財政の改善に資するというが、それがどのくらいの額になるのか。GDPの2倍を超える借金がどれだけ減らせるのか。また賭博の寺銭で学校や道路を造る、それでよいのか。カジノが地域経済や財政の改善に寄与するなど、幻想ではないか。地域経済の活性化には、もっとまっとうな、迂遠かもしれないが地道な策を考えるべきではないか。
「基本理念」とする第三条には「適切な国の監視及び管理の下で運営される健全なカジノ施設…」とある。そんなものが地上にあり得るのか。日本国は国の行政庁による監視及び管理の下にあるが、犯罪や不正のない夢の国か。「健全」は虚構に過ぎない。賭博場がそもそも健全なのか。親はカネを握らせて賭博で儲けろと子に教えるのか。国が掲げるべきは平和と人権に関する理念や道徳規範であって、それ以外のものはない。第三条は続けて「健全なカジノ施設の収益が社会に還元されることを基本に…」と謳う。カジノが地域経済に寄与する、収益が社会に還元されることを前提にすべてが始まっているのだが、前項と同じことを述べるけれども、前提は確かなのか。さほどの収益もないと判ったとき、できあがった総合施設はどうするのか。獲らぬ狸の皮算用がここにある。そもそも「基本理念」という日本語はおかしい。基本でない理念はない。
第四条は「国の責務」を定める。国がカジノ施設の整備を推進する責務を有するというのだ。これで日本は博打国家に成り下がった。美しい国日本はどこに行った。国が賭博場の設置を勧める、それは国家の品格に関わらないか。日本として失ってはならないものがあるが、その魂を忘れていないか。外国人が日本に対してもつイメージを大きく傷つけてはいないか。刑法第百八十六条2項は「賭博場を開帳し、又は博徒を結合し利益を図った者は、三月以上五年以下の懲役に処する」と定めるが、これと真っ向から対立する。犯罪とは何か。それは日本人として守るべきものに背を向ける行為だ。国自らが守るべきものを捨てたのだ。競馬・競輪・競艇があり、宝くじもあるのだから、カジノがあってもよいという論は、庶民のささやかな夢と一握りの富裕層による豪遊の質の違いを無視している。その桁違いの弊害にも目をつむっている。
疑問はまだまだある。とても一日の紙数では書ききれない。明日に回そう。(黄鶴)

1206日 「悪法カジノ法案 
特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案(通称、IR法案またはカジノ法案。以下「カジノ法案」を用いる)が衆院を通過した。これを快挙と見る人は、日本のこれからをどのように設計するつもりなのだろうか。
こんな法案が国会を通るとは、もう日本は国家のカタチを捨てたに等しいと私は思う。アベノミクスなどの経済失政で貧困層を一段と困窮させ、安全保障関連法の強行により平和日本の幟を巻き、この法案でヤクザ国家に堕して文化国家日本にとどめを刺した自民党と維新。彼らが国家の設計を担う政治家であるとは、どうしても考えられない。報じられているように、委員会での審議はわずか6時間。1日8時間の勤務時間に満たない短さだ。これでは何もしなかったに等しい。何事も適正手続を経て初めて、その効果を生じるものだ。国民に権利を与え義務を課す法律案であれば、国会での十分な審議を経る必要がある。ろくろく審議されないまま成立した法律など、誰が受け入れられるだろうか。あとで述べるように、この法案には数々の問題点がある。それを一つ一つ議論し、関係者の意見を集約していたら、おそらく数カ月を要するはずだ。その作業を自民・維新は省略した。暴挙という言葉では足りぬ醜態・悪行だ。既に十分議論を経ていると自民党幹部は言うが、どこで議論してきたのか。国会の場以外の密室で議論したとして、それが公論に決すると言えるのか。
そもそもこのカジノ法案は自民党でどのように扱われてきたのか、自民党のHPで関連資料を漁ってみた。まずこのカジノ法案の全文が読みたくてHPを捜したが、ない。HP内の検索ではヒットしない。参議院選挙のビラにはカジノ法案について一言もない。総合政策集2016J-ファイルは107頁に及ぶ資料だが、章を立ててカジノに関する政策案を詳説してあるかと期待して捜すものの、ない。86項目にわたる経済再生の部の40番目「観光立国の推進」の中に「カジノを含む統合型リゾート(IR)の推進などを実施します」という文言をようやく発見した。しかしこれも、査証要件の緩和、入国審査の迅速化、国際会議等の誘致・開催と横並びで書かれている程度だ。つまり、もともと自民党は他の案件に優先する政策とは考えていないのだ。それがなぜ、この忙しい国会日程の中で優先的に通過させられたのか。維新の掲げるカジノ政策を容認し、それと引き換えに維新を改憲の輪に加えるのもその理由の一つだろう。どこかから金が配られている、あるいはアメリカから要請されていると仮定すれば、自民党がなりふりかまわず急ぎ通過させたのももっと素直に納得できるが、そんなことはないだろう。
さて、カジノ法案の全文だが、衆議院のHPにそれはあった。これを一読して数々の疑問がすぐさま湧き起った。(黄鶴)

12月01日 「府政不正」
高槻市内を流れる芥川という川はいろいろ興味深くて、たまにその両岸を歩く。興味の対象の一つが野鳥の多いこと。広い川面に、いまは雁の仲間が多く、川の宝石のような、背中の青いラインが美しいカワセミを上流に見たこともある。また下田部住宅の西あたりでは珍しい川の立体交差もあって、江戸の昔の治水技術の高さに驚く。この立体交差は伏せ越しといわれ、サイフォンの原理を応用したもので、直交する川の手前で一度低く潜った水流がその川の向こうで再び地表に出てくるものだ。
芥川は、その支流に女瀬川をもつ。合流部は、昔は水田だったが今は遊水地となっている。その遊水地の、女瀬川を挟んで反対側、空き地だった場所が開発されている。こんなところに何ができるのかと看板を見ると、宅地になるような表記があった。
そこはどういう土地か。天井川である女瀬川の基準水位よりも地面が低く、豪雨により女瀬川堤防が決壊すれば、遊水地に集まった水が一気に流出する場所である。…という百年に一度の事態でなくても、掘れば伏流水に当たる。現に、宅地予定の場所の堤防法面近くには畳二枚分ほどの広さで深さ1mほど掘り下げられた場所があって、泉のごとく湧き出た水がポンプで排出されていた。いざ大地震となれば液状化が甚だしく、加えて堤防自体の液状化と破壊により、淀川を遡った津波が噴出する危険地域である。
そしてそこは、かつては平屋の大阪府営住宅が立ち並んでいた。しかし高層の府営住宅ができたときに取り壊された。跡地は、一時期スーパー堤防建設の計画があったが、地元の反対があったためか、その計画は頓挫した模様だ。その後は永く野鳥の営巣地となっていた。そういう土地を、宅地開発のために府は民間に売却したようだ。
そこで問う。宅地には不向きな土地を宅地として売る、これが正しい政治か。現地がどのような歴史的経緯をもった場所か何も知らずに購入し、サラリーマン一生の夢である家を建て、いざ災害となったらその家を失う、そんな悲劇の種を作ることが正しい政治か。土地を売って府の財政を改善したいのはわかるが、庶民を犠牲にして府を豊かにすることがあっていいのか。
国家賠償法第一条は、国または地方公共団体の公務員が故意または過失によって国民に損害を与えたときは国または地方公共団体は賠償の責を負うと規定する。日常業務の中で国賠の種は蒔かないのが公務員の基本だが、大阪府においてはそれは考慮の外らしい。(黄鶴)

1128日 「誰がために」
政治家はいったい誰のために政治をやっているのか。国政地方政を問わず政治家の多くは自身のためだろうとは思っていたが、またもそれを目にした。政治とは世間の欲得の調整が主目的だが、それよりも政治家自身の欲得で動くものなのだ。
政府の規制改革推進会議が、農協改革に向けて提言を行った。その主点は、農業従事者の所得向上のために、農協の資材販売システムを合理化して農民が安価に資材を購入できるようにすることと、農産物の農協への委託販売をやめて農協が買い取るようにすること、こういった改革を1年以内に実施することだった。
そもそも規制改革推進会議とは、内閣府に置かれた審議会であって総理大臣の諮問に応じて「経済社会の構造改革を進める上で必要な規制の在り方を総合的に調査審議し、その改革につき総理大臣に意見を述べること」を仕事にしているものである。委員には大学教授・実業界・法曹・マスコミなどいろんな立場の人が任命され、9月12日から11月15日まで5回の委員会を開催している。そのうち農業関係については牛乳・乳製品の生産・流通と農協改革がテーマとされていて、11月7日に改革案(農協については上述)が提示され、総理臨席の下に委員会で了承されている。その7日、総理はこう発言している。「本日、農協改革と生乳改革の方針を打ち出していただきました。全農改革は農業の構造改革の試金石であり、新しい組織に全農が生まれ変わるつもりで、その事業方式、組織体制を刷新していただきたいと思います。規制改革推進会議においては、本日打ち出した方針に基づき、真に農業者の立場に立った提言を早急にまとめていただき、そして、農協組織は真摯に受け止めて実行していただきたいと思います。引き続き積極的な提案を頂きたいと思います。そして皆様から頂いた提案を、私が、責任をもって、実行してまいります。」(一部略)
しかしこの改革案が自民党によって骨抜きにされた。なぜか。これでは農協の既得権が侵害されると危惧した農協側が反発し、そんな農協が自民党から離反した場合は選挙で不利になるとみた自民国会議員も強く反対した。そこで総理はこの問題を自民党に投げかけ、自民党重鎮の二階氏が調整に乗り出した。二階氏は、1年以内という急進的な要素を外すなどしたのか、内容は報道されていないが骨抜きにして、こう言った。「政党は選挙が命」と。農協改革による農業従事者や国民の利益よりも、選挙で勝てるかどうかの国会議員の利益を優先したわけだ。「規制改革推進会議の提案を責任をもって実行する」との総理の言葉は、どこかに吹き飛んだ。総理は官僚の作文を読んだだけにしても、あまりに軽すぎないか。
重ねて問う。政治とは誰のためのものか。こんな政治を行って国民を失望させておいて、一方で政治意識を高めたいと言う。片腹痛い。(黄鶴)

1124日 「変わり種条例」
「ジモトのココロ」(http://jimococo.mag2.com/zenkoku/13239?l=spb05aada7)がおもしろい。日本全国の興味深い条例をまとめて紹介した記事がある。
留萌市の「かずのこ条例」は、行事などへの数の子の積極利用を呼びかけたもの。青森県の板柳町「りんごまるかじり条例」は安心なりんごを消費者に届けることに努めようとし、同県鶴田町の「朝ごはん条例」は朝食から始まる生活習慣を見直し健康を守ろうとするもの。「美しい村づくり条例」を定めた北海道西興部(にしおこっぺ)村はシンボルカラーを定め建物の色調を統一しようとしている。ヨーロッパの街にも同じ制度がある。建物は個人宅といえども景観に関して言えば公共財なのだ。和歌山県南部町には「梅干しでおにぎり条例」があり、梅干しの普及を目指している。また、山口県光市「おっぱい都市宣言」、岡山県美星町「光害防止条例」なども、どんな内容なのか興味をひく。詳しくは上記URLを参照されたい。
このような条例の底に、共通するものが見える。わが町を愛し、わが町を発展させようとする心だ。その心がわが町を見据え、問題点を見出してその修正を図ろうとし、あるいはセールスポイントを再確認して街の伸長を目指す。そうした議員のひたむきさがユニークな条例を生み出している。すばらしいことだ。では高槻は?国の法律や府の方針を市に適用するだけが議会の仕事ではない。市長提出議案の追認だけならアイディアも不要だが、そんな働き方でいいのか。市域に森の多い高槻市だ。たとえば、平成元年制定の森林保全資金貸付基金条例、同13年制定の環境基本条例をさらに進化させた「森の条例」を制定し、森を活かした市民生活の設計をするのも今後の社会を豊かにするのに役立つだろう。ユニークさでは「おっぱい都市」に勝てないが。(黄鶴)

1121日 「府政だより」
銀行の窓口で、座って順番を待っていたら椅子の傍に「府政だより」11月号がありました。手に取ってみますと…。
『収穫の秋。今年も大阪産(もん)は豊作です』として地元農産物の紹介、住宅博での楽しい催しのPR、府政トピックスには『女性に対する暴力をなくす運動期間です』『太陽の塔寄付金募集』、そしておでかけガイド『万博公園紅葉まつり』などと記事が並んでいます。おや、『府民のための半額鑑賞会』なんて楽しそうな案内も。なんとなく、大阪という所は衣食住も文化的にも豊かでいつも気持ちが満たされる街という感じがしますよねぇ、この府政だよりを眺めていますと、ね。
だけどだけど、大阪府の財政状況が健全かどうか知りたくて、わたし先日総務省のHPを見たのです。財政状況資料集で将来負担額の中の「一般会計等に係る地方債の現在高」を見ると…、毎年増えているのですよ。一つの年度だけ見てもよくわからないんで平成20年度から26年度まで並べて見たのです。
わたしにはよく理解できないのですが、地方債の現在高が増えるということは、借金が増えるということじゃないんですか?20年度から、ずっと。20年度といえば…、府知事が橋下さんに替わったのは?あ、そう20年度。それからずっと、増え続けてます。いいんですか?府政だよりにのんびりした話ばかり載せていて。こういう問題点というか府民に真剣に考えてほしいことを毎号載せな、あかんのとちがいますか?財政破綻まであと何年、なんて逆針の時計を掲載するとか。(小宰相ノ局)

1119日 「虚に吠える」
一犬吠虚、万犬伝実。17日の阿倍訪米はまさにそうだ。何もないのに何かあると誰かが言えばマスコミがこぞってそれを実として報道する。愚かしいと思いつつも報道せざるを得ないマスコミも気の毒だが、それを信じる国民はもっとかわいそうだ。尤も、意義ある訪問だったと言わなければ、すべての人が立場上困る。
公務員用語を解釈しながら今回のトランプ氏訪問の実態を透視しよう。「次回はより幅の広いテーマでより深く話をしようということで一致した」という趣旨の安倍総理の言葉があった(表現は多少違うかもしれない)。ここで、「○○で一致した」とは、○○の部分以外では何一つ一致した点はないという意味の公務員的表現である。実績を高らかに謳い上げたいが、それほど言うべきものがないときにしばしば使われる。「次回は、より幅の広い、より深い話を」というのは、今回は幅も狭く掘り下げも浅かったという意味だ。要するに、これが会談の成果だと言えるものは何もないのだ。トランプ氏の長女の冷ややかな視線がすべてを物語っている。それを、総理・官邸が「信頼関係の確信」といい、トランプ氏はフェイスブックに「友人関係の始まり」と書き、世界のマスコミがこれを伝えた。伝えることによってそこに実体が生まれたと印象付けられた。一犬虚に吠えれば万犬実と伝える、その好例となった。
ちなみに、「大統領就任前の人物に総理が会うのは異例」とも伝えられた。当然だろう。当選したとはいえ、彼はまだ就任していない在野の人物だ。公人として一国を代表する立場の首脳がなぜ膝を屈して一民間人に会いに出かけられるか。普通の国ではそんなことはしない。それはアメリカに対する隷従を意味し自国民を貶めることになるからだ。犬馬の労を厭わぬ、それは人と人の関係だけに留めたい。(黄鶴)

1117日 「先例は法規範なり」
白雲子の疑問について、私はこのように考える。
市議会の先例は順守すべきものである。なぜならそれによって議会の秩序が形成・維持されるから。
この世はすべて、ルールがなければ混沌の世界に戻る。そこでは、統一された方向を持たない個人や集団があちこちでぶつかり合い、調整のための労力が各所で重複して消費され、総体的には大きな無駄となる。全体の進行方向をそろえ、無駄をなくし、個々人のベクトルを統一して大きな力とするのが、集団内の秩序であり、その秩序の源たる法規である。法規には明文で定めた法律・条令もあり、明文ではないがその社会に生きている慣習もある。議会の先例は慣習法であり、拘束力をもつ。法律学でしばしば使う「判例」が裁判の先例であり後の同類裁判を拘束するのと同様である。法学の初歩を詳論する必要はないだろう。
議会の先例は、それによって議会の仕事がスムーズに動くようにした先人の知恵である。各議員がこれに従えば、議論を進めるパターンが決まり議論が深まる一方で、会議記録作成や傍聴者の理解を容易にさせる果実を生む。果実がある限り悪弊とはいえない。気を付けて守るべきルールの一つである。
一般質問とは何か。政策提案である。単なる行政手続き上のミスの追求や社会事象の変化を指摘するだけの場ではない。この意味で、質問の2回目の内容は1回目の範囲内とするのは実に合理的である。議員も理事も一つの質問を複数回に分けて議論することにより、問題点が絞られ、クローズアップされ、多面的な検討が可能となり、質問が後に政策に変貌したとき無理・無駄・ムラのない実効性ある政策となることが期待できる。そうでなければ、一質問に対して一答となり、中途半端で実のない議論に終わる。質問書の第2項は2回目の質問で…と称するがごときは、複数回の質問が許されていることの意義につき理解が足りないと言わざるをえない。周りもそれを黙認してはならないのである。議会にそのような空気があるとしたら、議会先例77は、いつの間にかその精神が忘れ去られているということになる。
身の回りにある仕事の習慣や仕組みを見て、これはなぜなのかと存在理由を考えることは、極めて意義深い自己鍛錬の方法である。私がこれに気付いたのはずいぶん遅い時期で、若い頃にそんな指導を受けていればもっと違った自分が出来ていたのかもしれない。議会先例集も、考える材料に満ちている。(黄鶴)

1116日 「公約追求の姿勢」
「2 市議会という舞台で 第二部 …公約を果たそうとする姿勢」と「7基礎資料 (2)各議員の選挙公報と当選後の本会議における一般質問項目」に9月議会での一般質問の状況を加えました。
9月議会で一般質問に立ったのは22名で、うち12人が何らかの形で自分の公約に触れ、その実現を図ろうとしています。その割合は55%です。この比率(一般質問の中で自分の公約に触れた議員/一般質問を行った議員の総数)の改選以来の推移は次のとおりです。


調査の過程で気付いたのですが、9月議会での木本祐議員の一般質問2問目は、1問目の関連質問を行うのではなく全く別の項目について質問を行っています。議長もこれを制止していません。一方、昨年9月議会では森本議員が同様のことを行おうとし、議長から指導を受けて2問目は1問目の関連質問だけに留め、他の項目の質問を中止したことがありました。
議会先例77は、「再質問は原則として2回以内とし、質問の内容は第1問の範囲内とするのが例である」としています。この先例からみて、これらの質問はいかがなものでしょうか。(白雲)

1114日 「市会議員の観光旅行報告書」
千葉県議会で、新潟・川崎市議会で、議員の視察旅行についての報告書が丸写しと伝えられている(11月12日毎日新聞夕刊 大阪3版)。川崎市に至っては、出張先で説明に当たってくれた担当者の氏名の誤りまで丸写しだったとか。それも字数わずか450字の報告書の中で。伝言ゲームを地でゆく所業だ。
高槻市では、そういう報告書のコピーは起りえない。なぜなら、数人の会派で視察に行く場合、そのうちの1名しか報告書を書かないから。「議会の議員の行政視察に関する要領」の「2報告書の提出」には、「(2)…(略)…、なお、2人以上が出張したときは、全体の意見をまとめ、当該出張の代表者が記入すること。」とある。出張者のうち報告書を書くのは1人でよいと堂々と規定されている。これ自体、そもそもおかしい。報告書を書く1人を除き、他の出張者には何の義務も仕事もないお気楽観光旅行が待っていることとなる。
そして、その「全体の意見」たるや、すさまじい。何人もの感想を集めるのでさぞや長文、と思いきや…。古い資料だが、当HPの「5 公金の使いみち 第二部…会派行政視察の是非…」をご覧いただきたい。報告書のうち所見・感想の部分の字数は句読点を含めても1人当り最多98文字である。最少はなんと1人当り25文字!(*)。北海道やら沖縄県やら遠い市に行って施設や行政システムを実地に見て、この字数の感想しかないとは、驚くほかない。視察した行政システムについてその得失、今後起こり得る問題点、高槻市へ導入すると仮定した場合の問題点その他、真剣に吟味すれば書くべきことは多いはずだ。感じる神経・論評する鑑を持たないのか、あるいは神経は他の基本的かつ根源的感覚で満たされ行政視察の刺激は体を素通りしてしまうのか。
たしかに、出張したとき配布された資料はグループにつき1部でよいだろう。しかし、議員個々によって所見は違うはずだ。勉強の具合によっては入手資料も異なるだろう。報告書は各人毎に書くのが当然だ。そしてそれをインターネット上に公開すべきだ。報告書を見て選挙民は議員の資質を知ることができる。いちいち文書公開請求をしなければ報告書を読めないのでは、お上のご政道を批判すること相成らぬという状態に等しい。その方向に改革できないのは、なぜか。その理由について想像はできる。議員の出張報告が出張者グループ毎に1部でよいなら、高槻市では小中学校の修学旅行の感想文も学級代表が1人ずつ書くことにしたらどうか。(黄鶴)
* 当HPに挙げた報告書の所見・感想につき、その出張者のグループの人数:感想等の字数
6人:150字、4人:390字、8人:649字、2人:119字、4人:171字

1111日 「報道を利用したミスリード」
報道が政治的な仮想現実を作る。国民はその仮想現実を実体あるものと信じ、政府を評価する。政府は報道された仮想現実を足掛かりに次のステップへと進む。そうして誰も諌止しないままに意識と実態の乖離が進み、悪化の一途をたどる実態への改善の方策は何ひとつ採られず、やがて破滅の縁に臨む。
安倍総理とトランプ次期アメリカ大統領の会談予定のニュースを聞いて、このような報道の効果の実例を見た思いがした。トランプ氏は電話でこれまでの経済政策の実績を讃える言葉を述べたという。これにより次期大統領の言葉を借りてアベノミクス成功の仮想現実が虚空の大スクリーンに映し出された。何も実態を知らない国民はそれを見て政府を信頼する心象を形作るだろう。これぞ官邸の思うツボだ。
こういう時、往々にしてこの仮想現実に国民の希望という期待値が加わる。さらに熱狂が混じると、もう何が本当の姿なのか見えなくなり、聞こえる言葉だけを信じて人々はあらぬ方向に暴走する。
そういう時代が過去にあった。過去だけではなく、近年の選挙における各政党の得票数をみると、戦争を知らない世代の中に今も同じ土壌ができており、同じような判断停止状態がいつ起きてもおかしくないのが、恐ろしい。
歴史は繰り返すという。人間は同じ間違いを犯し続けるのだろうか。(黄鶴)

119日 「土人・再び」
イギリスのEU離脱、フィリピンにドゥテルテ大統領、そして今日のアメリカ大統領選挙。世界は理性をかなぐり捨てて感情や本音をむき出しにし始めた。理念としてこうあるべきという姿を追うことをやめて、個人と民族のエゴイズムに従うようになった。この先にあるものは何か。我欲に基づく力による収奪、弱肉強食の世界が広がるような気がする。これまでの国際協調は、もはや形すらなくなるだろう。イギリスでもアメリカでも、グローバリズムの中で仕事を失い切羽詰った生活を強いられている人々の多いことが、そのベースにある。何やら、先の大戦前の風景に似てきた。そして日本も、この風景の中にある。
ではあるが、これは許せない。トランプ大統領の出現によって霞んでしまったが、忘れてはならない。「土人は差別的表現ではない」と、とある大臣が言い放った。農水大臣といい、この大臣といい、安倍内閣の大臣とは、この程度のレベルか。「人権問題を第三者が一方的に決めつけるのは非常に危険。今は差別用語とされていても、過去には流布していたものがたくさんある」とおっしゃるが、寝言にしか聞こえない。それは現実を離れた教科書的表現としては正しいが、今の現実の中でその言葉がどう使われたかを見ろと言いたい。大阪府警の機動隊員が差別的意識を持って口にし、これによって深い傷を負った沖縄県民が実際にいるのだ。実際に人権が蹂躙されているのに、それをそうと言うことが、何が「非常に危険」か。一般論を口にするのではなく、現実をつぶさに見て判定せよと言いたい。この大臣も居座るのか。あらためてニュースを見ると、この人は沖縄担当相だ。この職にこの人あり。なんとまあ。(黄鶴)

118日 「委員会付託と云うが」
市議会において、議題の多くは委員会に付託される。全員が討議をする本会議ではなく専門的知見を有する委員会において細部まで議論して市政の高度化・きめ細かさを図ろうというものだが、その実態はどうか。白雲子の調査によると、常任委員会における審議状況は次のとおり。
3月議会
総務消防委員会 9議案付託 うち5件は質疑なし 4件につき審議時間165分(1件当たり41分)
文教市民委員会 5議案付託 うち1件は質疑なし 4件につき審議時間215分(1件当たり53分)
都市環境委員会10議案付託 うち6件は質疑なし 4件につき審議時間313分(1件当たり78分)
福祉企業委員会 14議案付託 うち6件は質疑なし 8件につき審議時間275分(1件当たり34分)
6月議会
総務消防委員会 4議案付託 うち1件は質疑なし 3件につき審議時間52分(1件当たり17分)
文教市民委員会 3議案付託   3件につき審議時間46分(1件当たり15分)
都市環境委員会 5議案付託 うち1件は質疑なし 4件につき審議時間88分(1件当たり22分)
福祉企業委員会 5議案付託 うち1件は質疑なし 4件につき審議時間84分(1件当たり21分)
全体を眺めると、3月議会では38議案のうち18議案、約半数が審議もなく成立している。審議されたものも、3月議会では一般会計予算案があったから比較的長い時間となっているが、6月議会では1議案当たりの質疑応答は平均して19分、委員会自体午前中で終わっている。議員の自宅から議場への往復の方が長いのではないか。審議にしても、自分が提起した住民訴訟のために市側に必要となった弁護士費用について質問した議員もいる。市民の福利を考え、まじめに議題に取り組む議員は極めて少数である。
かくして、ほとんどノーチェックのまま議案は委員会を素通りしていく。議員が自分で考え提出した議題は、もちろん、ない。(黄鶴)

背景写真は穭田です。
穭…。角川国語辞典にはありません。古語辞典に「ひつぢ」とあります。虚子の新歳時記にも「ひつぢ:稲を刈り取った後、しばらくすると、切株から青い芽が萌える。これが穭である」と説明されています。
一方、古今集では「ひづち」。濁点が後世になって移動しています。「かれる田におふるひづちのほにいでぬは 世を今更に秋はてぬとか(秋歌下308)」  一首の意は、刈取りの終わった田にひづちが伸びているが、穂の出ることはないのは、秋も終わるし、世に飽きて、今更穂を出すまでもないというのだろうか、とでも解せましょうか。ちなみにこの歌は、よみ人知らず、です。
しかし私は見たことがあります。短いひつぢからも穂が出るのを。ただし、実りません。(管理人)

1031日 「無知と無駄遣い」
常任委員会の一つの都市環境委員会で本年6月17日、6月補正予算に計上されたクリーンセンター第二工場復水器の修理費1億3560万円が取り上げられた。これを問題視し、質問したのは野々上議員唯一人だった。実は当ブログも6月14日に本件に関する問題点を指摘していた。
野々上議員の質問に対し、市側は補正に計上した理由などを説明しているが、これが当を得た説明になっていない。まず、定期検査の方法だが、2400本の伝熱管をサンプリング調査で何本か目視検査(ファイバースコープも細い部分に小さいカメラを入れて手元で画像を見るもので、目視検査の一種)を行うに過ぎない。これでは検査にならない。伝熱管と鏡板(6月14日のブログ参照)の取付け部の腐食が発見できないし、伝熱管の微細な亀裂を見落とすこともある。通常の1.3倍くらいの圧力をかける圧力試験をやるべきだ。そうすると2400本全数の検査になるし、亀裂があるかないかを目で見るより確実だ。定期検査で「異常がなかった」のではなく、検査方法の誤りにより異常を発見できなかったのが実態だ。ついでに言うと「負荷の大きい一部の配管」との説明は理解できない。復水器内部において水蒸気を冷やして水に戻す機能を果たすのは、どの配管も同じだ。そういうふうに設計されている。ともかく検査とは呼べない定期検査で異常を見逃していたのに、そのことを説明していない。見逃したのは定期検査を行った業者であるのに、その責任追及も行わず、その結果税金の無駄遣いになっていることも説明していない。
運転中に職員が異常を発見して大事故を未然に防止したのは立派だ。表彰ものだ。そのまま運転していたらボイラの加熱管内面に不純物が蓄積し大きなボイラ事故を起こしていただろう。ただ、「ポンプの電流圧力の値が通常より高いことを確認」という説明は理解しがたい。「電流圧力」という物理量はない。
次に、「タービン復水器の機能を回復するために、機器単体についてのノウハウだけでは不十分でありまして、本プラント全体において復水器の役割を十分に把握し、現場の状況に精通しました技術実績のある設置メーカーである川崎重工業株式会社関西支社との随意契約を予定」との説明も理解不能である。復水器単体を作るメーカーに「蒸気タービンのシステム全体を理解していない」者は日本には存在しない。今、書きながら私は笑いがこみあげてくる。復水器は、たしかに耐食性を要求される素材で入手には時間がかかるが、伝熱管端部の水密確保に熟練を要するが(それが会社の存立基盤)、特殊な会社でなければできないというシロモノではない。可動部もない、単なる水密の器でしかない。川重に限定する理由などどこにもない。競争入札で十分なのに、なぜ随契か。また金額的には復水器の修理ではなく復水器全体の交換のようだが、なぜ部分的な修理ではだめなのか。その説明もない。
野々上議員も随契について疑義を表わしているが、追及が不十分なまま終わっている。しかしこの分野の専門家ではないのでやむを得ないところだろうか。ならば専門家に尋ねればよい。機械工学をかじった者なら誰でもわかる。
本件を見て残念でしかたがないのは、技術的知見がないために市も議会も噴飯ものの業者の言い分を唯々諾々と受け入れ、その結果市税が無駄に使われていることだ。いや、知見がないのではない、クリーンセンターにはそういうことのわかる技術者もいる。ポンプ(ポンプを特定する説明がないが、復水ポンプか?)の運転状態の異常から復水器の故障を推定したのだから。あるいは市民の知らないところで、市や市議会には、屁理屈を使って公正さを脇に押しやり大金を業者に渡して見返りを得る利権構造でもあるのか。全てを判っていながら。だとすると大変なことだ。いや、これは邪推だろう。
市役所を、現場職員の能力を十分に生かしていない組織、業者のために存在する不経済な組織にはしてほしくない。切なる願いだ。(黄鶴)

1028日 「維新が選ぶ衆院選候補者は」
日本維新の会(以下「維新」と略す」は、次の衆院選大阪7区に奥下剛光氏を候補として立てることが報道されている。一般市民はどう思うのだろうか。
今週は維新のことばかりブログに書いている。維新に対して特別の感情を抱いているわけではないが、世の中のあれこれを正邪の基準に照らしたとき、この集団の愚行蛮行ばかりが目に付くのだから仕方がない。
奥下氏といえば、橋下氏が大阪市長時代に特別の条例を作って秘書として採用するも、選挙のたびに休職するなど秘書と称するに足る勤務の実態がないとして市民から住民監査請求や給与等の返還訴訟の対象となった人物だ。ちなみに、監査請求は却下され訴訟は原告敗訴となった。裁判では、合法的に市長の裁量権の中で秘書として採用されていること、会議録やメールなどに業務の記録がないけれども中央政界との人脈を使って秘書業務を行っていたと認定されたことなどから、原告の請求は棄却されている。市民感覚では納得しがたい判決だが、たしかに、昼間にツイッターなどを投稿したとしても、一般職員と違って特別職は勤務時間の定めがないから、それは違法ではないし、議会が定めた条例に則って採用されているから採用も法的には正しいことなのだ。なんか変だと市民感覚が反応しても、裁判所はあくまで法に照らして判断する。違法性がない限り裁判所は糾弾できない。裁判とはそういうものだ。また、公務と公務員は保護されるのが判例の流れだ。変だと思ったら市民は多数派を形成して変な条例を廃止するしかない。
この人物を維新は衆院選に擁立する。私は直接は知らないが、候補者に立てられるくらいだから、高い政治的見識を備えた相応の人物なのだろう。政党には国政かくあるべきという理念がそれぞれにある。その理念に沿った人物を選び、他党と戦う。それが選挙だ。だから維新もそうしているものと理解する。決して後援会長の息子だから、選挙資金をたくさん準備してくれた一族の子弟だから、論功行賞の一環として擁立するのではないだろう。もしそうなら、江戸時代の代官所も行わなかった情実に基づく人事を進める腐敗堕落集団の極みと言わねばならない。
この人物を立てる選挙区が大阪7区だ。かの上西小百合議員の選挙区だ。上西議員を除名し、その代わりに奥下氏を立てる、なんとも興味深い人選である。このような人選により、維新は日本をどのような国にしようとするのだろうか。いや、官邸も維新に求めているのは改憲に必要な頭数だけだから、そういう話は不要か。(黄鶴)

1027日 「調査という名の踏み絵」
大阪市が交通局職員の係長級以下に対して意識調査をした。管理部門の職員には、他の部局に異動するか、民営化した新会社に移るか、それとも辞めるかの三択、運転士などの現場職員には他部局への異動の選択肢はなく、新会社に移るか辞めるかの二択だった。
これが調査と言えるのか。一般論として、調査については聞き方次第で答が変わるが、この場合は退職という言葉が入った時点で脅迫または踏み絵と言うに等しい。こういう調査を行うこと自体、異常だ。
個々の労働者は雇い主に対しては弱い。今の時代、交通局の職を失えばどうなるか。同じ給与を得られる他の職場での正社員の道は難しい。交通部門の現場を離れて何かの派遣社員になってみても、その身のおぼつかなさ、永続性安定性のなさは目に見えている。その一方で子どもの教育費もあるし住宅ローンもある。辞められる訳がない。95%の現場職員が新会社に行くと答えたのも当然だ。職を失うかどうかの瀬戸際では、民営化の意義はおろか労働条件の低下すらも判断基準の埒外になる。そんなことはどうでもいいのだ。食べることが先決だ。
また管理部門についても、他の部局に移るとそこで新しい仕事に関する勉強が必要になる。その仕事への適性が自分にあるかどうかも不安だ。市民の足を守るという今まで自分を支えてきた仕事のやりがいも失われる。他部局に移るより新会社を希望する人が多いのが自然な流れだろう。
管理部門で新会社への異動希望が多かったことに対し『民営化の意義や将来性への理解が職員に浸透してきた』と吉村大阪市長は言う。この理解は、職員の本当の気持ちを理解しようとしないもので、あまりにも身勝手で的外れだ。人が生きることの重みを知ることが、組織を管理する者の必須条件だ。(黄鶴)

1024日 「大阪府知事と土人」
馬脚をあらわすこと幾たびか。もう驚かなくなった。松井知事は19日、沖縄県民を「土人」と呼んだ大阪府警機動隊に対し、『ネットでの映像を見ましたが、表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様。』とツイッターに書き、その後もこれを取り消していない。
この発言の何が問題か、本人の自覚がないようなので、ここに述べる。
第一に、松井知事はこの機動隊員の暴言を知った直後に、実情を調査すること、実行者が大阪府警の警察官であれば組織のトップとして陳謝すること、そしてこの警官を処分する方針を明らかにすべきであった。泣いて馬謖を切るべきであった。それをしないどころか『ご苦労様』と擁護した。これにより、松井知事本人も沖縄県民に対し「土人」との意識を有することを明白にした。しかしそれは言ってはいけないと考えていることから、『表現が不適切』という書きぶりにもなった。この沖縄差別の深層意識に自分で気づいていないのだ。昔も今も、沖縄県民の犠牲の上に日本の安全が成り立っていることを思い知るべきである。沖縄戦の最終段階において「沖縄県民かく戦へり」と打電した大田海軍中将を、松井知事の対極として思い出す。
次に、『職務を遂行していた』と知事は言うが、公務とは適正な手続きを経て法目的を達成することにより国民の福利厚生の向上を図る行動をいうのである。警備という職務も、適正・適法な行動によって安寧秩序を守るものであり、鎮圧にあたって警官自身が秩序を破壊するような言動を示すのは許されない。たとえ警備の対象者が『むちゃくちゃ』を言おうが、挑発して来ようが、警察官が暴言を吐くなど適正さを欠いた時点でそれは公務ではなく単なる暴力に変わるのである。特別公務員暴行陵虐罪というのが刑法第195条にあり、警察官などの被疑者に対する暴行を特別の罪としているが、この言葉の暴力はそれに準じる悪辣さなのだ。松井知事はそこを理解していない。公務の執行ということについて正しい認識のない人物が、暴行と公務との区別のつかない人物が、知事として大阪府政の頂点に立っている。このような知事を誰が選んだのか。(黄鶴)

1017日 「民意の二重構造」
新潟県知事選で原発再稼働に慎重な候補者が当選した。民意の素直な表われと私は見る。個々人のレベルでは信頼しがたいが総体としての民意は正しいと、ある政治指導者の述懐があったことを思い出す。
この選挙では争点が絞られた。原発再稼働に賛成か反対か、と。原発の不利益を知らず利益を受けるだけの首都近辺ならば再稼働賛成だったかもしれないが、ひとたび事故があれば重大な影響を受ける地元では、また考えが違う。その空気を知った自民推薦候補は、再稼働反対もあると選挙戦途中で言い始めたが、時すでに遅し。その発言と自民の方針との違いが選挙民の心を遠ざけたことを示す結果となった。
ところで、その民意だが、今回のように一般市民にとって望ましい姿が現われる場合もあれば、市民よりも産業界・国の意志に従う形となる場合の二通りがある。どちらかというと、前者は地方選に多く、後者は国政選挙に多い。国政選挙、特に衆院選においては、政策が産業界や会社の利害得失に直結することから組織的な集票機構が動き、このような二重構造と言うか、二面性が現われる。
しかし、このイデアの世界に向かう理性と欲得に向かう情の二面性は、考えてみれば人間の心理そのものだ。人間心理が政治の世界に投影され、二つの価値の間を政策方針が揺れ動く。
この両者は相反するものだろうか。たしかに、再稼働を行わなかったら、火力発電所の稼働が増えてガスや石油の輸入が増大する。燃料費の増大を招く。その額は数千億円という負担増大になって、福島の事故の補償などの予算枠が狭まる。しかしそれは短期的な話だ。長期的には原発存続のリスクは何も変わらない。リスク即ち事故の危険性やテロの標的となり続ける危険性だ。現在の世代の繁栄のために子々孫々の世代の安全を犠牲にし続けることだ。
短期的にではなく長期的にものごとを考えよう。己一個の生きる時間内での損得でなく、次の世代を含むスパンで考えよう。そのとき、原発廃止という理想は放射性物質の危険性からの離脱という現実的利益を生む、極めて合理的な選択となる。自分だけの欲にとらわれるのは間違いなのだ。(黄鶴)

管理人旅行中のため一週間ほど更新を休みます。あしからず…。(管理人)

1014日 「無言の行に198万円」
6月議会の議事録が公になっていますので各議員の質疑・質問数を数え、3月議会のデータと合わせて
「1 市議会という舞台で  第一部 …質疑・質問の数からみた市政への貢献度」に載せておきました。
議案の質量にもよるのでしょうが、3月議会に比べると6月議会は低調です。質疑・質問総数は3月の140件(1人平均4.1件)に対し6月は64件(同1.9件)で、半減しています。常任委員会で1回、本会議で1回の発言を行うのが6月議会での平均的な高槻市議会議員の姿でした。ただ、平均的にはそうなのですが、中には常任委員会・本会議を通じて発言ゼロの議員が6人いらっしゃいました。委員会1日、本会議4日、合わせて5日間の無言の行はさぞやお辛かったのではと拝察します。尤も、5日間の会議開催時間数を積算しますと、常任委員会の種類によって若干違いますが最長で14時間13分(協議会を含む)ですので、ほぼ2日分の勤務時間に相当し、これならできないことでもないと納得しました。
ちなみに、発言準備期間としての4~5月、会議のある6月、合計3か月分の議員報酬は、一般議員の場合198万円です。発言ゼロの活動状況に対して198万円の市税が支払われています。(白雲)

1007日 「政治家の常識」
この話をマスコミはどう伝えるのだろうか。あるいは、書くと政権から睨まれるので触れないか。
参議院予算委員会の2016年10月06日午後の質疑で、共産党小池委員は、菅官房長官、稲田防衛大臣、
高市総務大臣の政治資金団体がパーティーに際して白紙の領収書をもらって、金額を自分で書き込んだことを明らかにした。そして、それぞれの大臣がそれを認めたうえで、金額を自分で書くのは正しいことだと強弁した。
各大臣の言い方はこうだ。パーティー会場では受付は忙しく、出席者が差出した包みを開いて中身を確認し領収書に金額を書き込んだりしていたのでは、多くの来場者を待たせることになり、パーティーの運営に差し障りがある、だから主催者は白紙の領収書を渡し金額を出席者側で書き入れている。金額はお互い帳簿の上で正確に記載しているし、白紙の領収書への書き込みも相互の了解のもとに行うから正しいのだ。法律には領収書の書き方は規定していないから、誰がどう書いても違法ではないのだ…。
稲田防衛大臣に至っては、他の議員がやっているからいいのだと説明し、「子供のような言い訳はするな」と小池議員に揶揄されていた。各大臣とも同じような説明をしていたが、「後で書き加えたりするなと手引書に書いてあるじゃないか」との小池委員の指摘には、誰もぐうの音も出なかった。領収書はなにもパーティーの会場ではなく翌日渡せばいいじゃないかという指摘にも、反論者はいなかった。
白紙の領収書をもらう、そして金額は都合の良いように自分で書く、それが許せるのならすべての領収書の信用が失われる。世間ではそれを許していない。だが自民党では許されている。税務署も、領収書とはそういうものだと認めたらどうか。自営業をやっている者も助かる。
永田町の常識は国民の非常識。それをマスコミはどう扱うのか。まことに興味深い。新聞をめくるのが楽しみだ。(黄鶴)

1006日 「心強い投書」
本日付の毎日新聞朝刊の投書欄「みんなの広場」にうれしい投書があった。西宮市の主婦の方の『無関心は「もの言えぬ国」の再来を招く』という主張だ。投書は、先の大戦に突入して行った原因は何だったのかという疑問に始まり、安全保障関連法の施行や憲法がなし崩しになる事態を見て、国民が無関心であることがその理由であったかと感じ取り、この無関心が再度国の暴走を招くのではないかと将来を危惧する。
そうなのだ。本当にそうだ。このような考え方が広がればいいのだが、子どもの教育は批判力を育てず、大人への情報提供は政治を脇に押しやる種類のものが優先されるのが今の風潮だ。そうして政治・政府への無関心を育てる。このままでは、いずれこの主婦の方の危惧は現実になる。
そのような無関心の中で、自民党総裁の任期が延長されようとしている。時代錯誤の帝国の誕生はますます近くなった。
およそモノには二面性がある。何事にもメリットとデメリットがある。総裁の任期が2期6年に限られることにも、良否両面がある。良い点は交替制とすることにより権力の集中・腐敗が防がれること。2期6年とすることにより政策の起承転結にタイムスケジュールが自ずと生まれること、等だ。悪い点は永続性に欠け、外国要人との関係構築ができないので交渉にじっくり腰を落ち着けることができないことだ。他には思いつかない。いまなぜ2期6年となっているのかについては、そのメリットデメリットの比較衡量のうえだろうが、これを決めた当時と今とでどのように事情が変わったのか、なぜ今これを議論する必要があるのか、知りたい。そうそう、党内に異論がないことも異常だ。自民党内では正常なのだろうが、国民から見るとおかしい。政治家がその国民の視線に気付かないことにも悲しさを覚える。(黄鶴)

1004日 「内閣支持率と民度」
衆議院予算委員会が開かれている。TVを見ていると、民進党の顔である前原・長妻議員などの質問に対して総理は正面から答えない逃げの答弁を繰り返し、若い玉木議員の質問にはヤジを飛ばしていた。終始、至誠にもとる態度と言わざるを得ない。先の参院選挙で自民党は憲法改正案を出して国民の信を問うたという趣旨の答弁まであった。ヤジを飛ばした直後の総理に長妻議員ほか1名が席を立って総理の席に詰め寄ったようにTVでは見えたが、TVカメラはその長妻議員の姿を追わず、質問者を映し続けた。
国会における総理のこのような態度と安倍内閣支持率の高さとの関係は、私には理解できない。なぜこのような落差が生じるのか。
まず、国民は国会の現状を知らないのだろう。TVの国会中継など、よほど政治好きでなければ見ない。国会での総理の真の姿を知らないから、ニュースの時間に流される外交の場や国会でまともな答弁をした時の総理の外形だけを印象に残す。そして、外国首脳を相手に日本として当然主張すべきことを言う総理を見てこれを支援し、アベノミクスの成果の謳い文句を素直に信用してはこれを讃える。
次に、国会の状況を知っていても、これを是認する層が確固として在ることが想像できる。NHKの調査では、安倍内閣を支持する57%の中で、自民党支持は40%だった(9月9~11日調査)。つまり、調査対象のうち40%の人は、首相が誰であれ、どんなことをしようがお構いなく自民党内閣を支持すると理解できる。そして17%が安倍総理を個人的に信奉している浮動票と言える。
話は跳ぶが、ここ2年ほど会っていない大学のゼミの仲間が亡くなった。またあの世で会えるかなと思うが、その一方で、あの世など脳内の化学反応によって存在する想念であり、脳という物質がなくなれば存在の認識も消えるもの、それが絶対的真実であるとも考える。つまり、あの世を信じることは、科学的事実とは離れた別次元の、人間の思いなのだ。
政党支持も同じこと。それは、現実を見定めることから始まる論理的行動ではなく、信じるという大衆の心の作用の結果なのだ。だから、それを操ることもできる。操られないよう、民度の向上を待ちたい。もし、向上するものなら。(黄鶴)

928日 「議場の風景」

御島媼「秋はなほ~夕まぐれこそただならね…、荻の上風 萩の下露…」
かえで「ママ、どうしたの」
御島媼「和歌の世界に浸っておるのよ、秋のたそがれ時も善きかな。秋じゃ…」
かえで「秋じゃ、秋じゃと唄うなり…」
御島媼「うむ、そういうのもあったな。堀口大学か?」
かえで「忘れた。ところで、昨日は覗いたの?市議会の一般質問」
御島媼「行ったぞよ。少しな」
かえで「一般質問って、なに?」
御島媼「特にテーマを定めず、何でもいいから質問するのよ」
かえで「ほんとに何でもいいの?」
御島媼「何でもよいが、それ、今急いでやるべき案件か?と、疑う質問も多かったなぁ」
かえで「なんだか、行って後悔してるみたい。ふふ」
御島媼「そうなのじゃ。後味が悪いから、昔の歌をな…、この歌でもって心を洗うのじゃよ」
かえで「後味が…って、何があったの?」
御島媼「いやはや、議場はな、学級崩壊状態」
かえで「そう?」
御島媼「2時間座っておれぬ子が何人もいて…」
かえで「トイレとか?」
御島媼「そんなもの、あらかじめ済ませておけと言いたい。議場は議員にとって戦場じゃぞ」
かえで「とてもじゃないけど、そんな気構えはないのね」
御島媼「ひどいのは、何回も出たり入ったり。出たと思ったら10分以上帰らなかったり」
かえで「体調不良?大は小を兼ねて…」
御島媼「最後列が上空からはシカと見えないのじゃが、空席らしいときもあってな」
かえで「同じ議員がいつも抜け出す?」
御島媼「その傾向があるなぁ」
かえで「一人が質問してるとき、ほかの議員はそれをじっと聴いてるわけ?それについて賛成とか反対とか…」
御島媼「そういう議論の場ではないのじゃよ。一般質問の日は、な。順番に自分の質問を投げかけるだけ。じゃから誰かが子育ての話をしたら、次は観光振興の話題になったり。なんというか、ランダムになる。」
かえで「ふーん。じゃ、他の議員は手持無沙汰ね。居眠りしたりとか、ない?」
御島媼「首が横に傾いたり、前に倒れたり、あるわな。でも、起きてるか寝てるか、上からでは見えぬ」
かえで「ネット中継も、発言者だけじゃなく議場全体を映せばいいのに」
御島媼「それは反対議員が多いらしい」
かえで「ふふ、そうでしょうね」
御島媼「議題とは関係のなさそうな資料をめくったり、手帳を見て予定を確認していたり。不公平になるから名前は言えぬが」
かえで「う~ん、なんだか…」
御島媼「机の上に何も置いていない議員も、発言を聴いてうなずくとか、そういう反応がまるでないから、質問や答弁に耳を傾けているようには思えぬ。長年の訓練により、仏像のように身じろぎもせず座っているのが上手になったようじゃ」
かえで「スマホとか、見てる人は?」
御島媼「それはなかったな。2~3年前、噂に聞いたことはあるが。ともかく品性のなさ、発言の内容の…」
かえで「貧しさ?」
御島媼「あぁ、まあね。しかし何人か、しっかりした人もいるぞ」
かえで「救いになりそう」
御島媼「あれやこれやで疲れてな、歌の世界に入り込んでいたというわけ」
かえで「癒しのため、ね。じゃ、この次、発言内容を教えてね」
御島媼「あぁ、2~3週間後になるがな。そうしよう」

926日 「一般質問とは」
今日と明日、高槻市議会は一般質問の日である。22名の議員が質問に立つことになっている。
議員にとって、それは晴れ舞台のひとつなのだろう。インターネットを通じてその姿が市民に公開されるし、それを見に来る支持者が数人、傍聴席に陣取る。ただし支持者たちはお目当ての議員のそれが終わればそそくさと席を立つ。他の議員が何を質問しようが興味関心の外だ。このシーンにおいては、それは主役(と本人が認識する)の議員が支持者への印象付けをなすことが一番の目的となっている。自分のための質問なのだ。これでは困る。一般質問を傍聴してみると、とても質問とはいえないものが多いことに暗澹とすることがある。
では一般質問たりうるものの要件は何か。それは当然ながら市民のためになる質問でなければならない。自己顕示欲を満足させるためであったり単なる支持者向けのショウであったり、あるいは市長への追従であってはならない。そんなもののために礼を尽くして答弁を準備しなければならない市の理事もかわいそうだ。では何が市民のためになるのか。その要件は何か。
第一に、今の行政需要を正確に提示する必要がある。「いま」という適時性、どの部局が緊急に何を為さねばならないかの問題点と対策を浮き彫りにする的確性が求められる。また表現を換えれば、質問事項は現実の問題に立脚することが必須条件である。学術雑誌から引用した高度で専門的な概念などを披歴されても誰も理解できないし「もしこんな問題が起ったら」と架空の話を持ち出されても当惑するだけだ。そして、質問すべき事柄であるとの認識は、現実に照らして多くの市民に共感できるものである必要がある。個性的な議員の偏った見方では困る。ただ、そこに、ときどき市民にはまだ見えないことへの先見の明を示す議員もいるから、ややこしい。
第二に、多くの市民にとって影響のある事柄、あるいは多くの市民の関心の的となる事物である必要がある。ただ、一地域の少数市民の問題であっても、それが深刻ならば質問とすることにやぶさかではない。今は一部市民の問題であっても、同じ態度・行政手法で他の市民に対した場合、問題が広がるからだ。
第三に、…当然のことを言わねばならないのも辛いが…、市の所掌事務に関する質問であるべきだ。国レベルの問題を取り上げても、市は答える立場にはない。
第四に、趣旨がやや異なるが、弁論の格調があることが望ましい。聞く人の耳にすんなり入り、問題意識をかきたてるには、まずもって自分の言葉によるやさしい表現であり、言葉を繰り出すのに一定のリズムが必要なのだ。他人が書いた原稿では、それは無理だ。
今回はどんな質問が出るのか、以上のような観点から聴いてみたい。(黄鶴)

923日 「責任を取らない人々」
「2年で消費者物価2%アップ」は、3年経っても実現できなかった。当たり前だろう、物価は経済・産業・労働政策を総動員した結果の日本経済全般の動きの指標なのに、それを金融政策だけで達成しようとするのは間違いだ…と、私などは思うのだけれど、日銀はそうはいわずに理由にもならない口舌を並べて「新しい枠組み」なるものを発表した。そこで思い出したが、消費税率引き上げの再延期決定のとき、責任者は、従来の約束と異なる「新しい判断」であると説明した。どちらのシーンにも「新しい」という言葉が共通している。
言葉の意味は時代と共に変化する。たとえば「凄い」は、「恐ろしいこと」「ぞっとするほど気味が悪いこと」であったものが、この頃は「とても」「常ならぬ」という副詞や感嘆詞になっている。「新しい」という単語も、「旧来のものとは違う初お目見えのもの」との意味から「権力の座に居続けるために過去の失政をなかったことにする」に変わったようだ。
そんなことが許されるのか。正社員になれない、子供を幼稚園に預けられない、給料が安くて結婚できない…、その他もろもろにより多くの国民の生活を破綻させている失政の責任を顧みず、あるいは異次元の緩和によってとんでもない額の負担を次世代の日本人に押し付けた責任を顧みず、「新しい」状況の中で生き延びようとする、そんなことが許されるのか。
安倍内閣の高い支持率からみると日本国民はこの「新しい」解釈に異を唱えていないようだ。不思議なことだ。国民性として「新しいもの好き」で、責任を取らなくて済むことが国民にとって生活する上で望ましいことなのだ。潔さを失い、上も下も責任を取らないことが賢いこととされているこの風潮…。上(かみ)、その道を失い、民、散ずること久し。
しかし、諸外国は見ている。そして日本の重さを量っている。(黄鶴)

920日 「セイカツ費」
とどまるところを知らない富山市議会の政務活動費不正使用。それについて9月18日付け毎日新聞社説は①前払いをやめ後払いにすること、②全国規模の団体が改革に動くべきこと、③支出範囲の限定、④領収書のインターネット公開などを提言する。ただし、この社説には議会の自浄能力を期待する希望は片言も表わされていない。中央紙が地方議会をどの程度のレベルと見ているか、よくわかる。
富山市は高槻市と同じ中核都市である。府県レベルの行政も任された、他市町村のリーダーたるべき存在である。行政設計能力・行政執行能力などあらゆる点で、見下されたレベルであってよいはずがない。堕落の原因はいったい何か。政務活動費(以下、政活費と略称する)の使い方をチェックするシステムが働かないためだ。形の上でそのシステムはある。富山市議会政務活動費の交付に関する条例第十二条によれば、議長において収支報告書を調査して透明性を確保することになっている。だがそれが機能していなかった。議長も同じ議員であり、同じように政活費を使う立場である。自分の使う政活費のチェックを自分でできるとは思えない。すべての人間が聖者ではない。
高槻市はどうか。議長がチェックするシステムは同じである。正しく運用されているか。領収書の偽造はないか。わからない。収支報告書の調査をしたとのニュースもないし領収書のインターネット公開もない。今後それを行おうという態度表明もない。富山市が糾弾されている今、自らの正しさを示そうとする意欲のないのが残念である。
そもそも政活費が必要なのか。職務に関する自らのポテンシャルを高めることにつき、勤務先から何かの手当が出ている職業が政治家以外にあるか。私は寡聞にして知らない。大学には研究費があるが、それは研究が大学教員の本来職務であり実験材料費などが必須であることによる経費だ。趣旨が違う。小中高の教員に教材研究旅費・授業準備費が授業に先立って支給されるか。ない。政治家にとって政治を行う上で本来的に必要な経費があるか。ない。政治家は特別なのか。違う。だから政活費は公費から出すべきではない。自己研鑽が必要ならばそのための経費は自前で出すべきだ。学んだものは自分の財産になるのだから。そうした市会議員も高槻にはいた。それよりも、自己研鑽が必要ならば、それを終えた後に議員になれとも言いたいのだが、時に及んで新たに知るべきものもあろう。そこは強くは言わない。あるいは、政策研究の場が必要ならば、その経費を個人に支給するのではなく、総括的に出張費などを別途予算化すべきだ。その枠の中で、必要に応じて各議員が申請して支出すればよい。これを承認する機関には市民代表も入れるべきだ。
人は安きに流れる。生ものは腐敗する。高槻市ではほとんど政活費を使わない議員もいるし、支給額の9割以上を使う議員は2015年度は8人程度という状態である。しかし、何もしなければ、高槻市議会も富山市議会と同じ道をたどる虞がある。正常化・清浄化に向けての更なる努力を期待する。(黄鶴)

914日 「欺瞞、天地に満ちる
このような国際・国内情勢のなかで、私たちに何ができるのだろうか。切歯扼腕し、世を恨むだけでは何の解決にもならない。
私は思う。まず、一人ひとりが自分たちの生活を築き守ることへの明確な思想をもつことだ。他に押し付けられたものではなく自ら考え出したもの、特定の者の利益にのみ貢献するものではなく全員の生活を豊かにするもの、個人の権利、互いを尊重する社会構造、制度…。確立した強い思想の集合は、やがて民族精神としてまとまる。それが国家意思の裏打ちとなり文化ともなり、他国の民を日本に向かわせる力となる。実はこうしたことは既に現実にある。遠いアフリカの国でも、中国人のような顔をした男が日本人だとわかると、無表情な顔が一瞬にして変わり、白い歯が並ぶ。日本人のまじめさ、誠実さ、そして日本文化は彼らの称賛の的だった。ほんとうに日本は好かれている。その傾向を強めればよいのだ。国際社会に正義などないとうそぶく民族、力だけが頼りの民族には、世界のリーダーとして何が必要なのか、自覚させるべきだ。
国内情勢に対しては、地方議会は一つの役割を果たすことができる。市民の憂いを晴らすために国が為すべきことを、決議または意見書という政策提案として国に提出する、そういう活動がもっとあってよい。欺瞞に覆われた部分、国の政策の至らぬところを、どんどん突いていくべきだ。地方交付税を有難く押し戴くだけが地方ではない。地方議会は中央の政党の地方出張所ではない。地方独自の視点・政策をもつべきだ。
ただ、翻って考えるに、個人の政治意識は低く、活発な提言活動の期待できる地方議会でもない。小さな欺瞞にまみれた地方議員には国家的欺瞞に対抗する壮大さは期待しえないが、問題意識の高い議員が少数ながらいる。そこに期待し、活躍を見守りたい。いつの日か、個人としても政治的に成長するときも来よう。
今は秋。虫の声、涼やかに地に満ちる。(黄鶴)

913日 「欺瞞、天地に満ちる
国内にも欺瞞が満ちる。
アベノミクス成功と、政権をとる政治家は世に伝えながら、その実この3年間GDPは民主党政権時代ほど増えず、消費者物価はふたたびマイナスを目指す。正社員が減って社会は不安定化へと傾斜する。しかしマスコミは積極的にこの事実を記事にする意欲を持たない。知りたいという意欲をもつ一部の市民だけが関連の役所の情報にアクセスして、それを知るのみだ。
安保関連法成立は誰のためか。国民の安全のためと言いながら、実は、アメリカの安全のためのアメリカの戦争に自衛隊が協力する準備だ。何らかの理由で昨年中に急いで成立させる必要があった。しかしなぜ急ぐのかにつき、誰も真実を国民に告げない。アメリカのレイシズムとその発露としてのアジアを戦場とすることにためらいを持たない態度は、歴史が繰り返す法則があるならば、何れ再現されるだろう。国民の目には美しいものしか映さない欺瞞と偽善の行為の奥底に、何かがひそんでいる。
しかし、安倍内閣支持率は今、57%である(NHK)。この高率の数字には今の国際情勢とそれへの当然の対応が寄与する面もあるが、ここに欺瞞を受け入れる国民がいるのがわかる。欺瞞を欺瞞と気付かない層や、気付いてはいるが他よりは悪の程度が軽いとする層、信仰的に自民以外は受け入れない層、さまざまではあるが欺瞞を許容する国民がいる限り、それは犯罪性を帯びた詐欺にはならない。まあ、一蓮托生もよいだろう。だが欺瞞によって国民の目を覆い、本来は永らえるべき国の命運を尽きさせる道を進み、国民全体を巻き添えにするのはたまらない。(黄鶴)

912日 「欺瞞、天地に満ちる
虚偽と欺瞞が世界に満ちる。
その一。アメリカと中国が9月3日、温室効果ガス削減のためのパリ協定を批准したと発表した。世界の2大排出国家が協力して地球温暖化防止に当たろうというものだが、内容を伴わない演出でしかない。アメリカにとっては任期を終える大統領の実績作り、中国にとってはG20を成功と見せかけ、そのG20の場において大国として行動したことを中国国内向けに喧伝し、もって党の威信を維持するための茶番である。両国がこれまで温暖化防止のために何をやってきたか。何もない。ひたすらその種のガスを排出し続けてきた。これから何をやろうとしているか。パリ協定案をよく読めば、中国は削減目標ではなく増加限界目標を設定した内容で、2030年まで排出量を増やし続けることができるようになっている。温室効果ガス排出を増加させながら世界に向けて削減を謳う、これを何と評すべきか。
その二。南シナ海の島や浅瀬が埋め立てられ、軍事基地化が進んでいる。第二次大戦後、日本が管理を放棄した後、中国が占領支配した場所、あるいは近年になって軍事紛争によりベトナムやフィリピンから奪い取った場所だ。これらを中国は「古来中国の領土」だったと称し、軍事基地化しないという発言に反して軍用機の離着陸を繰り返した。
その三。北朝鮮はこれまでミサイル発射や核実験を重ねている。これに対して国連は経済制裁を課すことにして加盟各国にそれを要請している。しかし中国は実態としてはこの決議に従わず、裏で北朝鮮との貿易を続け、北朝鮮の国力維持を図っている。制裁という名の放置がまかり通っているのだ。アメリカも警告を発し続けるも放任したまま年月を重ね、北朝鮮の核技術の進展を許している。国連決議の実効性はどこにあるのか。何のための決議か。
こうした世界の欺瞞を私たちはどうとらえればいいのだろうか。これらに対して私たちはどう行動すればいいのだろうか。我欲のみを行動原理とし正義を顧みない国に対し、何をすべきなのだろうか。それらは決して遠い世界の物語ではない。日本の安全保障、そして私たちの生活に直ちに影響することばかりなのだ。にもかかわらず、一市民としては壁の前の蟻のごとく、これを仰いで呆然とするしかないのだろうか。(黄鶴)

97日 「まがいもの」
蓮舫さんに「まがいもの」と呼ばれた集団の頭が怒っている。自分たちはまがいものではない、本物の革新政党だと。
私は、蓮舫さんの見方あるいは表現は間違っていると思う。「まがいもの」とは、大言海には「目交いもの」という語源も書いてあるが、一見すると本物そっくりに見えるが本物ではないものを言う。だがその集団は一見して本物とは似ても似つかぬものである。「まがいもの」と言うのは正確ではない。
頭は、身を切る改革のための法案を10本出すと咆哮する。我こそ本物、民進党こそまがいもの、民進党は改革の実現に非協力的だとも。
だがしかし、歳費2割削減などの法案を出すだけで、10本というその数だけで政党の価値を云々できるのか。提出予定の他の法案が今の日本にどの程度のインパクトを与えるものか、体系的に知りたいけれどもHPには政策の紹介が何もない。代表や副代表のスケジュールや断片的なお知らせがあるだけだ。法案の内容推して知るべし。そうそう、彼らは、教育の心髄も考えず塾代助成などを提唱する集団でもあった。
また本物の改革政党と言うが、大阪でどのような改革がなされたか。本当に身を切ったか。切ったのは他党であって自分ではない。破壊したのは文化であって悪弊ではない。実のある改革、身を切る改革というが、身(自分自身)のある改革、実を切る改革の間違いではないか。集団所属府議市議のすべての議員の報酬を半減して供託し、政務活動費の全額を返納するならば、私も見方を変えるが、そういう動きはない。自分の身を切るつもりがないのは明らかだ。
本物の政党ならば、今の日本に何が必要なのかを考え抜いた政策を示すべきだ。改革とは何なのか、社会構造のどの部分にどのような手順で切り込むべきなのか、国民を考えさせる政策も深い信条も示さず、改憲をめざす自民政権に利用されるだけの集団はまがいものと言われてもしかたがないと私は思う。
ともかく、日本の中心から見るとそのレベルの集団なのだ。ただ、そのレベルの民衆なればそのレベルの集団を支持するのも自然なことであろう。(空)

9月6日 「議会用語の翻訳」
9月議会が始まった。市のHPには今回の議会に提出された案件の概要が掲載されている。しかし、それだけを見て、いったい市民の誰が案件の内容を理解し、是非を唱えることができるのだろうか。たとえば、「付議事項の主要内容」P10、「9月補正予算主要内容」のうち子ども未来部・児童福祉総務管理に、「167,610千円 損害金請求事件の調停に係る解決金」とある。これは何なのか。市民1人当たり500円の税金を使う必要が、なぜ発生したのか、支出することが正しいのか、さっぱり分からない。また資料の体裁も用語も、お役所言葉を知らない市民には難しいのだ。やさしい言葉で解説してほしい。
市民が疑問を持つとき、そこに議員の出番が生じる。①市政の方向・具体的内容を、役所用語ではなく易しい言葉に翻訳したうえで市民に伝え、②そのときの市民の反応・声を集めて議会に送り、市政に織り込む。そして、③議会で決まったこと、決める過程での自分の活動の状況をあらためて市民に伝える。それが議員の仕事だと思う。
そういう眼で議員のHPを見た。まず、民進党中浜議員・橋本議員、共産党中村・宮本・強田・出町議員を除き、議会報告だけを記したページがない。大方の議員のHP構成は、プロフィールや政治信条、ブログ、実績、後援会の紹介に終わり、これから議会で何が議論されようとしているか、議論されたかにつき特にページを設けていない。上記各議員についても市政報告のページはあれど不十分である。中浜議員のHPのみが議決事項について易しく伝えようとする姿勢があるが、それ以外は③の段階で自分が何を主張したかという要素を多分に含む内容である。これから審議されるものの紹介は、どの議員もやっていない。
議員個人のHPであるから、その活動状況をアピールするのも当然だろう。むしろそれが目的でHPを開設してあるのかもしれない。それもよいが、市はこれから何をしようとするのかも、市民としては知りたい。市自身がそれをわかりやすく説明するのは期待できないので、その役割を議員に果たしてもらいたいのだ。議会開始前の今の段階では議員も提出案件の内容を知らない?いや、あらかじめ市の担当部局から内容の説明を受けているのでは?質疑・質問の準備で忙しいのかもしれないが、だとしても、主役は市民であって議員はパイプなのだという自覚は忘れないでほしい。(空)

831日 「中国残留日本人 傷は今なお」
過日、JR摂津富田駅前で道行く人にチラシが配られていた。題は『中国「残留日本人」松倉さんを招いて』。どうやら「下田部健康を守る会」が戦争を語り継ぐ例会をもち、その3回目の催しとして、残留孤児だった松倉秀子さん、その娘さんの韓静(ハン ジン)さんの話を聞く会を企画されたようだ。
チラシには大体のことが書いてある。松倉さんは終戦時2歳。病気の実母が中国人の養父母に松倉さんを預け、その後は養父母に大事に育てられたこと、1982年に養母が亡くなってから自分の日本人としてのアイデンティティ捜しに着手し、89年に中国人の夫の韓さん、お子さん二人と共に日本に永住帰国を果たし、しかし日本語のわからないご家族に苦難の道が待っていたこと、今も地元尼崎の夜間中学に通っておられること。そして娘さんの韓静さんは、来日当時若かったこともあって比較的早く日本語を身につけ、いまは経験を活かして尼崎市の支援・相談員として永住帰国者のケアに当たっておられること…。
今も鮮明に覚えている。1980年代、中国残留孤児の日本訪問や係累探しが始まった。マスコミは大々的に報道していた。しかし回を重ねるにつれて親戚縁者を名乗り出る人は少なくなり、遂には途絶えた。そしてこの試みは打ち切られた。このニュースに、「名乗り出られない事情のある人もいるのではないか」と、中支を転戦したことのある元陸軍予備士官のある人はつぶやいていた。つらい戦争の被害者が、いろんな形であちこちに残っていることに胸が痛んだ。
いま、マスコミは騒がない。それとともに、私たちの心の中でも、あれはもう過去の話としていたような気がする。ところが、とんでもない。その問題は現にあるのだ。癒されることのない傷を負った人がいて、それに無関心な日本人が、無関心であることを暴力にしてその傷をさらに深めているのだ。
8月28日に開かれた会には、残念ながら行けなかった。しかし、高槻市内でこのような会が催されることには強い共感を覚えた。市民が自主的にこういう会を運営している、何とすばらしいことか。あの事実を忘れないで生きてゆく、私には当面それくらいのことしかできないが、松倉さん親子には、そして妻子のために他国に渡ってきた度量の大きい夫の韓さんも、どうぞ日本で幸せな日々を送って欲しいと願うとともに、戦争の傷跡はできるだけ長く、頻繁に、語り継いで行ってほしいと希望する。(黄鶴)

829日 「擦りガラスの選挙管理委員会」
選挙管理委員会とは何をするところか。地方自治法第186条には、「…当該普通地方公共団体が処理する選挙に関する事務及びこれに関係のある事務を管理する」と書いてある。
しかし、これでは何のことやらさっぱり分からない。別の法律を覗いてみよう。公職選挙法第6条 には、「…選挙管理委員会は、選挙が公明かつ適正に行われるように、常にあらゆる機会を通じて選挙人の政治常識の向上に努めるとともに、特に選挙に際しては投票の方法、選挙違反その他選挙に関し必要と認める事項を選挙人に周知させなければならない。2  …選挙管理委員会は、選挙の結果を選挙人に対して速やかに知らせるように努めなければならない。…などと書いてある。こちらの方がより具体的で分かりやすい。
そもそも「管理」とは、行政用語としては、所掌の事務を企画し、実行し、総体的にコントロールし、作業を完成させて目的とする状態を作り出すことである。選挙に関して必要となる諸々の事務を処理するだけではない。公職選挙法の精神が街中に体現されなければ、「管理」したとは言えないのだ。ちなみに「監理」もある。こちらは法律を所管し何かの業界を監督する事務がある場合に用いる。役人は、皿カン、竹カンと区別する。
上記公職選挙法第6条は、選挙に際しての動的な活動と共に平常時の静的な活動も選挙管理委員会の任務として謳っている。では、高槻市の選挙管理委員会はどうか。
「あらゆる機会を通じて」…事務所用看板の証票を交付する機会に、看板等が一つの事務所に2枚までとか正しく使用されるように指導しているのだろうが、実際に事務所として使われている建物に置かれていることを現地で見て、法が守られているか否か確認する、そこまですべきではないか。
「選挙人の政治常識の向上に努める」…違法状態の放置は許されない。違法看板が多く職員は人手不足で法の執行状況の確認ができないなど、言い訳にもならない。街にあふれる違法看板が撤去されなければ、正しい政治常識は育たない。看板はどこに掲げるべきか、誤った使い方をした者はどのような罪になるのか、市のHPに掲載して周知を図るべきだ。
選挙管理委員会の仕事は選挙のときだけという誤解は当の委員会にはないと思うが、公的機関が、明るさはあるが外の現実が何も見えない擦りガラス状態では困るのだ。
先日の、www.yu.kimoto.jp とのURLが書かれた赤い看板は、25日にその前を通ったときは猶も掲げられていた。この看板は、この議員はHPも作って熱心に活動しているのだなぁという誤まった印象を見る人に与える。ちなみに、このURLは今日も検索にヒットしない。HPは、まだのようだ。議員報酬などについての政見を早く読みたいものだ。誤まった印象を与え続け市民をミスリードする看板は、違法ではないが不法な存在だ。(黄鶴)

826日 「大阪市立中学が進学実績を」
維新の愚政がまたひとつ増える。大阪市内の浪速区を除く23区で、選択制公立中学(これ自体も問題だが)の来年度分学校案内に高校への進学実績を掲載するようになった。ただ、掲載内容は23区のうち17区は進学高校と人数、6区は進学高校だけで、若干の違いがある。
高校進学先を明示した中学校案内を見て、小6の子をもつ親はどう思うか。容易に想像がつく。子どもの能力はさておき、『この中学は有名高校に多数を送っている、きっと教え方がええのやろ、こっちにしよ…』。幸か不幸か、愚政を支持する愚民がいる。そうして中学の序列化、階層化が進む。すべての生徒に輝きを与えたいと願う現場の教師の努力は踏みにじられる。
中学生に何が必要か。勉強も大事だがそれがすべてではない。月並みな言い方だが真理は平凡な言葉の中にこそある。思い返せば、私自身、勉強の成績は悪くなかった。英語・数学・理科・国語など、学科で対等の成績をあげる競争相手は希だった。授業は最初の5分で内容を理解したあとは、教師のまどろっこしい説明が嫌で教科書の別のページを読んだりしたが、多くの教師はそんな不遜な態度を容認した。しかし、実社会に出てみれば学業成績などに何の意味もなく、必要なのは、分け隔てなく人を愛し敬い、人を支え導く真心・能力であり、時代を見抜き必要な対策を準備する才能であり、必要な時に必要なことを主張する勇気と弁才であることを思い知った。それらは生まれつきもあろうが、幼いころからの訓導も必要なのだ。ともかく、学業成績だけがすべてではない。なのに、それがすべてであるかのような学校案内を作らせるのは誤りだ。人とは何か、社会を構成するうえで人として何が必要かにつき、維新府政・市政は深い考えを持っていないことが、この政策に露呈している。
この政策を推進する際、区長が大きな役割を果たしている。平野区では反対もあったものの区長判断で進学高校名と人数を掲載することに決めた。区長に教育の何が解っているのか。行政担当者に教育は任せられない。その逆も然りだが。
障がいのない人ある人、豊かな人それほどでもない人、老若男女、いろんな人がいて、その中で和を保ち、みんなが幸せに暮らすべきであるのがこの世だ。中学の序列化はそれを破壊するものだ。「公立中の進学指導は進学実績を上げることが目的ではない」「義務教育にそぐわない」と反対する中学校長がいることが、まだしもの救いである。(黄鶴)注:本稿は8月25日付け毎日新聞朝刊に拠った。

824日 「維新の党名変更」
「おおさか維新の会」が「日本維新の会」に党名を変更した。大阪地区だけに偏った政党ではないから、ということらしい。
確かにネーミングは重要だ。実体を正確に表すためにも、実体以上に良い印象を与えるためにも、役所も会社も政策や商品に良い名前を付けようと知恵を絞る。
だがこの集団に限っては、重要なのは党名変更ではない。党名を変えたからと言って大阪兵庫以外の地で受け入れられるものでもない。変更すべきは彼らの政治哲学だ。今の世の中に何が必要か、現実を全体的に俯瞰し、その中に問題点を見出し、優先順位を付して解決を図る、それが政策というものなのに、彼らは塾代補助に見られるように、教育界全体を公正にバランスよく見るのではなく一局面だけに注目し分析を加えることもなく大衆受けをねらってこれを政策としている。そして我が身の浮揚を図る。長期的な広い視野もなく短絡的であり、維新の歩いた後には繕うべき大きなほころびだけが残る。維新を支持する年代・性別階層には、そのほころびは見えていない。教育界の怨嗟の声を聞く機会も持たない。
そして離合集散の歴史を見つめ、その原因は何であったのかを自ら厳しく問い直す姿勢が必要だ。太陽の党と袂を分かち、維新の党を分裂させたのは何であったのか、部外者には見えるが彼らには見えていないようだ。過去を顧みて反省のない集団に将来はない。
この党名変更をマスコミは大々的に報じる。そこまでのニュースヴァリューのある話でもないのに、なぜ大きく報じるのか。それは維新が改憲に肩入れする集団だから、自民官邸が改憲までは大事に扱う、そのことを忖度してのマスコミの扱いなのだ。維新による間違った政治を進めることに、マスコミも加担している。(黄鶴)

822日 「事務所でもないのに看板が
リオの聖火が消えた。変わらぬ時の流れの中で、華やかな祭が終わり、自然色の現実に戻る。
議員の看板やポスターについてだが、現実を見ると必ずしも法の定めるとおりとはなっていないようだ。
そもそも、選挙期間ではない今、どのような看板やポスターが街に掲示できるのか。公職選挙法を覗くと、同法第143条16項1号に『議員または後援団体が政治活動のために使用する事務所において掲示する立札または看板』、同項2号に『板などで裏打ちされていないポスター』であれば掲示できる、となっている。ほかにも、演説会場内のポスター等が法律で許されている。
ただ、高槻市選挙管理委員会のHPを見てもこのあたりの詳しい説明は見当たらない。法の精神を周知徹底させるためには、HPにわかりやすい説明を載せたらどうか。市民は詳しいことを知らないので、事務所用看板濫用という違法状態を放置する結果を招いている。
事務所用の看板に関する違反は、一般論ながら、まず、事務所用の看板ではないのにそうだと偽って選挙管理委員会の承認を得た場合、詐欺罪を構成する疑いがある。刑法第246条は『人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する』と規定する。
選挙管理委員会発行の証票をコピーするなどして不正使用した場合、刑法第155条の公文書偽造罪となる。懲役1年以上10年以下の罪だ。
事務所以外の場所に事務所用として承認された看板を置いたとき、公職選挙法第147条により選挙管理委員会等は警察に通報の上、これを撤去させることができる。看板を置いた者は公職選挙法第243条第4号により2年以下の禁錮または50万円以下の罰金となる。同条第5号の2は、第147条の規定による撤去処分に従わなかった者も同じ罰を受けると定める。そして、同法第252条により、禁錮刑の場合は刑の執行後5年間、罰金刑の場合は判決確定後5年間、選挙権と被選挙権が停止される。
また、自分ではやらないにしても事務所以外の場所に事務所用の看板を置こうと相談して他人に実行させた場合、共同正犯として同じ罰を受ける(刑法第60条)。他人をして事務所用看板を事務所以外の場所に置かしめた者も、教唆犯として同じ処罰を受ける(刑法第61条)。
以上の罰則等は、法律にこう書いてあると紹介しただけであり、特定の人物または団体に対する意見や忠告ではない。念のため。なお、事務所用看板に誤記があったとしても、具体的事情にもよるが、罪を問うには当たらないと考える。看板を作成した本人の資質が問われるだけだろう。(空)

821日 「虚偽URL?」
こんなの、ありか?誰に何を怒るべきか、私は四方八方に爆発する寸前のガスタンク状態になった。
一昨日、「白雲」子がURL付きの木本祐議員の看板を見かけた。ところが、
www.yu.kimoto.jp
このURLはヒットしない。検索しても、
「このサイトにアクセスできません/www.yu.kimoto.jp のサーバーの DNS アドレスが見つかりませんでした。/もしかして: http://www.yukimoto.jp/ kimoto jp を Google で検索してください/ERR_NAME_NOT_RESOLVED」
という表示になるだけだ。
そもそも議員名とURL、後援会連絡所の電話番号だけを書いたこの看板は何だ。公職選挙法は事務所の看板や演説会のポスターの掲示は許している。赤地に白ヌキ文字だけの、このプラスチック板は、少なくとも演説会のポスターではない。では事務所の看板か?しかし、この看板のある建物は、一昨日の写真を見る限り外観上はとても事務所と言えるものではない。普通、看板は入口付近に置くが、付近に入口はない。看板の左のドアが入口?いやこれは裏口だろう。郵便受けもないから。しかし、内部は事務所の実体があるのかもしれないので、追及はこの程度にしよう。
問題はURLだ。サイトがない、何の実質もないURLを、さもそれらしく表示することは許されるのか。この看板には選挙管理員会の証票が貼ってあるとの報告もあったので、私は期待してこのURLを検索した。若い人らしくネットも駆使するのだな…、議員報酬を半減しようと言って当選した議員だ、その公約実現のための具体的方策や、報酬の1割を供託する共産党議員のように、木本議員も半額を供託する決意でも書いてあるのか…、種々期待して検索したのだが、このサイトそのものが存在しないのだ。完全に裏切られた。ちなみに、この看板にある後援会連絡所の携帯電話番号は市のHPの議員名簿では本人の連絡先になっている。
選挙管理員会の証票に関して言えば、同委員会はURLの正否までは確認していないようだ。真に事務所に置かれるものかどうかと併せて、そのような甘さでよいのか。
いや、落ち着いて違う観点から考えよう。いまHP作成の作業中で、何らかの理由でそれが遅れて看板の設置の方が先になったのかもしれない。近いうちに吉田章浩議員や三井議員のような熱意のこもったHPに接することができ、木本議員の政治見識、市政の問題点に関する意見などが読めると、将来に期待しよう。
もし芥川町2丁目に16番に事務所の実体がなく、URLが虚偽表示であれば、それは単に虚飾や過剰演出と言うに留まらない。偽計をもって選挙管理委員会に証票を発布させた点において、またこの看板を掲示する間は詐欺行為をもって選挙民に誤解を与えミスリードし続ける点において、単に売名だけを目的にした看板設置という脱法行為に関して、個人としても政治家としても重大な責任を問われることになる。
常識的に何かおかしいと感じる時、それは何らかの犯罪を構成している場合が多い。具体的にどのような罪名罰条になるのか、ならないのか、責任の内容については若干検討を要する。(黄鶴)

819日 「ネット利用状況に追加」
芥川の宿近くを散策中、きもとゆう議員の看板を見かけました。同議員のURLが併記してあります。このことから、同議員も、今まではネット利用なしに分類されていましたが、時期不明ながらも、利用ありの議員の範疇に入ることになります。
ちなみに、この看板のある位置は旧西国街道沿いの芥川町2丁目です。古い町並みですから道祖神もあり、その道祖神の後上方に維新の看板が2種類貼ってあります。ですから、道中の安全を祈って道祖神に手を合わせると、同時に維新の国会議員と市会議員に手を合わせる格好になります。(白雲)

817日 「市会議員の観光旅行」
会派行政視察の概要が市のHPに掲載されている。
ざっと見ると、冬は暖かい沖縄、夏は涼しい青森や北海道が視察先となっている。結構なことだ。公費で観光旅行ができるとは。
いや観光ではない、議員としての活動の参考にするのだとのたまいける声が聞こえそうだが、ではどのように参考にするのか、どう活かすのか、公約実現の手段としてどう位置づけられるのか、なぜその都市でなければならなかったのか、そこは先進都市なのか、きちんとした説明を聞いてみたいものだ。議員のHPで行政視察は良い勉強になったと書かれているものもあるが、単に個人的な資質向上に役立っただけならば、自費で行くべき話だ。公費を使うならば市民のためになったという成果を示すべきだ。過去の行政視察がどのように市民に役立ったか(役立っていないか)は、既に証明済みだ(5 公金の使いみち 第二部 …会派行政視察の是非…)。議員の資質向上は市の財産増大を意味する、だから寛大に…?市民のためになって初めて市の財産だ。黙って議席に座っているだけの議員は市民にとって意義のある存在ではない。毎年税収が増える右肩上がりの時代でもない。だから、寛大になれる余裕もない。
今後もこの愚かな出張は続くのかと思うと、市民税を払うのが本当にバカバカしくなる。また、他市からも同種の視察を受け入れていることから察するに愚行は全国に及ぶようで、もう言葉もない。何も知らない市民は幸せだ。もっとも、行政視察に行くことを市民は事前に知る術を持たない。事前に本会議での議決を要するが、その議案の内容は傍聴者にはわからない。帰った後に市のHPに「会派行政視察の概要(○月分)を掲載しました」とHPに載る。このとき初めて市民はその行先や目的を知る。本会議で視察案が否決された例もない。議員の特権、これを異常だと口にする議員は今はいないのか。(空)

816日 「朗読劇 『還らざる一機』」
60分間、私たちは75年前のハワイの小島、ニイハウ島に誘われた。そしてそこで起こった悲劇を眼前に見た。
朗読劇は、舞台上の読み手だけに照明を当てる。照明は物語の展開に合わせて海の夜光虫や燃える零戦を暗示する色になっていくが、基本的には読み手の座る場所以外は闇となる。その闇の中に、朗読は75年前のできごとをありありと浮かび上がらせ、登場人物たちの思いを展開させた。そして会場いっぱいになった聴衆に迫った。
物語は、戦後まで生き残った牧場主の妻の回想を通じて進んでいく。真珠湾第二次攻撃隊の護衛戦闘機の1機がハワイの小島に不時着した。負傷していたその若いパイロットを島に住む日系二世の牧場主が保護した。翌々日未明、パイロットはカウアイ島から駆け付けた米海兵隊との銃撃戦により愛機の傍で戦死し、牧場主もこれに巻き込まれて死ぬ。二人の出会いからそれまでの短いながらも深い交流の中で、ハワイ移民一世の味わった白人による人種差別などの苦労や日本から捨てられたという思い、戦争ゆえに分断された日本人と日系米人、日系牧場主夫妻の祖国日本への思い、戦争によって押しつぶされる若い命の悲しみなど、さまざまなことが凝縮され、現代の私たちに伝えられる。
人に歴史あり。昭和十年代の初め、今治出身の若者は軍人教育を受け、21歳にして海軍一飛曹として故郷を遠く離れて戦死した。日系二世の牧場主は、たまたま日本機が不時着したことから、パイロットを守ろうとして命を落とし、家族も国家反逆罪で終戦まで囚われの身となった。人に歴史あり。そして歴史に人あり。時代時代の波の中で、人は我が身を燃焼させて苦しみ悲しみ諸共に消えて行った。
朗読劇は先日、高槻市立生涯学習センターで開かれていた「戦争と平和展in 高槻・島本」の一環として市民レベルで開催されたものだ。出演は市内在住の俳優のお二方。題は「還らざる一機」。実際にあった話らしい。
ところで、この朗読劇は演じる方も主催者もボランティアの市民。市民レベルでこれだけのことが企画できて多くの人が集まる。高槻はなんという文化都市だろうか…と、ふと思った。そして、同時に思い浮かべたのが市議会本会議の一般質問だ。一般質問の議員は原稿を読み、答弁に立つ市の理事も原稿を読む。いわば朗読劇だ。しかし、あれもこれも朗読劇ながら、そのレベルの差はどうだろう。議員にうまく読めとは言わない。聞く人を引きずり込むテーマの設定・内容にしてほしいのだ。内容が市民にとって重要ならば、語り口も自然に迫力を帯びるはずだ。(黄鶴)

815日 「邪と正と 尖閣にて」
尖閣に来襲した中国漁船230隻のうちの1隻が8月11日早朝、ギリシャ船籍の大型貨物船(約10万トン)と衝突し、沈没した。場所は尖閣の西方、接続水域を出てすぐの公海上だ。ギリシャ貨物船は直ちに遭難通信を発し、これを受けた日本の海上保安庁が巡視船を派遣、中国漁船の乗組員6名を救助した。
このニュースを聞いて、不思議の感にとらわれた。日本の接続水域や領海に侵入を繰り返す中国公船は何をしていたのか。遭難通信はどの船でも受信できる。と言うか、条約により一定の大きさ以上の船は遭難通信を受信する機器を必ず設置しなければならないことになっている。だから、中国公船の誰も遭難通信を聞いていなかったか、通信士が聞いてもこれを無視したか、それとも公船の幹部や全体の指揮者に救助の意志がなかったか、救助の意志はあっても能力がなく及ばなかったか(写真を見る限り救助のための装備はある)、そのいずれかであろう。ともかく、中国公船は同朋の危難を見捨てた。不法に日本領土を侵略しようとする大船団の邪と人道上の見地からこれを救助した海保の正と、その対比がなんとも面白い。
さらに興味深いのが当初の中国外交部のコメントだ。「関係部門が協力的な姿勢で適切に処理することを希望する」と発表し、中国漁船員が中国公船にではなく日本の海保に救助されたことは伏せた(後に公表)。
「協力的な姿勢で」とは、世界の中心にある中国に周辺国は協力するのが当然という中華思想の表われだ。相互に協力して、とは言わない。「適切に処理する」…、ここが一番面白い。立場を替えて、仮に中国領海が日本漁船に侵犯され、その漁船が事後に公海上で遭難、船員を中国が救助したとしたら、「適切」には処理しない、つまり領海侵犯の当事者として拘束するという意思の表われだ。それが中国人の常識なのだろう。しかし日本は直ちに中国に送り帰す方針を示した。中国とは対処の方法が根本的に違う。
中国のシナリオはこうではなかったか。漁船が沈没した、海保が漁船員を拾い上げ、領海侵犯の実行者として逮捕する、そこで、それを根拠に日本に対して更なる強硬な手段を取る、それによって尖閣占領の戦略を一歩進める…。しかし、そのシナリオは即時送還によって頓挫した。
ふと思い出した。交通事故に遭った子供を放置したことが、中国のどこかになかったか。他人の苦難は他人事。他の船の遭難も、これと同様に助けるには及ばないこと…なのかもしれない。孟子は「人みな忍びざるの心あり」と言ったが、現代中国人にとってそれは古典の中の故事に過ぎなくなったようだ。そして今日は終戦の日。平和を祈念する日であるが、日本だけがそれを願っていてもことは成就しないのが悲しい。(黄鶴)

811日 「尖閣」
1970年代の初め頃、文化大革命の嵐によって疲弊した中国は近代化を迫られていた。このため、敵の敵は味方という論法でソ連(当時)と対立していたアメリカと手を結んだ。また1972年には日中共同声明を出し、日本とも国交正常化の姿勢を明らかにした。これらのねらいは何か。技術導入による経済発展である。鄧小平はこの後に平和友好条約批准書交換のため来日した際、「中国を助けて欲しい」と言った。それに応えて松下幸之助は中国に工場を造った。別途、さまざまな業種の製造工場も日本の技術援助により建設された。
共同声明を受け、日中平和友好条約の締結に向けて両国が動いていた最中、その一方で中国は1978年4月12日、「漁船」の大船団を尖閣諸島の日本領海内に送り込んだ。日本の抗議に対して中国は「これは偶発的なもの。今後は絶対にやらない」と言った。言ったのは鄧小平副主席である。その後、尖閣の話は棚上げにして1978年8月、日中平和友好条約が締結され、戦争状態は終わった。
それから38年後の2016年8月、日本による技術援助の必要がなくなった今、中国は再び大漁船団派遣の挙に出た。1978年の「漁船」来襲は「偶発的」ではなく条約締結に際して日中間に領土問題が存在することをアピールするための行動であり、50年か100年後に尖閣を奪取する戦略の嚆矢であったことが明白だ。「今後は絶対にやらない」と言う言葉が、中国政府の意志による船団派遣であったことを推測させる。「棚上げ」も当面日本を安心させ技術援助を継続させる作戦の一つであったと私は思う。
ともかく、「絶対やらない」はずの漁船団が尖閣に再来した。構成は、230隻の漁船とそれを保護する公船だというが、なに、実態は漁船などではない。軍事的には漁船型哨戒艇と見たほうがよい。機銃座くらいはあってもおかしくない。それが「偶発的」ではなく本音をむき出しにして公船とともに尖閣に押し寄せた。公船も、海警の巡視船だけでなく、海洋観測船まであり、中国が海洋関連部局の総力を挙げて尖閣奪取に本腰を入れていることがわかる。
いままさに、尖閣諸島は中国に略奪されかけている。ただし、アメリカが尖閣を日米安保の対象地域であると明言している今、直ちに軍事的に占領する愚は冒さない。日本の実効支配が巡視船のパトロールによって作られるものなら中国も、と、日本以上の多数の公船を派遣し、平和の仮面をかぶって尖閣実効支配の状態を作り出そうとしている。尖閣という領土問題が日中間にあるのではなく、経済発展によって力をつけた中国が力によって日本領土を奪おうとしていることを正しく世界に伝え、国際世論を喚起したい。 (空)

8月10日 「戦争と平和展 in 高槻・島本」
いわゆる赤紙、太平洋戦争当時の召集令状を初めて見た。そしてそれが20歳に達した際に発布されるものではなく予備役兵に対する召集のためであることを初めて知ったのだが、70年余り前の赤紙を手にしたとき、人が普通の生活から死と隣り合わせの世界に入る、そのあまりの軽さに衝撃を受けた。
沖縄で米軍の自動車に轢殺された、いたいけな少女の写真があった。地に横たわる少女の死体には近所の人の衣服がかけてあり、周囲に無表情の米軍兵士が数人、立っていた。レイシズムの国、アメリカである。彼らにとって、現地人の死など意に介することではないのであろう。この写真にも言葉を失った。
戦争と平和展 in 高槻・島本2016が8月11日まで生涯学習センターで開かれている。内容は、朝鮮半島での戦前の統治の状況、いわゆる慰安婦、沖縄の基地問題、戦争と医学、高槻地下倉庫などに関するパネル展、資料閲覧だが、たかがパネル展と言うなかれ。内容は重い。正直、私は豊かさを謳歌するだけのこれまでの自分に恥ずかしさを覚えた。
この展示会には、特定の政治団体の後押しはない。右でも左でもない、客観的な立場からの歴史事実の展示である。歴史事実には負の面もある。それを見過ごしたまま物事を語るのは間違いだ。私たちには、戦争の実態を知ることがまず重要だ。その上で、平和を守るために何が必要か、どのような手段をもって平和を維持するか、議論すべきだろう。平和を守るという根本的なことに対する明確な考えがなかったら、国は亡ぶ。(黄鶴)

8月09日 「安倍政権を守るのは」
安倍内閣の支持率が53%というNHKニュースが昨日の夕刻(8月8日)、流れた。
本当に正しい数字だろうか。ナマの調査データは誰も知らない。今や公平性・公正性を失って政府の放送局となったNHKの調査だから、疑いをもって見てしまう。ある結論に向けてのリードがなかったか、と。調査というのは、質問の表現ひとつで結果がまったく違うから。
仮に正しい数字だとしたら、別の疑問が湧く。国民は何を根拠に安倍内閣を支持しているのか、と。
いま、尖閣列島に中国船が大挙して押しかけている。安倍内閣はタカ派だが、こうしたことに強硬に対処することを支持し拍手喝采する意味での数字なら、これは危険な兆候である。国民が熱くなって冷静な判断を失うことになる。
アベノミクスの成果を認めた趣旨での数字だとしたら、経済学部出身のYさん、あなたはどうおっしゃるだろうか。金融政策によって円安に導いた、そして産業界の利益拡大を生んだ、そこにアベノミクスの大きな果実を見る…のだろうか。私はそれを疑問に思う。これまで、円安は常に日本の金融政策の効果として現出したものだったか。そのことが歴史的に検証されているのか。それほどの力が日本にあるのか。むしろアメリカの意向による変動のほうが大きいのではないか。円安によりアベノミクス成功の形を与えて安倍自民に国民の信任を与え、そして安倍政権の目指す憲法改正や集団的自衛権行使への道を進ませる…そういう意図がどこかの国にあって、大きな力を背景に安倍政権を援助しているのではないか。そんな気がしてならない。日本が防衛負担能力を強化すれば、経済的にも自国国民の生命を守るという意味でも、助かるのはどの国か…。(空)

808日 「一般質問の端緒」
かえで「なによ、この暑さ!」
御島媼「ほんに。昔はなかったぞよ。たとえ三伏でもな」
かえで「サンプクって?」
御島媼「夏の土用じゃ。暑さしのぎは伏せる、つまり昼寝しかない。土用を三つに分けて初伏・中伏・末伏、合わせて三伏。池冷たくして水に三伏の夏なし」
かえで「あ、和漢朗詠集にあったね」
御島媼「ところで何じゃ」
かえで「本会議の録画映像を見たのよ」
御島媼「いつの?」
かえで「今年の6月議会の一般質問」
御島媼「ほぉ。で、何か言いたいことがあって来たのじゃな?」
かえで「そ!そのとおり」
御島媼「はいはい。続けなされ」
かえで「一つは一般論としてね、もう一つは高木議員の質問の、小学校とかの国旗掲揚の話」
御島媼「一般論として、と言われても、何のことやら」
かえで「初めの時間帯で、ある議員がパワハラ防止について質問したの」
御島媼「クワバラならわかるが、パワハラ?」
かえで「地位をかさに部下をいじめることよ」
御島媼「そんなの2千年前の弥生時代からあったぞよ。人間社会に権力関係が生まれて以来、ずっとじゃ。それが今の市役所にあるのか!何か問題が起こったから質問に立ったのか。ほぉ、立派な議員じゃの」
かえで「いえ、そうじゃないのよ。具体的に問題化したとは、どう聞いても言ってなくて」
御島媼「何回でも聞き直せるから、助かるのぉ」
かえで「質問者も答弁も、パワハラがあると聞いている、くらいの話なのよ。それを原因とした休職者もいなくて」
御島媼「具体的な問題ではない?では質問で取り上げることもないではないか」
かえで「そこなのよ。緊急の課題ではなくても近い将来に問題になるのが明らか、と言うならまだしも、何も問題がないのに一般質問のテーマにする、これが私には理解できなくてね」
御島媼「そうじゃな。まあ予防策は必要じゃが」
かえで「事実に即した質問でなければ、まさに空論。市内を自分の足で歩いて問題を見つけ、その解決方法を巡って議論する、あるいはね、市民から持ち込まれた行政相談をもとに質問する、そんなふうに事実を端緒に一般質問をするのでなければ、質問の意味がないわよね」
御島媼「…」
かえで「ママ!寝ないでよ」
御島媼「聞いておる」
かえで「それからね、高木議員の質問、よかった~」
御島媼「そなたは高木びいきじゃな」
かえで「ううん、決してそうじゃない。正しいことは正しいのよ。そういう意味で」
御島媼「で?」
かえで「最近、小学校でも日の丸が掲揚されているの」
御島媼「ああ、上空を飛んでいると、見えるなぁ。毎日運動会でもないし、何じゃろなと思っておった」
かえで「高木議員が、なぜ急に国旗を掲揚することになったのか、質問したら…」
御島媼「ふむ。なんと?」
かえで「公共施設として横並びで掲揚することにしたと。」
御島媼「くっくっく。まるで答になっていない。まあ安倍自民政府に維新の大阪府知事。何となく想像はできるな。いつじゃったか、府から言われた何かのアンケートも無条件に受け入れた高槻市教委じゃ。確かどこかの市はあのアンケートを断った…」
かえで「何かの議論があったのかと思ったけれど、何も議論らしい議論はなかったみたい。今まで揚げてこなかったのも高槻教育の一つの側面だったのかもしれないし、そこを再確認するのも必要なのにね。それで、今は、市教委と契約した警備業者が掲揚してるのよね」
御島媼「それはそれで問題じゃな。国旗の尊厳を冒しておらぬか」
かえで「ママ、右翼?」
御島媼「右翼ではないが、どの国の学校でももう少し丁寧に扱っておる。教室には国旗があるし先生が校庭のポールに国旗を揚げる時は周りの子供も遊びを止めたり。それが日本では警備員が?それを毎日見る子どもはどう思うじゃろか。国旗と言えば、ああ、警備員のおじさんが無造作に揚げるもの…。国旗に対する礼を失うのはその国の人々に対する礼を失うことじゃぞ。心せねばならぬ」
かえで「教師が揚げたら問題視されるから、そうしたのかな?揚げないと府に睨まれるし」
御島媼「さあな」
かえで「ともかくね、まともな答弁はなくても、議員の質問によって問題をくっきりと浮き彫りにできるのね!国旗を揚げない自由も尊重すべき、という引用にも感動したわ」
御島媼「具体的な問題を取り上げて質問したのじゃな」
かえで「そう。これこそ質問の在るべき姿よ。それでね、質問が終わったら、拍手や何かの声が録画に入っていてね、議長が静粛にって注意して。珍しい光景だった」
御島媼「傍聴席から?」
かえで「のような感じ。」
御島媼「議論によって認識も深まるのになぁ。考える機会をまた一つ失ったなぁ、高槻市民は」
かえで「そうよ。考える人が少なすぎる。それにしても、ああ、暑い!空気が軽いと飛びにくいわね」
御島媼「上昇気流に乗ればよい。そぉれ!」

805日 「遠い風景公約」
本年6月議会の一般質問を振り返る。質問に立った議員は14人(15名予告のところ1名は取りやめ)。27項目だった。そのうち何名・何項目が公約に沿ったものだったかを白雲子に調べてもらったところ、11名、20項目の質問が、1年余り前の選挙に掲げられた公約の実現のための質問だったことがわかった。ただし、公約に沿うかどうかは白雲子の独断によるものであり、本人の弁によると牽強付会というか少しでも公約に近い匂いがあれば〇印とし、北岡議員は市役所の不正と戦うのが公約であるので同議員の質問はすべて公約追求そのものとした、ということだった。
この数字だけ見れば、高槻市議会の議員は1年を経た今も市民との約束を忘れず公約実現のためにがんばっているのだなと思える。しかし、「2市議会という舞台で 第二部 …公約を果たそうとする姿勢」の表を見ると空欄が目立つ。賑やかなのは共産党と無所属銀で、他の会派はチラホラ。市民連合に至っては全くの白紙状態である。
質問が空欄の議員は、一般質問という絶好の機会を使わず、いつ公約の実現を図るのか。公約など4年に一度のお祭り騒ぎの御囃子に過ぎないようだ。今の質問状況を通じて公約を振り返れば、そらぞらしさだけが視界に入る。身を切る改革、実のある改革と言ったまま、明確な行動が見えない。それで市民の期待に応えたことになるのか。(黄鶴)

803日 「議員のブログ」
高槻市議会議員のブログを読んで思う。やはり「文は人なり」と。市政に関し、国政に関し、思いの丈を綴った読み応えのあるものもあれば、そうでないものもある。ブログから人としての性向、議員としての資質、そのほかいろんなものがよくわかる。だからこそ議員によれば馬脚を現すのを恐れてHPを作らないのだろう。議会での質問の内容などによっても議員のレベルは明らかになるのであるが、傍聴に行く人は少なく、その実態が市民の前にさらされることはない。HPを作れば、せっかく隠したものを自ら露わにすることになる。そういえば、この拙文にも私自身のすべてが現われているのであろう。それでよい。自分は自分だ。実体以上のものに見せようと飾る必要もないし卑下することもない。自分にできることを精いっぱい、この世でやれば、それでよい。ただし、自分にできることの範囲を広げる努力は不可欠だ。その拡大の過程に一番の面白味がある。
ブログ総数の推移を見ると、議会のある月とその翌月にブログが多いことに気付く。やはり議会あればこその議員なのだ。その議会で何もせず座っているだけの議員は、どこに存在意義があるのだろうか。白雲子は、データを見せれば解る人には解るとおっしゃるが、世の中は言わなくても解る人は絶対少数で、言われなければ解らない人や、言っても解らない人が大多数なのだ。だから私は言う。ダメ議員はダメ議員だと。それを市民に知らしめるべきだと。(黄鶴)

802日 「インターネット利用状況 20167月末」
高槻市議会議員のインターネット利用状況を調べ、「3 説明責任の果たし方」を更新しました。
熱心に利用する議員もいれば見向きもしない人もいる、その状況は全く変わりません。翌月からは、変化があるようなら報告することにして、特に変化のない場合は報告を省略することにします。
ブログ数の毎月の総数は次のとおりです。(白雲)

801日 「消えた5兆円」
自分の金を元手に、こんなバカなことをするだろうか。国民の金は自分の金ではない、だから国の5兆円が消えても自分の懐は痛まない、株価を上げるためならどんどん使え…。GPIFの損失のことだ。
参院選後の7月29日に発表されたところでは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が2015年度に5兆3千億円の損失を出した。
GPIFは2014年10月に運用額に占める株式の比率を引き上げることを発表し、これを機に13年5月以来16000円から13000円の間を昇降していた日経平均株価は上昇を始め、15年8月には20000円を超えた。しかしその後は中国ショックなどで日本の株価は下がり始め、GPIFは日本の株式で3兆5千億円の損失を出した。これに外国の株式などの損失を合計すれば上記の数字になる。一方で外国人は、財務省統計によれば15年4月5日から16年4月2日までの約1年間で国内株式市場で6兆9372億円を売り越している。
安倍自民政府は、株価上昇だけを目的に国民の貯めた金を株式市場に注ぎ込んだ。買いが増えた。アベノミクスの成果ではなくこれによって株価は上がった。くどいようだが、その時買ったのがGPIFで、上がった株を売って儲けたのが外国人だ。GPIFの損失が外国人の利益になった。いくら売っても、価格維持のためにGPIFが買ってくれるから外国人は安心して売った。売った結果株価が下がれば高値に戻るのを待ち、待っては売った。日本の株式市場は外国人には天国だ。
官邸筋は、今回のGPIFの損失が年金支給額の減少につながることはないと強調する。だが、そうやってGPIFをかばうこと自体、株式市場への資金投入がGPIFの意思ではなく官邸筋の意思だったことを露わにする。今直ちに年金支給額の減少はなくても、損は損だ。いつかはその影響が現われる。
この先どうなるのだろう。GPIFが売りに回るとすると株価は下がる。そこでさらに売ったら損失が膨らむだけだ。先行きは暗い。NISAとかで踊らされた個人株主はどうしているのだろうか。もう撤退の時機は逸している。(黄鶴)

729日 「28兆円の誤り」
1号活字が新聞の1面に踊る。「経済対策28兆円」と。
財投やら何やら合計して大きく見せかけた28兆円なのだが、だいたい、今の時点で経済対策を打たねばならないこと自体がアベノミクスの行きづまりを意味している。あれは間違いでした、もう賞味期限切れです、そう自白しているようなものだが、その認識は自民党にあるのだろうか。
水に溺れている者は浮力を得られないまま無駄に手足を動かし、そのために疲労を増して死を早める。今の政策はそれに似ている。間違いに間違いを重ね、日本経済の破壊の日を手繰り寄せているのだが、弊害がすぐには見えないため間違いに気付かず、その方策(もはや政策ではない)を進める政治家、何も知らないままそれを支持する国民に、何と愚者が多いことか。
何が間違いか。経済対策と称して赤字国債を発行しそれを財源に何らかの事業を行う、その方法が古すぎる。昔はたしかに、国が例えば100億円の事業を企画すれば、民間はそれに関係する設備投資を行ったりして合わせて150億円、200億円という経済効果があった。しかし、いま、こういう弾性的な波及効果はない。経済効果は乏しく、国債発行の重荷だけが残る。そもそも、日本はどこまで赤字国債発行を呑みこむ余裕があるのだろうか。日本人の金融資産は平成28年第一四半期で1706兆円、国と地方合わせた借金は平成27年度末で1041兆円。まだ600兆円の余裕があるではないかと見るのはとんでもない間違い。1706兆円と1041兆円の間のどこかに臨界点がある。そろそろか…。負担できなくなったとき、崩壊が始まる。
次に、住民税非課税世帯に給付金を与えるという政策が間違いだ。近年、1万5千円だとか3万円だとか目に付くが、刺身や牛肉を食うのが少々増えたとて何になる。これまでのばらまきに今回の給付金を合計すると7千億円を超えるのではないか。その金を次世代技術開発にあてていたら、日本産業の国際競争力はもっと強化されていたのではないか。産業の活性化→仕事が増える→収入が増える、税収も増える…となったら良いことずくめなのに、将来の日本の国力を増すことよりも今の衣食を補うことの方が嬉しいらしい。日本人も地に落ちた。子どものために粗衣粗食に甘んじた一世代前の方々、命を捨てて新生日本のために尽くした方々に、本当に申し訳ないのだ。(黄鶴)

728日 「新人議員の政活費使用額」
基礎資料中、2011~2014年度の政務活動費の議員別費目別使用状況が未整理でしたので、整理しておきました。このデータの中から新人議員における使用総額の推移をピックアップしてみると、一つの傾向が浮かび上がってきました。なお、ここでは共用費の1人当たり使用額を加え、2011年度は11か月使用額を12か月分に換算しています。
初年度、全議員平均を上回る新人はわずか2名でしたが、最終年度になりますと4人が上回る状況で、つまり新人も古参議員も同じような使用状況となっています。なお、年額840,000円を超える部分は自費で支弁されています。(白雲)

727日 「18歳選挙権」
いまさら後戻りはできないが、18歳で選挙権を与えるのは無理があったのではないか。今回の参院選で選挙権を初めて行使した人には自公に投票した人が多かったとの報道があったが、だから言うのではない。18歳の人間の持つ能力に比してその仕事の重さが妥当かどうかということだ。
18歳。多くの人は高校3年生である。大学進学率が6割になろうとする現在では、大半の人が受験・合格を目指して勉強中である。英語の単語や構文を覚え、数学の問題の解き方に慣れ、化学・物理の知識を詰め込む、そんなことで手いっぱいで、とても政治的見識を備える暇はないはずだ。いや、もちろん立派な政治的意見を持つ優秀な人もいるだろう。しかし焦点を当てるべきは、ごく普通の一般的高校3年生だ。勉強に忙しい一般的高校生には政治は無理だ。教育の政治的中立性を強く標榜する日本では、高校の中に現実の政治問題を持ち込むのも困難で、政治的見識を備える暇はないだろう。自公に投票したということは、現状維持を願ったということだろうが、現状にどのような問題が隠れているか、顕在しているか、彼らには見えていないのだ。やはり大学受験を終えていろいろと考える暇を持ったあとのほうが、実社会に出て目の前の現実を通じて政治を考える機会を持ったあとのほうが、選挙権行使の時期としては適正だろう。
18歳で選挙権を与えるのは大人であることの自覚を促すことが目的の制度だとしたら、その意義はわかるが適切に行使されなかった時の弊害が大きすぎる。その弊害が今回の参院選で現われている。何も見えていない高校生に選挙権を与えて自陣営に引き込み、数の内に加えた自公政権の読みの深さには敬服する。改憲のためには何でもありか。
もうひとつ。18歳になれば選挙についてだけは大人で、その他については未成年というのは不安定で困る。ついでに酒もたばこも、すべてについて18歳から大人とすべきだ。昔なら15歳で元服ではないか。(黄鶴)

726日 「ポケモンGOと恕」
子貢問うて曰く「一言にしてもって終身これを行うべきもの有るか」と。子曰く「それ恕か。己の欲せざるところを人に施すこと勿れ」と。
高校時代の漢文の教科書にあった論語の一節である。原文は衛霊公第十五の後半にある。なぜか、17歳の少年の頭にこの一文が素直に入り込み、以来脳中に住み続けている。この漢文の授業の情景も忘れていない。
恕(じょ)とは、思いやり。そうなのだ。友人・近隣関係において、夫婦関係において、そして組織を運営する立場となっても、中心をなすべきはこの心の作用であったことを、人生の終末期に入った今、動かしがたい真理として思い浮かべている。
その対極をなすのがポケモンGOではなかろうか。ゲームは確かに面白いだろう。しかし、はたから見るとプレイヤーは他を忘れ、周りの状況を見ず、自分のゲームの世界に埋没している。キャラクターが出没する公園ともなると、夜となく昼となく子供が集まり、静かな住環境を破壊する。空き缶、空き袋も散らかし放題だ。その地域に住む人々への思いやりなど、どこにもない。注意するべき立場の親も、その子どもたちを監視下には置いていない。他への思いやりを失った現代社会の、そのまた象徴的な自分勝手な姿がここにある。
しかし、悪いのはプレイヤーの子ども達だけではない。公衆道徳を破壊してはばからないゲームメーカーに問題がある。既に外国で販売されていた実績から、このゲームの配信は世間にどのような影響があると予測可能であったはずだ。だからキャラクターの発現場所について十分吟味することもできたはずだ。然るにそれをせず、社会の混乱を招いたとしたら、有罪である。
それに対して、個人は告発の手段を持たない。地域社会の問題の解決は、地方議会にその役割を求められるのではないか。
(黄鶴)

725日 「道半ば」
安倍自民には詩人がいるらしい。言葉の言い換えが実にうまい。挫折したアベノミクスを「道半ば」と言う。道半ばと言えば、まるでこの先にも立派な道が出来ていて、それを進むことは容易であって、進めば将来に希望があるように聞こえる。それを参院選で安倍自民は多用した。
実態はどうか。アベノミクスには成果があり、この先も同じことを続ければ明るい未来が開けるのか。
とんでもない。GDPは増えず、消費者物価指数は上がらず、国民の可処分所得も増えていない。株価は一時期上がったが今は下降の「道半ば」にある。その株価の上昇分も外国人の懐を潤しただけだった。企業の収益は過去最高と言うが、それがどの程度国の財政に還元されたか。波及的経済効果があったか。内部留保に廻っただけだ。金融政策しかなく、実態的な産業政策を伴わないアベノミクスは息切れし、破綻して行き詰まっている。いま、目の前には草木繁茂して行くに前人を見ずといったジャングルしかない。行き暮れて宿もない状態なのである。それを「道半ば」と言い換えた。旧帝国陸軍が敗退した時「転進」と言ったが、それと同じだ。道半ばと自らを慰めるならまだしも、それを国政選挙のキャッチコピーとして国民に誤った幻想を与え、欺き、自公陣営に多くの票を導いた。そして数を背景に何かをしようとしている。これは罪が深い。いずれ経済的な伸び悩みは指標として現われる。国民の疲弊はより明確になる。そのとき責任がとれるのか。
政治家ならば国民に夢を与えて元気づける必要はある。昔の所得倍増計画がそうだった。しかしそのためには、具体的な産業政策としっかりした計画、実行力がなければならない。空疎な言葉だけでは、カラ元気も出ない。ほんとうに、昔のあの産業政策立案の力はどこに行ったのだろうか。日本弱体化のアメリカの戦略の前に膝を屈し続けることを、ひそかに誓っているのだろうか。
百里行く者は九十九里をもって半ばとする。これは日本全国の測量の旅があと少しで終わると喜ぶ部下を諭して言った伊能忠敬の言葉と、子どもの頃に読んだ記憶があるが、元は中国の古典「戦国策」に出てくる言葉である。戦国策では九十九ではなく九十であるが、それはともかく、ここで言う「半ば」とアベノミクスに言う「半ば」とは全く違う。恥を知れと私は言いたい。(黄鶴)

723日 「無道政府」
これは絶対に間違いだ。沖縄の人々の心を踏みにじって、政府は普天間基地の辺野古移転を強行しようとしている。そもそも、戦後ずっと、ヤマトンチュは米軍のため沖縄の広大な土地を提供してきた。そこに沖縄の大きな犠牲が始めからある。加えて米軍人や軍属による犯罪が続発し、ウチナンチュの我慢は限界に達している。その状態での強行だ。これでは沖縄の人々の心は日本から離反する。独立に向けて具体的な作業日程が組まれることになるだろう。それを読めないとは何たる愚鈍な政府か。
心の問題は法律問題ではない。だから法廷に持ち込んでも解決しない。両者和解したと思ったら、政府はまたまた沖縄県を提訴した。心と心を向き合わせることもなく、強引に法で押さえつけられると思っているのか。何たる傲慢さだろうか。沖縄に対する薩摩やヤマトンチュ、アイヌに対する松前藩やシャモの態度は昔からこれだ。いや、安保関連法の昨年の成立過程をみると、国会での少数派に対する数を背景にした態度も同じだ。やがて憲法が同じ道をたどるのだろう。誰がとは言わないが、問題の処理に際していつも、人間というものに対する基本的認識が欠如したまま、高圧的に対処してるような気がする。
一体、誰のための政府だろうか。日本人である(と私は思っているのだが)沖縄の人々を犠牲にして、何が日本政府か。アメリカのためだけの日本政府であることが、これではっきりした。ハワイ、グァム、沖縄と続く米軍の防共ネットワークに参陣し、基地の提供と集団的自衛権行使を通じて米戦略の一翼を担い、日本を犠牲にしてアメリカに奉仕することを絶対的真理とし、そのことによって自らの地位を得ている自民党政府は不要だ。西側陣営に入るなら、従属ではなく対等の立場で同盟を結ぶとか、他に方法があるはずだ。そのために自衛隊を強化する必要があるなら、それもよい。米軍の駐留費を払うよりましだ。

ちなみに、本件に関する昨夜7時のNHKニュースでの扱いは7時13分から2分間だった。ポケモンGOのニュースはこれに続く7時15分から4分間あった。(黄鶴)

722日 「集票装置による害悪」
昨日の「大阪府内党派別得票数の推移」を見て、思う。
まず、昨年の府知事選。事実上、維新候補と反維新候補の一騎打ちであったことを思い出すけれども、府議選における維新・自民の票数の合計が府知事選の維新候補の票数にほぼ等しかったことに驚きを感じる。その維新知事候補に集まった200万票は、参院選比例区維新ではまた元の120万票台に戻っている。このことから、府知事選では維新候補を組織的に支援する何かの大きな動きがあったことと、維新は120万票という安定した票田を保持していることがわかる。
参院選の大阪での投票率は、地方選の45%から7ポイントの上昇を見た。この増えた票はどこに向かったか。一つの大きな流れは公明党の得票を倍増させて参院における議席を維持した。自民・維新がさほど増えない中でのこの動きには、不自然な臭いも感じる。もう一つの流れは民進党に向かって府議選投票数の3倍となる勢いを見せたが、議席獲得には遠く及ばなかった。及ばなかったけれども、ここに安倍自民に対する批判の声を聞くことができる。言い換えれば、安倍政権に対する批判が参院選の投票率を押し上げているのだ。ただそれは十分とは言えない。アベノミクスを打ち破る経済政策を打ち出せなかった民進党の限界が見える。民進党支持者の前には維新の壁がある。維新120万という参院2議席分の票数は、愚政を正す道の遠さを思わせる。
選挙とは何だろうか。有権者の自由意思と政治的信念に基づく投票によって為政者を選ぶこと、という理解は教科書的にすぎる。どうやら世間には会社や業界、労働組合などの集団によって形づくられた集票装置があり、そこでは個人の意思に関わりなく上からの指示指令によって投票先を特定されるもののようだ(そのシステムに乗ることを信念とするなら、それもよいが)。集団はまとまった票を提供し、政権は成功報酬として何らかの利益をその集団に供与する。利益を得た組織、安定を得た政権、そのことだけに限って見れば両者めでたしめでたしだ。しかし、集票装置の設置目的を越え、政権が会社や業界の意図しないことまで企てて国民に災いが及ぶのは問題である。そのとき誰が責任を取るのか。例えば法人税減税のために結集し業界をあげて支援した党が戦争法の成立に躍起になることを、その業界は本当に支持するのか。集票装置の悪用がまかり通るのを、黙って見ているのは辛い。(黄鶴)

721日 「党派別得票数の推移」
昨年の府議選、知事選と2016年7月10日に行われた参院選(選挙区候補者への投票と比例区への投票)について、党派別に大阪府内における得票数を並べてみました。( )内の数字は投票率です。
有権者の立場からみたとき、各選挙において、自分が支持する政党の候補者が自分の選挙区にいるとも限らず、このため選挙ごとに投票先が換わっていることも考えられますが、何かの傾向は示しているものと思われます。(白雲)

720日 「資料購入・作成費と広報費」
標題の2項目についての各議員の使用状況です。この経費の使用状況からも各議員の活動実態が推測されます。共用費を集めている会派については、個人の使用額+会派共用費における同項目の1人当り使用額として計上しています。
広報費について、数人の議員の使用額が385,000円となっているのは、費目別の使用額は政務活動費全体の二分の一を超えてはならないとのルールがあるからです。(白雲)

719日 「滴石百年」
静かに雨が降り続いていた。
雨は庭の桜の樹を覆い、葉から枝をつたって幹を濡らし、流れるとも見えないまま樹皮を上から下に光らせた。別の流れは垂れた枝先から滴り落ちて地面に向かった。丸まった葉の先から、一滴、また一滴。地面には既に小さな穴が穿たれ、穴の底の小石が水滴を受けていた。
小石は平然として水滴を受けて動ぜず、水滴は動かぬ小石に向かって自らを打ち付け、四散し続けた。
ああ、何かに似ている…と、私は思った。私のうたは砂の砦。ふと、そんな言葉も浮かんだ。
動かぬ石に滴り落ちるのは、無駄なことだろうか。…違う。誰の助けも借りず、自分のできることのすべてを続けるのには、意味がある。滴石百年の間には、石も溶け、形を変える。そうした類のものを数多く、これまでの人生で私は見てきたのではなかったか。小さな努力でも、中断してはならないのだ。小さな声でも、あげ続けねばならないのだ。それが千里を照らすことにつながるはずだ。

2016年7月10日の参院選での投票率は約52%。二人に一人は棄権した。そこに私は多くの人の黒い疲れた声を聞いたような気がした。
一つには政治を考える余裕がないのだ。それよりも目の前の生活のため働かなくてはならない。どうせ投票してもどうにもならない。何も変わらない…。実はその状態こそが悪政のせいだ。ゆとりのない生活に誰がした。
あるいは政治を考える能力がないのだ。子どもの頃から政治は遠い存在だった。国家・公共と自分との関係とか、政治は家庭での話題にもならず、政策批判能力を高める公教育もない。考える力もないまま世に出て、社会の姿をあるがまま受け入れる。そこに現状を変えなければとの視点はない。そして実はその状態こそが時の政権にとってはありがたいことだ。一部の人間のためだけの間違った政策が進み続けることを、多くの人は見過ごしたまま自分だけの快楽の日を送る。政治を国民から遠ざけた責任は誰にあるのか。政治に無関心な国民、国と自分の将来を自分で作ろうとしない国民に誰がした。
それらのことに、声を上げ続けよう。    (黄鶴)

718日 「政務活動費 事務雑費」
2015年度の政務活動費使用状況ですが、その全体をグラフにしてみました。ここで、共用費を拠出している会派にあっては、その1人当たりの使用額を計上しています。


しかし、これでは問題点が隠れてしまいます。前回のように1項目ずつ取り上げて議員毎の使用額を比較してみましょう。ここに公費に対する各議員の考え方・態度が浮き彫りにされます。その一つ、事務雑費です。
事務雑費、それは文房具とかの購入費用なのでしょうが、使用額30万円を超える議員あり、ゼロの議員あり、大きな差があります。なお、ここでも共用費を集める会派では、共用費使用額の事務雑費の1人当たりの額を各議員に付加しています。話は飛びますが、パソコンは議員としての最終年度には買うなとの取り決めがあるところを見ると、昔はそういう人もいたようです。国・地域によれば会社の備品を私物化する社員もいると聞きますが、それと同じレベルの、さもしい根性です。いずれにせよ、政務活動費で買ったものが議員の任期終了後には私物となる、どうもそこが解せません。任期が終われば鉛筆1本に至るまで市に返却すべきものと思いますが。そうそう、京都で維新議員において政務活動費の使途に問題があったとの報道が、最近ありました。(白雲)

708日 「政務活動費 研修会・会議費」
特定の費目だけを取り上げて、横並びで眺めてみます。何のために?不正防止です。個別に数字だけ見ていたのではわかりませんが、こうしてグラフにしてみますと、個人の行動パターンが見えてきます。行動の向こうにある考え方も。とりあえず、研修会・会議費についてグラフにしましたが、会派によって使用状況はまちまちです。突出した使い方の場合、その中身を知りたくなりますが、情報公開請求の手続きをしませんとわかりません。その点、大阪府議会は領収書の公開まで進んでいますので、自宅に居ながらにしてすべてわかります。高槻市もそうなってほしいですね。(白雲)

707日 「政務活動費返納額の推移」
昨日の返納額を、改選前の議員との比較で示しました。二つのグラフの縦軸のスケールはほぼ同じです。2011~2014年度のデータも、共用費は1人当たり平均額を算入しています。改選前に返納額の少なかった議員は改選後も少なく、選挙によって行動規範に変化があった議員はないようですが、かつて返納額の多かった議員の姿が今は見えないことが目を引きます。時代の変化と共に政務活動費、略して政活費が、第二の生活費に変わりつつあると見るのは間違った見方でしょうか。こういう活動費は支援する市民の寄付によってまかなうというのが本来のありかたとも思います。寄付がないということは本当の支持がないことなのです。(白雲)

706日 「政務活動費返納額(2015年度)」
2015年度政務活動費に関し、様々な切り口で分析しています。本日は返納額について。
個人別返納額は下図のとおりです。ここで、共用費を徴収する会派においては、自己の返納額に1人当たりの共用費返納額を加算しています。平均返納額は約26万円。これは支給額77万円の33.8%に当たります。ちなみに、返納率の変遷については、次の通りです。当選直後は多額の返納がありますが、時間を追うにつれて返納額が減る傾向にあります。
2011年度 30.4%、2012年度 29.2%、2013年度23.3%、2014年度25.0%
(白雲)

705日 「キャッチコピー不動産と選挙」
家人に人並みの暮らしをさせたくて、先日から戸建て住宅を捜している。緑豊かで静かで、そこそこの広さがあって品質も悪くなくて手ごろな価格で…。
しかし、ない。これまでチェックした中古の住宅はみんな何かの欠陥があって、買う気にならなかった。たとえばその家が市街化調整区域内で再建築不可であったり土石流警戒区域に入っていたり。断熱性がなかったり、或いは予算オーバーだったり。まあ、欠陥があればこそ売主も手放したいのだろう。買う方も何かの欠陥に目をつぶり他の美点に満足感を得て心を決めるしかないのかも。ん?そうだ、結婚相手を決めるのに似ている。
それはともかく、いずれの住宅の宣伝文句もおもしろい。すべて、欠陥を隠し、美点を過大に誇張する。あるいは、欠陥を美点に言い換える例もある。交通の便が悪いのに「自然がいっぱい」とか。
参議院選挙の選挙公報を見ていて、何かに似ていると気が付いた。不動産広告だ。自民党とおおさか維新に不動産広告と同じ臭いがある。自民党は「アベノミクスの実績」と書いているが、その虚構・虚妄はいろんな識者が指摘している。有効求人倍率が高くなったというが、劣悪な労働条件であっても求人は求人だ。就業者が増えたというが非正規労働者が増えて不安定な生活を送る若者が増えただけの話だ。いずれも欠陥を美点に言い換えている。おおさか維新は教育の無償化を謳うが、高校の無償化を始めたのは民主党政権だ。他党の功績を自党の手柄のように言うべきではない。隣の家の美しい庭がよく見えると謳う中古住宅のコピーと同列だ。
そうそう、家を捜しているとき、こんな業者もいた。美しい庭付き住宅を手ごろな価格でHPに掲載する。客が問い合わせると、「その家は午前中に決まってしまって…」とか「その家は商談中で…」と身をかわし、他の質の悪い家を売りつけようとする。どうも、売り物ではない他人の家の写真を使ってあたかも美築住宅を安く売っているようにHP上で見せかけ、広告に嘘などないと信じている善良な客を釣っているようだった。選挙もこれと同じ。政党は美辞麗句や嘘で有権者を釣る。
問題は、善良な有権者がそれを嘘と見抜けないことだ。政党側も、国民の判断力レベルはこの程度のもの、ウソを見抜く力などないと見透かし、選挙のたびに中身のない言葉で国民を誘導する。投票さえしてくれれば、あとはこっちのもの。生活が苦しい国民のためでなく政治家自身のための政治がそこから始まる。あ、今気が付いた。そうか、考える力とゆとりを与えないために、国民を豊かにしようとしないのか。(黄鶴)

74日 「2015年度における政務活動費使用額と質疑・質問件数の関係」
2015年5月以降2016年3月までの政務活動費の使用状況が公表されていますので、たくさん使った議員はよく質問もしているのか、各議員の使用状況と質疑・質問件数の関係を図にしてみました。
この図だけで各議員の仕事ぶりがどうこうと批判・断定はできませんが、一つの顔とみなすことはできそうです。なお、ここで各議員の使用状況は、各会派共用費がある場合、1人当たりの平均使用額を各議員の個人使用額として計算しています。(白雲)

701日 「ネット利用状況 6月末現在」
高槻市議会議員34名中、ネット利用歴あり…28名、うち現在も利用中…21名、でした。「3 説明責任の果たし方 …インターネットを利用した市民への説明状況 」の表を更新しました。ネット利用議員のブログ総数は6月になると少し減り、117件となりました。参院選の影響が現われているのでしょうか。減少の理由は、もう少し長期にわたってデータを集めると、わかってくるでしょう。
各議員のネット利用状況については、利用する人としない人が固定化されていまして、この先も変化はないでしょう…と決めつけてはいけませんね。人間、いつどのように変化・成長するかわかりません。人間のもつ可能性・成長力を信じましょう。それを引き出すのは、子どもならば親と教師と友達。議員ならば市民の声でしょうねぇ。ある議員を応援するというのは、そういうことです。(白雲)

630日 「政務活動費への怒り」
平成27年5月から28年3月までの政務活動費の使用状況が公開されている。これを見て思うことが二つ。
その一。政務活動のために毎月一定額を議員に支給する「政務活動費」という制度は不要なのではないか。なぜなら、使わなくても立派に務めを果たしている議員がいるからだ。支給額77万円に対し、高木議員の返納額は約66万円である。他にも福井議員が約50万円、竹中議員約56万円、久保隆夫議員が約54万円を返納している。これなら、なくてもやって行けるのではないか…、金があるから使うのではないか…、素直な疑問である。国も地方も、数十年前のように予算が右肩上がりで伸びている時代ではない。官民こぞって窮乏をしのいでいる時代ではないか。議員が別世界にいてよいのか。いや、セイカツ費はなくては困る、自分の知識レベルを上げるために図書も新聞も必要と言うなら、ある議員に必要なものならば同じ任務の他の議員にも必要だろうから、図書などは議会費でもって購入し市議会の図書館に備えればよい。さらに市民にも自由に閲覧させるべきだ。税金で買ったのだから。今のように議員個人が購入し議員宅に死蔵させるのはおかしい。交通費は必要のつど出張費として処理すればよい。バス電車代は手続きが煩雑だと言うなら、帳簿などにより1か月分をまとめて処理すればよい。文房具についても必要品を事務局で一括購入したらどうか。そうすると事務が煩雑になるだろうが、そんな障壁があるのも経費削減の効果をもたらすだろう。その結果、文房具費用年間30万円という使用状況にはならないだろう。
その二。議員諸氏は何のために収支報告書を書いているのか。吉田章浩議員、米山議員、岩議員、山口議員を除き、収支報告書を提出することの目的意識が希薄であると言わざるをえない。釈迦に説法だが、収支報告書の公開は「政務活動費の使途の透明性を確保する」ためだ。公開はこの報告書一枚であって、領収書など他の関連資料は情報公開請求を待って公開するものだ。生活に忙しい一般市民はいちいち情報公開請求になど行かない。だから、唯一の頼りであるこの報告書によって使いみちを具体的に明らかにしてほしいのだ。しかし…。
「研修会・会議費」の費目の主たる支出の内容の説明として、「研修会参加費」、
「資料購入及び作成費」の説明で「資料代」、
「広報費」の説明として「広報代等」
などと書かれてあっては、何も分からない。このような説明が「透明性の確保」に資するはずもない。「主たる支出の内容」は、具体的に書いてほしいのだ。種々雑多で表現できないと言わないでほしい。一言もってこれを覆う、そういう言葉を捜せるはずだ。うしろ暗いから抽象的に書いているとは思いたくない。(黄鶴)

629日 「6月議会一般質問」
かえで「あれま。浮かぬ顔して」
御島媼「いろいろとね。憂いは深く喜び少なし」
かえで「うん」
御島媼「この6月議会って、なんというか…」
かえで「?」
御島媼「先日感じたけど、参議院の選挙があるでしょ。皆さんそっちにかかりっきりで、本会議場は休憩室みたい」
かえで「あっはっは」
御島媼「参院選の自党候補者の応援…のためでしょうけど、疲れた顔が並んでいて」
かえで「うん」
御島媼「あなた方は市議会議員じゃぞ、国会議員の下請けにあらず…って、言いたいねぇ」
かえで「まあ、同じ党なら何もしない訳にはいかないでしょ」
御島媼「…にしても、本来の仕事を手抜きしてはいかん」
かえで「うん」
御島媼「一般質問が、昨日と一昨日に行われたはずじゃが、この質問項目を見よ」
かえで「うん、15人、いや1名取り消しで14名」
御島媼「熱意のないのが人数でわかる」
かえで「でも、いっしょうけんめい勉強して、質問しようとする人もいるかも」
御島媼「そうあって欲しいねぇ。まあ、質問を聴けばわかるじゃろうが」
かえで「行かなかったの?」
御島媼「雨でな、衣が濡れて重くなる。重いと飛ぶのがおっくうじゃ」
かえで「うん、わかる」
御島媼「この頃はネット中継もあるから、それを見ることにする」
かえで「でも…」
御島媼「さっきから、『でも』が多いぞな」
かえで「ふふ、ほんとに今日はご機嫌斜めなのね。ネット中継では見えない部分もあるんじゃない?」
御島媼「確かに。ある議員が質問中のときの、他の議員の様子とか。」
かえで「机に立っている名札の横に紙を一枚置いたまま、身じろぎもせず…」
御島媼「メモも取らないでな。座っているだけ」
かえで「知らない方がいいことって、あるものよね」
御島媼「知らぬが仏と、昔から言う」
かえで「議員だから難しい仕事してるんだろうという幻想と現実の姿の離れていることったら」
御島媼「一般質問には、今後やるべき業務の提案と現在の業務についての問題の提示と、大きく分けて二種類あるわな」
かえで「うん」
御島媼「6月議会でも婚活支援事業、DVへの相談体制とか、新規事業に関する質問があるが」
かえで「うん、あるわね」
御島媼「こういうとき、新規事業と引き換えに旧来の仕事のうち何を止めるか、それも明らかにしなければならぬ」
かえで「そうしないと、仕事は増える一方ね」
御島媼「そういう業務の設計能力、現実性が必要じゃな」
かえで「うん、そのあたりを注意しながら聞いてみたいわね」
御島媼「高槻市職員のハラスメントの防止について、という質問が目をひくねぇ」
かえで「セクハラ?パワハラ?」
御島媼「さあ、なんじゃろか。市役所にそういうのが実際にあるのかな?」
かえで「何かあるから問題視してるんでしょ。」
御島媼「聞いてみなければわからん。ネットの公開を待つとするか」
かえで「そうね」

628日 「大英帝国の選択 そして落日
N君、君の知っているイギリスと今のEU離脱狂想曲を奏でるイギリス国民と、印象は同じだろうか。多分違うだろうな。君の専攻したイギリス文学は過去の知性と品性の結晶であったのに対し、今回の感情的な決定は現在の飾らない大衆の姿を示している。
なぜこんな結果になったのだろうか。ポピュリズムをうまく利用した者の勝利と言う報道もあるが、私は思う。これはアメリカのトランプ旋風や日本のおおさか維新を巡る騒ぎに通じるのだけれども、そこにインターネット社会に生きる人々特有の現象があると。
ネットで流れる情報はそれを受ける人の心に直接響く。例えば電子メールが紙媒体の情報以上に読む人の心をわしづかみするように。そしてそれが同時配信であることから、人々の間に一斉蜂起にも似た集団反応を引き起こす。またインターネットのレスポンスの速さは、その空間に生きる人々に対し、インターネットほど素早く反応しない社会へのいら立ちを助長させ、忍耐力を減退させ、理性を押さえつける。このようなインターネット社会の中で助長された苛立ちや鬱屈が爆発的に表われたのが今回の国民投票ではなかろうか。
そしてもう一つ。国民投票は国家意思決定のための最善の方法とは思えなくなったのだが、君はどうだろうか。民主主義の原点だから、それは尊重すべきなのだが、激情にまかせて重大なことが決定されるのは問題だ。国民投票の結果が時の政権にとって好ましいことならば行い、そうでないことが予測されるなら行わない、というふうに時の政権に恣意的に運用されるのもかなわない。
狂気が自らの民族を滅ぼす事例は世界史にも多い。重要なことなのに些細なことを根拠に、あるいは流されて、決めてしまうことが個人にはままある。人が人である限り、仕方のないことなのだろうか。必ずしも合理的とはいえない行いを重ねて、人間の歴史は続いていくのだろうか。N君、いかが?(黄鶴)

627日 「大英帝国の選択 そして落日」
N君、君の敬愛するイギリスは大変なことになったね。今月の始めに会った時、英文学専攻の君は、私の知らない作家の名前を次々に挙げて文章の品格とかリズムとか、ひいてはその作家を産み出したイギリスそのものの重厚な風格、文化の奥深さを熱く語っていた。が、そのイギリスがこんな選択をするとは、君も絶句しているのではなかろうか。信じられない、とね。
私も思う。分かれ道に立って進む方向を決める時、二つの手法がある。感情にまかせて衝動的に一方を選ぶのが一つ。冷静に両者の得失を比較し、二つの道の将来像を対照させ、その決定の他に及ぼす影響も考慮し、種々考えあわせて理性的に決定するのがもうひとつの手法だ。
軽微な私ごとならば、前者だろう。好き嫌いでどちらかを選ぶのが普通だ。あるいは、重要なことでも…たとえば結婚だって、冷静な計算もあるが、基本的には前者だ。一にピカピカ。二に健康。会社の人事も、けっこう好き嫌いで決めると、ある人から聞いたこともある。あれはかなりの大会社だった。そうそう、市議会議員も、好感度の大きさが投票の要因になっている。
しかし、ことは国の行く末だ。個人の小さなことではない。情動的にまちがった選択をしてしまったら、とんでもないことになる。国の内外への影響はまことに大きい。
イギリスは今後、どんなふうにとんでもないことになるのか。まだ誰も正確な将来予測はしていない。将来像が見えないまま、不安だけが広がっている。しかし、確実なのは、イギリスはEUとは別の国になること。つまり、第一に通貨ポンドはイギリスの国力に見合った価値を示すものとなり、EU各国とは落差が生じる。その落差が、EUより低くなるのか高くなるのか流動的だ。中国と手を結んだイギリスは中国と一蓮托生で落ち込むか、繁栄するか。繁栄すれば、今回の選択は正しかったことになる。第二にイギリスは他国との間に関税の壁が生じる。そうならないようにEUと交渉すると、離脱派はおっしゃったが、そんな虫の良い話はないだろう。関税があればイギリスからEUへモノが流れにくくなる。その結果イギリスの産業は落ち込む。そうなったら、イギリスに来てモノを作りEU諸国へ売り、作る過程でイギリス人の雇用を創出していた外国の会社はイギリスでの生産を止め、他のEU諸国に工場を移転させる。そうして、移民に職を奪われるどころではない多種多様な階層の失業者を発させる。そうなると、いまEU諸国中第2位のGDP(2015年:2.85兆ドル)も、フランス(2015年:2.42兆ドル)に抜かれる日が来るかもしれない。そんなふうに、経済的損失は大きい。元々イギリスは実利を尊ぶ国柄で、それあればこそ100年前の日英同盟も成立していたのだが、今回は実利をも捨ててしまった。
何故このようなことが起こり得るのだろうか。…長くなるから、それは明日にしよう。(黄鶴)

626日 ぶろぐ日曜版「司法と行政の間に
江戸時代は、江戸・京・大坂・駿府・伏見においては町奉行所、その他の幕府直轄地ならば遠国奉行、郡代と代官が民を治めた。すなわち税の徴収、農業・養蚕業の指導、犯罪の取り締まり、領民の紛争の調停、訴訟の聴断がその任務であった。ここで遠国奉行とは、長崎、浦賀、神奈川、函館、奈良、山田、兵庫、堺、佐渡、日光、新潟、下田等の奉行の総称である。遠国奉行には民政のほかに、長崎奉行ならば外国船の取り締まり等、それぞれの地に応じた特殊任務もあった。郡代、代官は勘定奉行の下に置かれたもので、関東郡代(武蔵・相模・安房・上総・下総・上野諸国の直轄地を担当)、美濃郡代(美濃・伊勢を担当)、西国郡代(豊後・豊前・筑前・日向・肥前・肥後を担当)、飛騨郡代(飛騨、加賀、越前を担当)の職があった。代官も勘定奉行の下に置かれ、全国に40~50人の代官が分散配置されたが、多くは世襲で同じ土地に居住した。このため代官にあっては宜しからぬ者も現われたようで、「威権を弄して領民を苦しめ」、あるいは「勘定衆と結託して私を営む」、「町人より賄賂を貪り饗応を受ける」ことは相成らぬとお達しが出ている。しかしそのような悪代官もいたのだろうが、大多数は真面目な役人だったと推測する。さもなければ、江戸時代があんなに長く続くはずもない。「お主も悪よのぉ」という代官ばかりでは百姓一揆の連発で、直ちに世直しが始まっていたことだろう。現に、仁徳厚く百姓に慕われ、石碑を建ててもらった代官も実在した。律令以来の徳行を重んじる風潮は、長い時の流れの中で、人が人を育て、徳高く恵み篤い人物を村々に造り上げていた。そのことに私は感嘆の思いを捨てきれない。
たまたま、過日「殿、利息でござる」と言う映画をみた。過重な伝馬の役に苦しむ宿場町を何とかしたいという酒造り町人の切なる願いは、肝煎(庄屋・名主に相当)、大肝煎を経て代官まで届き、代官によって十分な理解を得て藩まで上申された。立派な代官だった。これが浪花節の世界ではなく、現実にあったことなのだ。映画では、大肝煎の任務には犯罪捜査もあるとの説明もあって、以前の本稿と重なったが、要するに律令時代の里長の任務が江戸時代の大肝煎にまで伝わったということだ。
百姓町人にしてみれば、政治のことでも泥棒に襲われたことでも、困ったことがあれば何でも肝煎りやら代官所やらに訴えればよい、これは便利なシステムであった。まず、担当が違うからと、たらい回しにされることがなかった。そして、聴いてくれる相手は徳の高い人物が多かった。
いま、住みやすさとは何だろうか。行き届いた防災・防犯・防疫対策、水や電気などのライフラインの安定、緑の環境、教育環境、文化的環境、交通・通信の便、などなど。そうした役所からの反射的利益のほか、トラブル発生の際の処理システムが充実していることだろう。トラブルには、行政の誤りに対する抗告、騒音などに関する住民同士の争い、犯罪発生時の対応などがある。そんなとき、司法と行政の間に立つ便利な窓口、あるいはそういう担当者が町にいれば有難い。民生委員をそのような役に生まれ変わらせることはできないだろうか。まあ、地方が勝手に始めるのは無理で、国がそういう法律を作らなければならないのだが、地方も与えられた制度を押し戴くだけでなく、住みやすい社会システムを自ら考えることも必要ではないか。(この項終り)(黄鶴)

624日 「選挙の得票数と当選後の働きぶりの関係」
昨年4月の選挙における得票数と選挙後1年間の高槻市議会議員の働きぶりの関係を図にしてみました。論評は一切加えません。とくとご覧あれ。(白雲)

623日 「2015年度 質疑・質問数」
3月議会の議事録が公表されましたので各委員会での議員の質問状況が判り、これでようやく6月議会から1年分の質疑・質問数がまとまりました。グラフにしてここにお示しします。平均して年間に11.4件、季節ごとの会議1回につき2.9件(=委員会で1件、本会議の議案質疑に1件、一般質問に1件)、これが平均的な高槻市議会議員の活動状況です。この活動に対して、給与は年間1千万円。つまり、質問1件につき、約100万円の報酬です。すごいですね。
分野を問わず、主体的に勉強すればするだけ、疑問も湧きます。自分の考えがしっかりしていればいるほど、世の中のあれこれがもつ理不尽さ・身勝手さが見えて、批判もしたくなります。議員の皆さんの質疑・質問数も、こうしたことの表われと思います。(白雲)

622日 「日出が一番早いのは夏至ではない」
よく話題になるが、夏至は日の出から日の入までの時間が一番長い日であって、日の出が一番早い日ではない。春から夏にかけて太陽は徐々に日の出の位置を北上させ、今年の高槻では6月12日がそのピークとなって真東から北に30度の位置に04時43分、頭の先端を出す。その後は南下を始める。日の入の位置は、夏至の後も数日は北上を続け6月29日、真西よりも北に30度上った位置に沈む。その時刻は19時15分である。日の出は夏至よりも早く、日の出は夏至よりも遅くピークを迎える。いずれも夏至とは時間のずれがある。
太陽の動きについて、もうひとつ。私たちは正午に太陽が真南に来て一番高くなると、思い込んでいないだろうか。実は太陽の正中時刻は毎日変わる。高槻では2016年、2月12日に12時12分、5月15日に11時54分、7月25日に12時04分、11月05日に11時41分となる。遅くなったり早くなったり、年に2回の波状の変化がある。普段の生活の中では、そのことにまったく気づいていない。見ていない間に太陽の挙動は変わっている。
今日、参院選が公示される。そして7月10日、国民の意思を明らかにする日となるのだが、国民が政治に向けた怒りのピークの時期と参院選の投票日に時間のずれはないだろうか。時間がずれて実態を正しく表さない選挙になることはないのだろうか。そこが気になる。昨年夏、安保関連法の成立を巡って激しい議論が交わされた。国会前でのデモも大きな力を示していた。それが1年を経て、変わらぬ姿を示せるだろうか。同じ心に。
近所の井戸端会議では、安倍自民は困ったものだけど民進党も頼りない、どうしたもんじゃろのぉ、との声が聞こえる。見ていない間に、気付かぬうちに政治は変わることもある。とりあえず、しっかり見ていてほしいと念願する。(黄鶴)

620日 「夕陽に輝くアベノミクス」
安倍首相は、どこまで国民を愚弄すれば気が済むのか。国民はどこまで侮蔑されれば目が覚めるのか。自民党はいつまで総理の言いなりになっているのか、徐々に自分の身が危うくなっているというのに。
そう思わざるを得ない党首討論だった。
参院選では憲法は争点にしない、次の国会で憲法の議論をする…と、総理は言う。ここに国民の存在をまったく考慮に入れない総理の考え方が露見している。
参院選で争点にしなかったら、国民はいつ自分の考えを表わすのか。参議院に対して、憲法に関する国民の意志をいつ伝達するのか。憲法に関する意思表示の機会を奪おうとする総理に対して、国民はなぜ怒らないのか。愚かな国民には重要な問題の方向決定は任せられない、選民である一部政治家がこれを決め、陣笠国会議員がこれを認め、国民は黙って従えばよい、いつかわかるだろう…そういう政府首脳の態度に対して、なぜ国民はこれを黙認するのか。わかったとき、日本はとんでもないことになっているのに。
そして、次の国会で誰が議論に参加するのか。国会議員か。国会議員が国民の代表であるというのは建前に過ぎず、国民から遊離した存在であることは昨年の安保関連法の議論の際に証明済みだ。今の自民党議員というのは、本会議での投票の際の1票以外に存在意義はない。
公明党代表の発言も理解できない。議論が成熟していないので選挙での争点にならないとおっしゃるが、国民は議論され煮詰まったものにイエス・ノーを言うだけの存在ではない。議論に参加してこそ国民だ。こちらも国民は議論する能力を持たないという認識に基づく発言だ。
消費増税についての「新しい約束」も理解できない。私は家人に借金がある。それを返すのを棚上げにして、さらに5万円貸せと「新しい約束」をしようと交渉しようとしたが、一蹴された。前の約束の履行が先だ、ということだった。国政と私事とでは話の次元が違うが、判断の枠組みは同じだ。
国民はアベノミクスがあだ花であることに徐々に気が付き始めている。そして、あだ花を見捨てる時、自民党議員からも関心を失う。だから自民党議員はいつまでも国民から信頼されない党首を担いでいるのは間違いだ。戦国時代の武士のように主を選ぶときはよくよく考えなくてはならない、そういう時期にきている。
日経平均株価・本日午前の終値は、先週末より344円高。夕陽に輝くアベノミクス。(黄鶴)

617日 「ドアに鍵をおろした時」
ご存じ、財津和夫さんの「サボテンの花」の一節にあるフレーズだ。「なぜか、涙がこぼれた…」。
こちらは、なぜかも何もない。舛添さんが都知事を辞めた。しかし、想像する。最後に都知事室を出る時、振り返った目に何が映るか。その瞬間の思い、いかばかりか。
筆者は、子供のころから幾度か住居を引っ越した。引っ越しでそれまで住んでいた借家を出るたびに、荷物を出して何もなくなった部屋を見渡して、しばし特殊な感情の中に身を置いた。その部屋での生活のいろいろとその地の学校のあれこれが混じりあって胸中を去来した。ここでの生活も終わりなんだなぁとの思いを最後に、外に出て、ドアに鍵をおろした。駅に向かった。そうして、自分にとっての一つの時代をその地に置き、次の時代へと旅立って行った。汽笛を聞きながらの車中では、新しい日々への期待が徐々に高まっていったけど、あれも遠い日のこと。
辞める舛添さんに対し、非難の声が大きすぎないか。この際とばかりに、正義面した批判の論評ばかりが目に付く。ネットの記事には性格までも批判の対象にしているものがある。非難すれば自分が正しい側に立てるとでも思っているのか。
そりゃ勿論、政治資金の私生活への流用は誉められたものではない。政治家として、あるまじき行為だ。しかし、人間にも物事にも二面性がある。マスコミが今やるべきことは、まっとうな評価を国民に促すため、批判ばかりしていないで舛添知事の業績も紹介し、良い面悪い面の両方を紹介することではないのか。マスコミは才ある人を闇に葬るべきではない。因果応報はよいが、あらためて芽を出す可能性を残しておくべきだ。今回のことをも自分の学門対象にした学者としての成長とまたの日を、私は舛添さんに期待したい。
それにしても、思う。そういう金の使い方はおかしいよと、忠告する人はいなかったのか。自分と考え方の違う人間を傍に置き、仕事の流れの偏向を予防することを、なぜしなかったのか。
お世辞を並べてくれるのは耳に心地よく、まっすぐ針を刺しに来るヤツには今でも…あの野郎…との思いもあるが、あれでよかったのだと思い起こす。ああ、極めて個人的な陳思のブログになった。呵呵。(黄鶴)

616日 「議案質疑の日」
御島媼「おや、かえで!14日は本会議場に来なかったじゃない」
かえで「行ったわよ。午後にね」
御島媼「あはは」
かえで「行ったけど、だ~れも、いなかった」
御島媼「本会議は11時半に終わったのよ」
かえで「日程表には、14日、質疑、と書いてあったのに」
御島媼「?」
かえで「議案はいっぱいあるし、だから、朝から夕方まで審議が…」
御島媼「ほ~ほっほっほ」
かえで「なかったの?」
御島媼「まあ、いともスムーズ。質疑なしの議題も多くって」
かえで「議員提出議題はない、市長提出議題にも質疑なし、覇気のない議会だこと」
御島媼「気を吐く議員もいるけどね」
かえで「議長席に向かって左のほうね」
御島媼「そう」
かえで「それに対する市の答えは?」
御島媼「相変わらず、暖簾に腕押し。成果なし」
かえで「うん。変わったことは何もなく、淡々と…」
御島媼「ただね、高木議員の質問中に後席から、のたまいける人ありて」
かえで「何?それ」
御島媼「議長に対して、議事運営の在り方を指示するような、」
かえで「は?元議長のご指南?」
御島媼「かどうか。よく聞こえなくて、ねぇ。議長も取り合わなかったけど」
かえで「うん」
御島媼「ただ、橋本さんが議長になって、なんとなく議場が柔らかムード」
かえで「悪くないわね」
御島媼「そぉ」
かえで「補正予算は?いろんな質疑があった?」
御島媼「そうでも、というか、太田・吉田忠則・宮本・野々上議員が民間学童保育女性とか子ども未来部の予算について、それから北岡議員が農業用水路について、ね。この日の質疑のうち半分は補正予算に関するもの。それが5名。多いと言うか少ないと言うべきか」
かえで「普段より多いみたい」
御島媼「ではあるがな、約1億8千万円の6月補正のうち、約5千万円に対してだけ質疑が集中し、1億3560万円の蒸気タービン復水器については質疑なし」
かえで「中原に兎を追って鹿を見ず、とでも言いたそう」
御島媼「まさに、な。まあ、知らないことに口をはさんで恥をかいても困るじゃろ」
かえで「議員に対して、物わかりがよくなったのね」
御島媼「諦めに近いけどなぁ。はぁ~」
かえで「ため息?やだなぁ」

615日 「わかりやすい部分だけ批判」
舛添知事非難の大合唱が大きくなった。都議会野党は遂に不信任案を出した。野党だけでなく、都民の中にもその声は大きく、この情勢を見て、都議会の自民・公明も知事批判の陣列に加わった。いま、知事を擁護すれば、自分たちの立場も危うくなり、参議院の趨勢にも影響して、事は東京都だけに終わらなくなるという都議会与党側の考えは、説明されなくてもよくわかる。自民党中枢が都議会与党に示唆を与えたことも容易に想像できる。
しかし、冷静に考えてみたい。日本人として、参院選前の今、何を問題としなければならないか。マスコミは連日都知事が辞めるかどうかというニュースばかりだが、それでよいか。政治資金の悪用ぐらいでは人は死なないが、多数の人が死に瀕するような、もっと大きな問題を忘れてはいないか。
官邸筋は、案外ほくそ笑んでいるのかもしれない。都知事関連のニュースが多ければ多いほど、改憲や安全保障関連法、アベノミクス退行から世間の目はそれる。政治資金を家族の旅行費用にあてたとか、多数の美術品を買ったとか、わかりやすい材料を目の前に置けば、人はその小事を批判するのに気を取られ、遠い先の大事を見なくなる。そういう人が過半数になれば、都知事騒ぎを起こしたことは成功だ。あれだけ強引で非民主的な国会運営がありながら、それが目に入らない国民は多く、首相支持率は50%近い数字だ。そういう国民であれば、世論操作も簡単だろう。
料理なら柔らかいものから先に食べる、宿題は易しい問題から手をつける、それはいい。だが政治経済の話は、分かりやすい話は議論の対象にするが分からない問題については口を閉ざす、それでは困る。分からない問題も、遠い世界に放置せず、いろいろ調べ勉強して自分の世界のものにする、そういう努力が必要だ。議員においては、なおさら。そうでなければ、悪意をもった為政者は、重要な問題を不可解な専門技術の世界や法律論の中に置き、それを黒いヴェールとして国民や市民にその実態や目的をわからせないまま、議会を通過させるだろう。怖いことだ。(首陽)

614日 「常に疑問を
市のHPを見ると6月議会に補正予算案が上程されている。まずこれに驚いた。本予算が始まってまだ2か月半である。なのに、もう補正を要するのか。早くも補正を要するのは、本予算がそもそも十分練られたものではなかったということか。
さらに、補正予算の中にゴミ焼却場第二工場蒸気タービン復水器の更新工事1億3560万円というのがある。この必要性がわからない。金額も高すぎる。
復水器について、一般の方には不可解な部分もあるだろうから説明する。一般にゴミ焼却の廃熱を有効利用しようというのは、よくある。排ガスを熱交換器に通して水を温めることもあるし、熱によって何かのガスを膨張させ、それによってピストンを動かし、動力を得るスターリングエンジンというのも最近出てきた。一般的なのは廃熱をボイラの熱源として高温高圧の水蒸気を作り、その水蒸気を羽根車(タービン)に当てて、タービンに連結された発電機を回し、発電することである。
高槻市のゴミ処理施設第二工場は平成7年9月竣工である。廃熱を利用して発電能力4950Kwの蒸気タービン発電機を回す設備をもつ。水蒸気の素となる水は純水がよいが自然界には存在しないので水道水を使う。ただし使う前に薬剤を入れたりして処理する。そういう手のかかった水は、蒸気として仕事をさせたあと空中に放出するのはもったいないので、冷却してまた水に戻し、ボイラに送る。この、水に戻す装置を復水器という。概念図は次のとおり。通常は円筒型で、5000Kwのタービンならば長さ3m、直径1mくらいだろうか。伝熱効率次第で大きさも変わる。


図の説明をしよう。水蒸気は大きな白抜き矢印のように進み、内部を冷却水によって冷却された細管の外側に触れ、多数の細管の間を通りぬける間に水に戻る。そして下のタンクに溜る。冬、寒い外気によって結露した暖かい部屋の窓を、窓ガラスをゆっくり滴り落ちる水の動きを、思い出していただければよい。
この復水器は、細管の内側が冷却水中の不純物によって汚れ、場合によっては閉塞するので、1年に1回は蓋を開けて細管内部を掃除する。冷却用の細管は、ふつうは伝熱効率のよい薄い黄銅でできている。船舶用の場合は冷却水が海水であるので、海洋生物が付着するほか塩分濃度の濃淡電池生成などにより腐食が激しく、細管を交換することがある。しかし陸上用の場合、腐食は少なく部品交換の頻度は低いと思われる。ともあれ、部品を交換することはあるが、本体まるごと交換するのは珍しい。通常はボイラ・タービンの寿命が尽きるまで使う。
疑問をまとめる。一つは、なぜ補正予算に計上したのか、である。補正予算で更新しなければならないほど急激に復水器が劣化した事実が発生したのか、或いは、徐々に進行した劣化であるとして、それががなぜ本予算成立まで分からなかったのか、それほど劣化するまで、なぜ放置したのかである。今まで定期点検を重ねてきたはずだ。点検の際に腐食の進行状況はチェックしていたはずだ。急激な「すきま腐食」もないではないが、通常は腐食の進行状況を基にして、次の点検まで何をしなければならないかが予測できる。そして、補修の年次計画も立てられる。疑問の二は、なぜ1億以上もするのか、ということだ。復水器には可動部もなく、難しい技術はない。比較的簡単に工作できる。メーカーが石川島播磨重工業で、その製品しか使えないからと、言いなりになっていないか。疑問の三は、更新自体も、メーカーの言いなりになっていないか、である。更新すべきと言うメーカーの主張に対し、いや、まだ使えると反論できる人はいないのか。いなかったら、雇うとか、コンサルタントに頼んで公正さを確認するとか、なぜしないのか。数百万の経費で億単位の経費節約が可能になるのに。(黄鶴)

613日 「常に疑問を
市会議員の方には、議案に対して常に疑問の目を持ってほしいと願っている。それは今さら言うまでもない議員としての基本的な要件の一つだ。「市長の方針を全面的に支持します」と、代表質問で年度当初に宣言するような議員や会派は高槻市には必要ない。そりゃ、市の職員にとっては邪魔だろうが、そういう第三者の目がなければ、権力的な統治機構は必ず腐敗する。人間のやることだから、必ず間違いはある。興味深いことに、課長・部長のチェックが入っていても、なお間違いがあることもある。同じ組織の人間は同じ方向だけを見て、複眼的思考が欠けるからなのだろう。税金の無駄づかいを防ぐため、行政の暴走を防ぐために、質疑・質問に注力してほしい。正しいことは正しいとするのは、これも当然だ。
6月議会における予算にからむ議題等には、①繰り越し状況の報告、②契約締結に関する議案、③6月補正予算がある。①は先日ふれた。審議日程の10日には「(即決)」とあるから、一部は既に議決済みなのかもしれないが、②③について疑問を呈したい。
②の契約案件については5W1Hの観点からチェックする必要があり、そういう質疑を期待したい。筆者の疑問は次のとおり。
When:当該年度に実施することが正しいのか。工期は適切か。短すぎて無理を強いることになっていないか。
Who:契約相手方は適切か。たとえばゴミ処理施設については、製造業者しか点検できないという固定観念に陥っていないか。耐震改修については、工事ごとに適切な施工業者があるのに一括契約としていないか。工事監督は誰が行うのか。
What:施工範囲は適切か。
Why:そもそも、工事・調達の必要性は十分吟味されているか。
How to:仕様は適切か。
How much:契約金額が適切か。随意契約の場合、業者の言いなりになっていないか。類似施設の同等の工事の金額、過去の契約金額との比較から、適正と言えるか。(続く)(黄鶴)

612日 ぶろぐ日曜版「司法と行政の間に
正しい政治が行われ、安定した豊かな生活が保障され、自分たちの自由な意思や意見が尊重されれば、民主不義であろうが君主制であろうが、三権分立であろうが権力集中制であろうが、民にとっては政治体制などどうでもよい。歴史をみると、君主制にも善政があり民主制にも悪政があった。おそらく明治の為政者にも日本古来の制度を蔑む意思はなかったのではないか。ただ、三権分立の制度(表現を変えればヨーロッパの制度)を取り入れることによって、日本は近代化したとヨーロッパ人に認めさせ、彼らと対等にわたりあうための方便にしたのではないか(この対極に欧米社会が作り上げた国際法を認めようとしない尊大なお隣のクニがある。国民性の違いが面白い)。
律令時代、五位以上の貴族の子弟(八位以上の官人の子であって特に優秀な者も許される)は大学、それ以外の子弟は国学に通った。そこで学ぶのは周易、周礼、毛詩(詩経)、春秋左氏伝、孝経、論語などで、まず文章の読み方に習熟し、その後に意味を教えられるのであったが、これら学問のすべては歴史を学ぶというより人間としてのありかたを学ぶための学科であった。その学問を修め、徳行に秀でていると認められれば、官人として採用された(選叙令)。このような考え方の下に理想とされたのが聖徳太子であり、王徳を重んじる思想は奈良時代から平安、鎌倉へと受け継がれ、神皇正統記はもちろん、愚管抄にもその流れが窺える。ラテン語に noblesse oblige という。ヨーロッパの貴族においてその義務の部分は、戦地において率先して死地に赴くことなどに発露されるが、日本においては徳を積むことを義務としてわが身に課した。江戸中期、石田梅岩の心学にも武士のありかたとして「君、無道にて国治まらず、然るに君を正すことあたわず、禄を貪るは大いなる恥なり」とある。。ここで、君主すなわち司法・立法・行政の三権を一手に握る為政者は、道を知ること、高い徳を備えることを当然の前提としている。武士階級も農民出身の梅岩も、言い換えれば日本中が君主に徳を求めているのである。この考え方が幕末まで続いた。(黄鶴)

610日 「公務遅滞」
6月10日、時の記念日である。斉明天皇6年5月、「皇太子、漏剋を造る。民をして時を知らしむ」とある。飛鳥に水時計を造り、ほぼ2時間毎に鼓を打ちほぼ30分毎に鐘を鳴らして、この時から国民は時間まで国家に管理され始めた。大津皇子の死を賜ったときの悲痛な臨終の詩に「鼓聲短命を催(うなが」す」ともある。夕刻、磐余の池を越えて轟く太鼓の音が皇子の死の間近なことを告げている、そんな情景が目に浮かぶ。
今日から市議会が始まった。議案の一つに平成27年度予算の繰り越し状況の報告がある。その繰り越し事由に「…に不測の日数を要し」と書かれているのが目に付く。
予算はその年度の収入をもってその年度の支出に充てるのが原則である。ではあるが、設計・製造に長時間を要するとか、資材手配・建築に長期間を要し、その間に天変地異でもあれば年度内に終わらないことが予測されることもあり、そういう場合はあらかじめ議決をもって翌年度への繰り越しを認めている経費がある。これを繰越明許費という。
これは予算執行の例外である。原則は単年度予算であり、その精神は忘れてはならない。繰越明許費だから当然に繰り越してよいというものではない。有権者から税金を取り、この年度にこれこれの政策を実行しますと市民に約束したのが予算なのだ。政策実行を心待ちにする市民もいる。それを期日までに履行していない、基本的にこれは約束違反であることを、担当者は自覚してほしい。政策の遅れは許されない。そもそも「不測の日数」とは、予見能力の欠如を示すものではないか。あってはならないことだ。
そしてこれは、当該年度中に事業が終わりそうにないことが明らかになったら、3月議会で議会に報告すべきではないか。一般に人は期日までに約束を守れそうにないとき、どうするか。期日前に証拠をらかにして事情を説明し、しを乞うのが当然ではないか。これゆえに明許費というのだ。6月になって、遅れました、ごめんなさい、ではすまない。これら、繰越明許費の各項目について、議員の追求を期待する。
ああ、それにしても、本会議のネットによる同時中継のないのが恨めしい。他市でできることがなぜできないのか。市民の目を塞いでいることに何の疑問も持たない議会に、期日までに政策を実行するという時の観念を求めるのは無理なのか。あ、そうか。国家から時間を管理されない自由の民だったのか。(黄鶴)

609日 「政務活動費」
高槻市議会議員の政務活動費は月額7万円である。東京都議会議員の月額60万円には及びもつかないが
隣の茨木市の月額4万円よりは多い。ちなみに大阪府議会は59万円(会派に属さない議員は49万円)、堺市は30万円、東大阪市は15万円、豊中市と枚方市は7万円(いずれも月額)である。誰に支給されるのかをみると、会派に支給される市が多い。高槻市のように議員に支給されるのは少数派である。
この政務活動費の使用状況が適正かどうか、それに向ける市民の目はこのところ厳しい。しかし、その目に応えるだけのシステムが整っていないことに、不満を感じる。
高槻市において、政務活動費の使途は、政務活動費の公布に関する事務処理要領(以下「要領」という)によって細かく規制されている。この規制に従って議員が正しく政務活動費を使用しているのかどうかを簡便に知りたいところだが、ネットで公開されるのは収支報告だけで、要領の基準に合致しているのかどうか、わからない。知りたければ情報公開窓口に来い、というのでは不親切に過ぎる。
各議員の政務活動費の使用については、要領によれば、議長が四半期ごとにチェックすることになっているが、その点検の結果、不正があったのかなかったのか、どこでどのように公表するのか、関連の条例・規則類は何も定めていない。条例も議長の調査権を謳うが、望ましいのは調査公表の義務を明らかにすることではないか。また、議長も政務活動費を受領する議員の1人であってみれば、そもそも議長の調査に公正さが期待できるのか、疑問である。システムを根本的に変えて、第三者による確認とすべきである。
ところで、高槻市の場合、前年度の使用状況は5月末日までに報告することになっている。その収支報告書がそろそろネットで公開されるはずだ。繰り返しになるが、収支報告書だけで公正さを読み取れる記述になっていることを期待する。実際、平成26年度分を見ると、二木前議員については付属書類を見なくても適正な使用状況が読み取れるのだ。他の議員にできないわけがない。それをやらないのは公金に対する考え方が甘く、議員として積極的に説明しようとする責任感がないからなのだと勘繰りたくなる(参考:2015.8.22付け白雲子調査)。
収支報告書の書き方が議員としての資質の高さを示す。34人分の政務活動費公開が楽しみだ。(黄鶴)

608日 「政治家のウソ」
ウソという小鳥がいる。首の回りが赤い。赤いネクタイの政治家を見るたびに私はこの鳥を思い出す。
ある政党の宣伝として「実現できる約束こそが本当の公約と考えます」という文言を見たとき、あなたはどうお感じになるだろうか。足取りのしっかりした政党だ…。あるいは、虚言による民衆の誘導もここまできたか…。その、どちらだろうか。この言葉の裏にある気位の高さ、独善性は、砂漠を含めば広大な国土を持ち、統計学上の正規分布に従えば賢い人も多いけど逆の人も同じ数いる人口の多い、あの国の独裁党と似ていないか。
これ、実は自民党のHPの「政策」「公約関連」の項目の冒頭にある見出しだ。これに続くように、2014年の衆院選の公約や子供向けの「やくそく」などが掲げられている。
今になって見れば、この公約が実現できたかどうか、シロウトの目にもよくわかる。一つずつ見てみよう。
過日もふれたが、国民との約束に掲げていない安保関連法を成立させた。アメリカとの約束のとおりに。
経済再生として、企業収益の増を図り、それによって雇用拡大・賃金上昇を見込み、その効果として消費が拡大することを謳ったが、実際はどうだったか。消費は拡大せず、消費増税は延期された。企業収益の増はあったが、それは海外でドルを稼いでいる企業の収益が円安によって割増表示されただけだ。株高はGPIF,すなわち政府の投資によって買いがふくらみ、値上がりしただけだ。値上がりを喜んだ海外の投資家はここで売りに回り、株価は下がり始め、本年4月24日から5月28日の間だけでも5389億円を売り越した。いまは外人が売り、GPIFが年金を原資にして買い、これによって株価が維持されている。
地方再生を謳ったが、どうなったか。日本全国でプレミアム付き商品券が発行されたが、その効果はどうなったか。投資は生活の中に雲散霧消して経済効果は見えない。
女性活躍は?財政再建は?あの約束の中で、何が実行できたのだろうか。
なんでも額面と実態が違うのが現実世界であって、それを容認するのが大人というものだ、という考えもあろう。しかし、額面どおり信じて何が悪い。まっすぐに理想を追って何が悪いか。日本の進むべき道を高らかに示し、必要ならば苦いものを呑むことをも拒まない人を政治家とし、政治家のウソは許さない、その基本的な態度を捨てないようにしよう。
あらためて思う。実現できなかった約束を今でも堂々と掲げている、この自民党の態度は立派だ。(黄鶴)

607日 「政治資金に対する正邪の感覚」
昨日、舛添東京都知事における政治資金問題について調査結果が発表された。
調査は第三者によって行われると喧伝されていた。第三者とは誰なのかと思っていたら、政治資金に詳しい弁護士だった。その弁護士は、支出項目のそれぞれについて違法か否か、不適切かどうかを判定していった。
違う。法的にどうかが問題なのではない。法は最低限の道徳である。最低限のことを市民が求めているのではない。求めているのは道徳的に評価できる知事であって、モノサシは清廉な政治家であるかどうかという一点なのだ。判断基準が違う。
不適切かどうかの判定は、一応参考にはなる。しかし庶民感覚とかけ離れたところがある。たとえば美術書だ。違法・不適切とはいえない、としているが、たとえそれが外国首脳との会話に必要な知識であるとしても、これは趣味の範囲ではないか。趣味に政治資金を使っていいのか。ブランドバッグが書類整理用に使われているから適切な政治資金利用だとしているが、なぜ高価な(庶民にとっては。弁護士の収入から見れば高価ではない)バッグが必要なのか。全般的に、不適切かどうかは市民が判断することだ。何も法曹界から批評してもらわなくても、間に合っている。
審判は東京都民の行うことだが、大阪府民も一言言わせてもらおう。都知事の政治資金の使用には、宿泊費、「くれよんしんちゃん」の書籍代などいくつか不適切と指摘された項目が含まれるが、不適切なものが混在していても指摘されるまで何の反省もない、そういう認識レベルが問題なのだ。法曹界から違法性がないと言われ、禊はそこで終わったと思われては困るのだ。
やはり地方首長・議員の無評価期間4年は長い。中間の2年で一度評価すべきだ。彼らに自分のやっていることの良し悪しを判断する能力がないのなら、有権者が判断しよう。都議会でも今日から追及が始まる。(黄鶴)

606日 「自民、卑怯なり」
実質的に参院選がスタートした。各党のHPを見ると、公認予定者の顔写真が並んでいる。どのような政策によりどのような国を作るのかということより、誰が議員になるかの方が重要らしい。でもこれは選挙運動ではないのだろうか。
自民党は改憲を目指している。そのことはこれまでの言動からはっきりしている。しかし、それを今度の参院選で明示しようという気配はない。票が減るから、その話題を避けようとの意見すらある。選挙の時に公約として掲げないで、選挙が終わったら本音を出して改憲に走るのは、卑怯としか言いようがない。
2014年の衆院選もそうだった。あのときの選挙公約がまだ自民党のHPにある*。国論を二分するテーマであったのに、公約に安保関連法案という項目はない。のみならず、26ページに及ぶ公約のなかでそれをにおわす文言は「防衛協力を推進します」と言う一言しかない。前面に出したのは経済再生、地方創生、女性活躍、財政再建であった。にもかかわらず、選挙後は内閣法制局を骨抜きにし、自身を「立法府の長」と誤認して、違憲立法を推進した。国民との約束違反の次元をはるかに超えている。*https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/126585_1.pdf
憲法についても、こんどの参院選で同じことをするのだろう。選挙公約では詳しく言わず、それに必要な議席さえ取れば、改憲手続きを進めるのが目に見えている。国民には言わずコトを進める、それが政治だという一年生議員の三原じゅん子市の発言(6月5日毎日新聞)を聞くに至っては、国民を愚弄した行為としか言えなくなる。愚弄されつつもそれと知らず、笑顔に騙されて自民党を支持する国民が哀れだ。
国民に真実を告げないまま無能な政治家が破滅に向かって突き進む…。戦前、戦中の日本とどう違うのか。戦争の教訓はどこに消えたのか。(黄鶴)

605日 ぶろぐ日曜版「司法と行政の間に
軽微なもめごとは役所ではなく市民の間で収めなさい、名主さん、あなたに任せるから。それが①で紹介した享保6年の大岡通達の姿勢である。
このような自治の制度は、南町奉行大岡越前守が始めたことではない。実は古くからの日本の伝統である。律令時代の行政の最小単位を「保」といい、5戸をもって構成され、1人の長が置かれた。長の任務は「非違を検察」することなどであった。また50戸で「里」を為したが、その里にも長が置かれ、同様の任務が課せられた(戸令)。貧窮問答歌にも「礎取五十戸良我許恵波」(しもと(笞)取る*里長が声は)とあるのはご存じだろう。この制度が唐からの直輸入なのか、日本古来のものだったのか、私は未だ確認していない。おそらく縄文以来、人あるところには掟があり自治があったに違いない。続縄文と言われるアイヌ社会にもルールがあって、人倫の道を外れた男はアキレス腱を切られ、女は髪をすべて抜かれて野に放たれた。そんな慣習法による刑罰を執行した長がいた事実を見ると、あながち輸入とも断言できない。
自治の伝統が法制上破壊されたのは明治維新である。日本古来のものはすべて旧弊とし、西洋のものはすべて…物質文明も法制度も…、すべてが正しいものとして取り入れられた。その中に三権分立の思想・制度があった。権力というモノは集中すると暴走し、圧政を生む。ドイツの小さな町、フランクフルト郊外のミフェルシュタットの博物館には、中世の市長室があり、市長の机のそばには首を斬るに十分な長大な剣が飾られていたように記憶する。この剣は行政・司法権を一手に握ることの象徴である。ヨーロッパでは長い間に権力の集中の怖さを学習し、対応策として、立法・行政・司法をそれぞれ独立させ、相互に監視させ、さらにそれらの権力を民に持たせることによって国民の平穏な生活を保障した。それを、明治政府は「未開」(イザベラ・バード著、日本奥地紀行に頻出)の東洋・日本に輸入した。
だが、当時の日本ははたして未開だったか。幕末から明治初期の日本を訪れ、旅をした欧米人は、我こそ文明人という誇りと東洋人に対する偏見を保持する一方で、清潔で美しい庭園都市日本、礼儀正しい日本人を記録してもいる。礼儀正しさとは、すなわち道徳国家日本を表わすものである。それを「未開」としか見ないとは何たる貧しい見方か。
話を元に戻す。東洋では古来、三権分立の思想はなかった。権力が王に集中することによる弊害は、王の徳を高めることによって避けようとし、それがずっと成功してきたのが日本であり、時々成功して正史に残したのが西隣の広大なクニであると私は思う。(黄鶴)

603日 「論語『暴虐』とおおさか維新」
そのとき、7歳の孫の食事中の姿勢が悪かった。いわゆる犬食いである。正しい姿勢で食べろ、と、爺は怒鳴った。すると即座に孫は、涙ながらに抗議した。
いきなり怒るな、何が正しいことか予め教えろ、教えられて、それでも教えに背くとき、怒るべきだ…。7歳なのでボキャブラリーは少なかったが、そういう意味のことを孫は言った。
確かにそうだ。教えずして殺す、これを虐という。令を慢(ゆるがせ)にして期を致す、これを賊という(論語:堯白)。孫の抗議は孔子の教えにもかなっている。
おおさか維新は、現職参院議員の浜田和幸氏を今夏の参院選挙で比例代表で公認していたところ、これを取り消した。取り消しの理由は、同氏が参院本会議を欠席したから。しかし同氏の5月30日付けオフィシャルブログにはきちんとした事情説明がある。それによると、欠席については正規の届出をしていて無断欠席ではなく、欠席の目的は「公党である『おおさか維新の会』の大阪市議団からの要請を受け、参議院選挙の全国比例公認候補としてあいさつに伺ったものです」「偶然が重なり、同じ日、大阪府議団の総会もあったため、そちらでも、その場でたまたま挨拶の機会を頂戴することになりました」とのことだ。要するに、おおさか維新の会の要請で参院本会議を欠席して大阪に行ったら、そのおおさか維新の会は、本会議欠席を理由に浜田氏の公認を取り消したのだ。これではだまし討ちではないか。報道では本会議を欠席して政治活動を行ったとしているが、事実は違うらしい。公認取り消しを受けて、浜田氏は離党した。当然だ。そんな党に残る必要はない。
おおさか維新の会は本来、公認の条件をあらかじめ具体的に明示しておき、それに違背する場合は公認しない、事後に発覚した場合は公認を取り消すとしておくべきだ。しかしこの会には、そういう罪刑法定主義のような基本的な法的考え方がないのが、この一件から見てとれる。常識ともいえる法的考え方を持たない党には法治国家運営に参加する資格はない。
ちなみに、おおさか維新の会HPを見ると、参院比例代表公認予定者17名の末尾には、旧みんなの党代表・渡辺よしみ氏の名前がある。あれやこれや、参院選挙の参考にしたいことが目に付く。(空)

602日 「高槻市議のネット利用状況 20165月末」
月末恒例の調査を行いました。議員のネット利用の状況です。毎月同じ調査をして、同じ報告をすることになるのが悲しいところです。変化があれば嬉しいのですが。
5月はブログ投稿数が減りました。4月は34人全員のブログ投稿総数が164でしたが、それが131になりました。とは言え、三井・吉田章浩・吉田忠則議員お三方の筆は健在で、3名で総数の3分の2を占めています。一方で、20人の議員がブログ0でした。フェイスブックがその代役になるケースもありますが。
総務省の調査によりますと、平成26年末におけるインターネット利用者数は1億人を越え、その人口普及率は82.8%です。年代別にみれば、98%にのぼる30代など若い人は言わずもがな、50代で約91%、60~64歳でも約80% 65~69歳の約70%、70~79歳の約50%、80歳以上の約21%がインターネット利用者です。このような趨勢なのですから、ネットを利用して自分の政見を訴えるとか、活動状況を紹介するとかがあって然るべきと思いますが、高槻市議34名のうち6名(30代1名、50代1名、60代1名、70代3名全員)がネットに関心を示していません。(白雲)

竹中議員のブログにご長女誕生のニュースがありました。おめでとうございます。子を持って初めて知る親の思い。その思いの集積である高槻15万世帯を対象とした市政の重み。今後のご活躍を祈念します。(白雲追記)

601日 「安倍自民の虚構」
すべて、ものごとは事実の礎の上に成り立つ。
事実を積み重ね、そこから統一的法則を導き出すのが学問である。それは自然科学だけではない。法律学も同様である。
証拠を上げて事実を究明し、それがどのような法律の条項にふれるのか、罪名罰条を明らかにするのが犯罪捜査である。
症状という事実に基づき、病名を考え治療をするのが医者である。症状に合わない薬では意味がない。
現に持っている才能という事実を見据え、それを伸ばすのが教育である。子どもを親の支配下に置いて親の欲や都合によって子どもの将来を決めるのは誤りである。
国内の経済実態・国際情勢などの事実を確認し、それに対する措置を的確に講じ、民の安寧を図るのが政治である。
世耕官房副長官が発言した。「サミットにおいて総理は『経済状況がリーマン前に似ている』とは言っていない」と。誰に指示されて発言しているのか容易に想像はつくが、リーマン前のような状況でないのなら、なぜ消費増税延期なのか。まったく論理的な説明ができていない。疑問がまた一つ増えた。アベノミクスは誤りでしたと正直に話し、別のグループによる別の政策に切り替えたほうが国家と国民のためになるのに。それとも世耕発言は、新興国はともかくとして世界経済全体はそれほど悪くないことにつき、遅まきながら世界の常識に合わせようということか。
事実に立脚して適切な政策を打ち出す、当たり前のことだ。それをしないで世界的経済危機という虚構の上にアベノミクス成功という虚像を結び、サミットの舞台でそれを国民に見せてミスリードを図る、その行為の果実は自民党の議席維持だけで国民の苦しみは癒されないまま。…あってはならないことだ。薬が違えば治る病気も治らない。(黄鶴)

531日 「消費増税再延期」
「衆参同日選、どうぞやってくれ」と昨日書いたら、今朝の毎日新聞の見出しは「首相 同日選見送り」だった。新聞と対話しているような気になるが、大新聞がこんな小ブログを知るはずもない。
しかし判らないことだらけなのだ。
参院選が消費増税再延期について国民の信を問うことに、なぜなるのか。再延期は党首討論では民進党が言い始めたことだ。それに首相が「選択肢の一つとして考える」旨、応えたのだった。では、再延期に賛成するとして、どっちに投票すればいいのか? 先に提案した民進党か、それに応じた自民党か?共産党も以前から増税には反対で、それはブレることなく一貫していた。三党が同じことを言っていては争いにならない。選挙の争点になりえない。したがって衆院選であろうが参院選であろうが、いまは選挙ではこの件について国民の信を問うことにはなりえない。
再延期が、なぜ2年半後の2019年10月なのだろうか。この先の経済がどうなるかわからないのに、なぜ明確に2年半後と言えるのか。いや、経済がどうなるかわからないのは庶民の見方であって、そのときまでに国家は適切な財政・経済政策の活用により増税に適した状況にするということか。では尋ねるが、これまで増税のできる環境にして来れなかった政党に、今後それが期待できるのか。今から3年先と言えば、次の参院選、統一地方選も終わっているし、衆院選に至っては何回あることか。この間、国家財政をどうするかという議論は封印されるが、それでよいのか。
再延期するとして、今後の国家財政はどうなるのか。歳出面では福祉の財源はどうするのか。歳入面では再延期したほうが自然増収がさらに増えるのか。そういう専門家の助言があったのか。あったとすればどのような公的機関がいつ助言したのか。そういうマクロ経済への影響よりも、単に自民党の議席数への影響のみをアウトプットとして、消費増税の時機如何という財政的課題をインプットしていないか。同日選の見送りも同じ流れの中にあるのではないか。
再延期するとして、国際的な評価はどうなるのか。円への信認は続くのか。アメリカの利上げと相まって、悪い円安に陥ることはないか。
私たちは、しっかりと総理・自民党のやることを観察することにしよう。足下が定まっているかどうか。政策が自民党と自分の理想実現のためでなく、国民の幸せに資するものかどうか。そういう確かな目を持ちたいものだ。1人でも多くの国民が。(黄鶴)

530日 「首相答弁」
国会における安倍首相の答弁を聞くたびに思う。これは答弁の名に値するのかと。
野党議員の質問を正面で受け取り、その問題についての周辺事情、過去の経緯や今後とるべき方針につき丁寧に答えた議論を聞いたことがない。議論のすり替え、長々とした自説の開陳、感情的対応ばかりだ。極めつけは「もっと国会運営について勉強してもらいたい」という見下した発言だ。これが国権の最高機関という場での与党総帥の言葉かと思うと、情けない。
そう思っていたら、5月28日毎日新聞朝刊・柳田邦男氏の「深呼吸」に「安倍首相の空疎な言葉」という評論が載った。核心を突く質問に答えない、論点を外した自説の展開、レッテル貼りという反応、高圧的態度など首相の答弁について、詳しい。この評論以上に的確に、私は書けない。
ただ、この評論は事実の指摘で終わっている。あとは自分で考えなさいということか。はて、どうするか。私は民主国家日本の国民である。主権在民の日本では、国民は主役なのだ。王様の下に、王様の定めた方針に無言で隷従する民ではないのだ。次の選挙で自民党を駆逐しよう。国民の声を無視した政治家のミスリードによって国が間違った方向に進んでいくのを、黙って見ているわけにはいかない。もっと国民の声を聞く政党を支持しよう。
衆参同日選、どうぞやってくれ。政府批判が2回もできるのは嬉しいことだ。(黄鶴)

529日 ぶろぐ日曜版「司法と行政の間に
江戸時代の享保6年、こんな記録が残されている。
「町中訴訟請願等、名主奥印の事
今日、大岡越前守様のお奉行所へ町中の町人1人ずつ召し呼ばれ候て、お渡しなされ候御書き付け、左のとおり。
一、 町中の訴訟・諸願い・出入りがあれば、今後はその住所の名主の奥判(文書の末尾の認め印)がないときは、奉行所ではこれを取り上げないので、その旨を心得るべきこと。
一、 名主が奥判するに当たっては、軽微な事案は名主において処理すべきこと。名主では処断が難しい事案の場合は奥判して奉行所に差出すこと。
一、 軽微な事案であって名主において処置すべきものを奥判して奉行所に差出した場合は、その名主を呼び出し、名主で処置しろと差し戻すので、その旨心得るべきこと。
一、 総じて名主の取扱いに理不尽なことがあったり、奉行所に差出すべき重大な事案を名主が奥判せず長期間放置した場合は、訴訟人はその次第を申し出ること。奥判がなくても取り上げる。ただしこの場合、名主は吟味の上、咎めるべきこと。
右のとおりの趣旨を今後は心得るべし。名主は奥判するに当たって依怙贔屓してはならない。また判の手数料を取ってはならない。もしこれに背く名主があれば、町中から訴えよ。必ず処罰する。
享保6年4月13日」(口語訳:筆者)
ここで名主とは、身分は町人の、最下級の町役人である。町役人は、まず江戸町奉行の下に3名の町年寄が任命されており、その下に地割役と名主がいる。町年寄と地割役は幕府から屋敷地と役料を与えられるが、名主にはそれはない。名主の役料は町内から徴収する。江戸八百八町と言われた町々の、2~3町あるいは十数町を所轄してその治安を維持するのが名主の仕事である。寛政3年には243人、明治2年の解職時に238人の名主がいた。
この記録から大岡越前による行政改革の状況をかいま見ることができる。それまでの大小さまざまな訴訟事案のうち簡易なものは、町役人のうち町人に一番身近な名主において処理するとして、町奉行の職を軽くし、同時に名主の職務執行において不正がないよう諌めてもいる。100万人の町人をすべて町奉行所に召集したとは信じがたいが、政治を執り行うに当たって一辺の文書を流して終るのではなく、町人一人一人に懇切丁寧に政策内容を説明しようとしている点が興味深い。(黄鶴)

527日 「議員の弁舌」
御島媼「今日は何の日かご存じか」
かえで「5月27日…、27、フナ、鮒の日」
御島媼「ほほほ。海軍記念日じゃよ。111年前のこの日、ロシアのバルチック艦隊を…」
かえで「古い~」
御島媼「わらわにとっては、ついこの前じゃ。」
かえで「800年も生きてればね」
御島媼「何百年も見ておるが、年々歳々、緑は美しい。若葉の季節じゃが、そなたの名は」
かえで「楓、かえでよ。そのまんま。今年は『わかば』と呼ばないで」
御島媼「万葉の頃は『かへるで』と呼ばれておったのじゃぞ」
かえで「蛙の手?」
御島媼「そ。そのとおり。『わが屋戸に黄変つ(もみつ)蛙手見るごとに 妹を懸けつつ恋ひぬ日はなし』」
かえで「どういう意味?」
御島媼「我が家の庭で紅葉する楓を見るごとにあなたを心に懸けて恋しく思わない日はありません」
かえで「わ~。恋の歌」
御島媼「ではなく、姉が妹に贈った歌じゃ。ところで、どうした?だいぶ、お疲れの様子じゃが…」
かえで「高槻市議会の本会議の映像、ね」
御島媼「ふむ」
かえで「ひさしぶりに、あれを見てて、疲れちゃった」
御島媼「どうして」
かえで「何を言っているのか判らない議員がいて、理解しようとがんばっているうちに、疲労困憊」
御島媼「言葉が難しい?」
かえで「ではなくて」
御島媼「何じゃ?」
かえで「名誉棄損になっては困るから、名は言わないわよ」
御島媼「公人じゃによって、そうはならぬと思うが」
かえで「原稿棒読み。強弱も抑揚もリズムもなくて」
御島媼「それじゃ、まるでお寺のお経じゃな。」
かえで「無駄な言葉が多くって。冗長で、何がキーワードなのか、わからない」
御島媼「1分で言える話を5分かける人って、いるね」
かえで「意味がつながっているひとまとまりの文章を、途中で切って読む」
御島媼「ほほ。聞く人は頭の中で文章をつなげなくては」
かえで「甲の割合が30%、乙の割合が20%、その差が…」
御島媼「10ポイント」
かえで「と、言うべきところを、その議員は10%と言うの。あれ?と思っているうちに話は次に進んでいる」
御島媼「あはは。正しい表現を考えているうちに次の部分を聞き落とすのじゃな」
かえで「専門用語は、たどたどしく文字を拾い読み」
御島媼「ふむ」
かえで「話し言葉を使えば判りやすいのに、わざわざ難しい熟語を使おうとする」
御島媼「まあ、そのほうがアカデミックかも」
かえで「その熟語が、自分でも使い慣れた言葉じゃないから、つっかえる」
御島媼「…」
かえで「つっかえる、読み直す、そのたびに聞く方は思考が停止する」
御島媼「そうか。まあ、いろんな議員がいるものじゃ」
かえで「いろんな、ではなくて、1人の議員の話なのよ」
御島媼「あらま。個性的~」
かえで「何が個性よ。公人ならば個性では済まない。大迷惑だわよ。そうそう、一つの法則を見つけた。あのね、1分間に2回以上の読み直しや言葉の詰まりがあると、聞きづらいの。1分間に1回なら、まあまあ。話に入って行ける。2分間に1回以下ならば雄弁に聞こえ、話に引き込まれる。」
御島媼「1分に1回、そこが閾(しきい)値ね」
かえで「22分の一般質問の棒読みの中に70回、つかえる、読み直す、これは19秒に1回の割合なのよ。これでは困る」
御島媼「あはは、数えたの!」
かえで「うん。あまりにも多いから。この原稿読み直しがね、ベテラン議員はあまりない。市の理事もよどみない答弁だわ」
御島媼「経験というものじゃな」
かえで「それもあるけど、生まれ持った資質ではないかしら。1年生議員でもうまい人はうまい」
御島媼「そう?」
かえで「竹中議員は20分に16回、2年生議員だけど平田議員は25分間にわずか5回」
御島媼「ほぉ」
かえで「雄弁をもって鳴る川口議員は24分間に12回。言い直しがあってもまったく気にならないで、話がすんなり心に響いてくる。宮本議員もほとんどない」
御島媼「自分の言葉なのじゃな、言ってることが」
かえで「久保議員もそうね。完全に自分の言葉。両久保議員とも」
御島媼「まあ、ほんとにお疲れ様」
かえで「この議員もお辞めになったら?まだ若いんだし。そうでなかったら、もっと弁論の術を学ぶべきよ。私、もう画像を見るのは止めた。議事録を読むことにしよう。文字なら、ざっと読んで大意がつかめるけど、画像はそうもいかないから。だらだらと見ておかねばならないでしょ?それに、10日以上も昔の話なら、画像にする意味もない。」
御島媼「うん。だけど、議員の資質の有る無しは、画像でよくわかるじゃろ。市民による議員評価の材料はできるだけたくさんあった方がよい。それに、議員がどうと批評してみても、議員のレベルを決めるのは、それを選ぶ市民のレベルによるという面もあるからなぁ」
かえで「そうね。ふわ~…。コーヒー飲もっと」

526日 「民営化は本当に良いことか 
PFI法にはいくつかの前提条件がある。その1は、公務員には無駄が多く経済的観念もないが民間はそうではない。その2、民間には資金と経営能力、技術的能力があるが役所にはそれがない。その3、民間には自主性と創意工夫がある。…という前提のもとにPFI事業が立ちあげられているのだが…。
しかしこれらの前提は正しいか。事実、世の中はそうなっているか。違う。その1。訳のわからない大きな建物を造って赤字を生んだ大阪府のような例もあるが、管見する限り今どきの役所に無駄はない。少ない予算を効率的に使うことに努め、一度出来上った実行計画もさまざまな角度から再度見直し、経費削減を図っている。その2。確かに民間には資金がある。カネを元手にカネを生むのが会社だから当然だ。しかし、経営能力は万全か。東芝は、シャープは、どうだったか。技術的能力についても、個々人の優劣は別にして、役所が民間に劣ることはない。であればこそ、最近の法改正ではPFI事業の遂行に関し役所から受注会社への技術者の出向を認めている。法が自己矛盾を露呈している。儲けにもならない仕事について民間は経験もノウハウも技術もないのだ。その3。民間に自主性と創意工夫があるのは当然で会社同士がそれを争っているのだが、役所もアイデア勝負の世界である。役所は、世の中に行政需要を見出し、言われる前に的確にそれに応えていかなければ存在意義を問われるのが今のご時勢である。そこには市民の意見や上司の指示を待っていては時機を逸してしまうおそれがあるほか、対応策として何をすべきか、最少の経費で最大の効果を挙げる政策を検討する作業があり、すべて創意工夫・自主性のカタマリなのだ。指示待ちの放逸組織もあるかもしれないが、私は知らない。
昔から国や地方は何をやってきたか。公権力の行使に関することは別にして、平たく言えば、公共性が高く、必要なことだが儲からない事業を税金を元手にやってきたのが役所だ。技術的に高度で役所にしかできないことも昔はあったが今はない。
一方、民間企業は利潤を生むのが使命である。そのために無駄を省き品質向上と低価格化にいそしんで競争に打ち勝つ。可能ならば寡占体制を作り有利な価格を設定して、しこたま儲ける。消費者はそれに甘んじるしかない。会社経営をやった人はご存じだが、赤字を出さない経営が出来て初めて一人前。そうなったら銀行もこちらを向く。
このような民間企業が、公共物を活用するPFI事業に本来的に適した存在だろうか。その答はライフラインを寡占化した企業が出現したとき、はっきり見えてくる。奇しくも日本でPFI法が成立した1999年、ボリビアで上水道を国際資本が運営することとなった。これは世界銀行に民営化を迫られた結果である。ここで国際資本は水道料金を値上げした。貧しい庶民はその料金が払えなくて悲鳴を上げた。当然の措置としてそういう家庭への水の供給は止められた。その結果、浄化されていない水を飲んだ人に死者が出た。
認可制にするとしても、寡占化が進めば料金はPFI事業者の思うままになる。競争のない状態に陥った時、低廉かつ良好なサービスは、より大きい利潤を求める民間会社には期待できなくなる。人の生活に絶対的に必要なものは、企業による儲けの対象にしてはならない。そのあたりが役所と民間会社の住み分けの境界ではないか。(黄鶴)

525日 「民営化は本当に良いことか 
浜松市が下水道事業の一部を民営化することを決めた。これは本当に慶賀すべきことだろうか。役所の事業と民間の仕事との境目が最近は曖昧になってきたが、本来はどのあたりにするべきだろうか。今の情勢下ではどうだろうか。民営化によって弊害は生じないだろうか。
まずは制度の説明をしよう。「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律」というのがある。一つの文章の中に「等」が三つもあって煩雑なのだが、内容を正確に表すためには、こうしか言えないのだ。この法律は、民間の資金、経営能力や技術的能力を活用して公共施設等を効率的かつ効果的に整備することを目的に制定されたもので、略称はPFI法(Private Finance Initiative)という。以下、本稿ではこの事業をPFI事業と称する。浜松市の下水道民営化事業はこの法律に基づいて実施されようとしているものだ。ここで「効率的に」とは、国民に対する低廉かつ良好なサービスの提供を、民間の自主性と創意工夫を尊重することによって確保することを意味する。
PFI事業の対象は、この法律によって次のように定められている。
① 道路、鉄道、港湾、空港、河川、公園、水道、下水道、工業用水道等
② 庁舎、宿舎等
③ 賃貸住宅及び教育文化施設、廃棄物処理施設、医療施設、社会福祉施設、更生保護施設、駐車場、地下街等
④ 情報通信施設、熱供給施設、新エネルギー施設、リサイクル施設、観光施設及び研究施設
⑤ 船舶、航空機等の輸送施設及び人工衛星(これらの施設の運行に必要な施設を含む)
このPFIという制度が初めて導入されたのは1990年代のイギリスで、小さな政府を目指したサッチャー政権が公共政策の中に民間の資金や能力を取り入れようとして始めたものだ。それが財政赤字に悩む日本にも輸入され、1999年に上記のとおり法制化され、部分的修正を経てきたものである。この法律に基づき、高知県、近江八幡市、八尾市、東京都が医療事業を行っているほか、松山市立小中学校の空調整備事業、神奈川県の体育センター再整備事業、福岡県の海の中道海浜公園宿泊施設管理運営事業など多種多様なPFI事業が行われている。高槻市においても、市民会館建て替え懇話会で管理運営の一方法として話題になっているほか、現に安満遺跡公園の全天候型屋内施設の運営事業者の募集が行われており、身近な場でのPFI事業の出現は目前に迫っている。(黄鶴)

524日 「被選挙権の年齢引き下げ」
選挙権が18歳から与えられるよう70年ぶりの制度改正がなされるのに対し、被選挙権の年齢も引き下げるべきだとの声が各党にある。市民の間でも議論の価値がある話だ。
被選挙権の現状は、参議院・都道府県知事が満30歳以上、それ以外の衆議院・都道府県議会・市町村議会・市町村長が満25歳以上となっている(26歳の場合、大阪府知事にはなれないが衆議院・総理大臣にはなれるのがおもしろい。実際はともかく、法制上はそうだ)。これを選挙権年齢の引き下げに合わせて引き下げるべきという意見だ。
いま、選挙権と被選挙権の年齢が同じではないのは、20歳になったら大人として政治に参加する権利を得て、投票はできるけれども、議員なり首長なりになるにはそれ相応の資格要件があって、その要件を満たすにはある年限を要するという趣旨からだろう。常識的な話だ。
選挙権年齢を引き下げる今、被選挙権に関するその資格要件に変化はあるか。例えば法的知識、社会人としての経験、一般教養、そういう必要条件が緩和されるか。変化はない。議員・首長に求められるものは変わらない。だから引き下げの必要はないということになる。
素直に思うことは、若くて大丈夫だろうか、ということである。22歳の自分がどのような人間であったか、恥ずかしいとしか言えない。社会公共のことなど考え及ばす、自分の世界しか見えていなかったように思う。関西選出の衆議院議員を見ても、問題を起こして辞めた議員や党から追い出された議員には若い人が多い。しかしこれは年齢というよりも本人の資質の問題である。高槻市議の若手はどうか。若いからと言って排除できない優秀な議員がいる。そこは人それぞれであり年齢ではない。
制度的に若い人の政治参加の道を閉ざし、政治への関心を殺してしまうのはよくない。若いからと言って法律を知らない訳ではない。仮に知らないとしても、必要性を感じた分野の学門はその気になればすぐに身につく。歳をとっても法を知らない人はやっぱり知らない。知ろうともしない。ネットにも触れず新しい技術も受け入れず、それでも議員を務めている人はいる。支持する人が多ければ、それでいいのだ。それが民主主義の政治だ。ならば若い人が多くの若い人の支持を得て議会に行くのもよいではないか。被選挙権年齢が引き下げられた新しい制度のもとで、政治に目覚めた多くの若者が育っていくかもしれない。そうやって日本全体の政治レベルが向上するかもしれない。望ましいことだ。一部の政治家には愚民政治の方が望ましいだろうが。(黄鶴)

523日 「公約に忠実な議員」
3月議会の質問が、公約の実現を図るためのものであったかどうかを観察し、表にまとめました。「2 市議会という舞台で 第二部 …公約を果たそうとする姿勢」をご覧ください。
この表の作成にあたっては、多少なりとも公約に触れる文言を含む質問、公約と同じ範疇にある問題意識を示す質問は、これを公約の実行をめざすものと理解しました。これらは質問を聴いた市民の判断ですので、ご本人の意図に外れた理解があるかもしれません。
調査結果から見ると、各会派とも代表質問においては網羅的に公約にふれた主張をしていますが、一般質問を合わせた総合的な攻め方を見ますと、無所属議員(代表質問なし)と共産党議員が最も公約に忠実な議論の展開を試みており、公明党がこれに次ぐ存在となっています。民進・元気ネット、市民連合は公約に沿った一般質問はありませんでした。ただし、ここでは委員会での審議状況と本会議における議案質疑の状況を加味していませんので断定はできませんが、大まかな傾向はこのとおりであろうと推測しています。なお、議案質疑などの公約との関連も、追々調査したいと考えています。(白雲)

本件に関連して感じることがある。改選前の議会においては、概ね質問の多い議員は内容的にも重い質問を発しており公約にも忠実な質問が多く、このため質問数をもって議員の仕事量、すなわち評価の対象としてきた。しかし改選後の状況を見ると、必ずしもそうとは言えなくなった。公約に関係すると言えなくもないがそれが市民の福祉とどう関係するのか不明の質問、3か月の準備期間があったのに他人から借りてきたとしか思えないレベルの質問、市政に賛成の意思だけ述べる質問(質問という名に値しないが)、そんなものが多く目に付く。評価に値しない時間が本会議場で流れるのを見る時、これが税金をもって支弁される場所なのかと、空しい思いにとらわれる。(空)

522日 ぶろぐ日曜版「江戸の福祉政策
困窮者に対して自ら援助活動を行ったのみならず、江戸幕府は住民同士の助け合いも奨励している。
享保17年には西国が虫害に遭った。このとき飢民に金銭や食料品を差し出した者(名前の記録なし)に、幕府は銀を与えた。
また天明3年には奥州伊達郡高子村に住む庄屋の宇右衛門に対し、幕府から銀十枚が与えられ、苗字帯刀が許されている(帯刀は一代限り。苗字は子孫に至るまで)。本件は、右衛門を賞すべきだとの村人の訴えにより、領主の松平陸奥守から幕府の勘定奉行水野出羽守あて「先代から百姓をいたわり、年貢が滞らないように援助し、宝暦5年の凶作に際しては村人に粥を与え、明和3年の不作の年には村人へ麦30俵を与え、長病に伏せっている者には医者を派遣し、相続ができない者には金子7~8両を与えるなど奇特なことにつき、できることなら相応の褒美を下されたい」という上申書が上げられ、これに幕府が応えたものである。
弘化2年、江戸の青山に大火が起こった。このとき幕府は御救い小屋を建て、火災で借家を失った者に仮の宿を与えた。彼らは当座の宿を得たものの、その後の独立のための資金がなく困っていたところに各町会所からの金銭の寄付があり、市民はこれによって再出発が可能になった。このため幕府は各町の名主に対し、金50両を拠出した名主には銀3枚、30両から45両を差し出した者には銀2枚、20両から25両までの者には銀1枚が下され、20両以下の者には町奉行からお褒めの言葉が出されている。この時の町奉行に遠山左衛門尉の名前が見える。
安政6年には次のような褒賞があった。「新吉原町江戸町二丁目七左衛門地借り、茶屋渡世 森田屋かつ その方先代以前から53年の長きにわたり、網代笠や木綿頭巾などを非人へ施し、その代金は398両2分にまでなっている。これは渡世の職業の者にしては奇特のことである。よって褒美として銀5枚を取らせつかわす」
江戸時代とは何であったのか。群盲象を撫でるに等しいもの言いになるが、250年という長期間、安定した社会生活が営まれていた時代であったと言える。例えば金1両の価値は、江戸初期では現代の約10万円、後期には4~6万円であり(*)、物価騰貴率は平均年率0.3%にも満たない。例外は天明・天保などの飢饉の年や幕末の動乱の時代である。
(*)http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/1ryou.pdf
それほどまでに安定した社会の中にあって、人々は、必ずしも全員が豊かではなかったが、そしてもちろん人間社会のことだから非難すべき行為もあったが、基本的には共助・公助の中で平穏な生活を送っていたと私は見る。〈この項終り〉(黄鶴)

520日 「小林節講演会」
お名前が「こばやし せつ」さん。夙に有名な憲法学者の講演会が高槻で行われた。主催は「戦争させない!高槻・島本実行委員会」。
憲法講話というよりも話の大半は既に新聞等で明らかにされている(しかし国民の多くが見過ごしているところの)憲法違反の戦争法などのアベ政治の異常さであったが、私には耳新しい話が幾つかあり、蒙を啓かされた。
その一は言論弾圧に関し今や大学までもがアベ政治批判の論を自粛し始めたということだ。大学の名の下に氏の論を公開しようとすると事務局が止めに入るという。
その二は北朝鮮・中国の脅威。氏は言う。北朝鮮は、もし日本を攻撃したら1~2週間のうちに自国が消滅する、そのことを十分わかっているから決して攻撃しない。中国は専守防衛のしっかりした国には手を出さない、過去に台湾やベトナムに手を出したが失敗した、ウィグル・チベットは非武装だったから占領された。自民党の言う両国の脅威はウソだ。
その三は国会の本会議における自民党の異常さ。安倍首相の演説が終わると、自民党議員はスタンディングオベーションだと。まるで北朝鮮、中国の風景。
私は思う。まず、その一に関して。大学は学問の府である。そこでは自由な研究と闊達な議論がなければならない。時の政府にすり寄って、何が学問か。言論の自由のないところは既に大学ではない。このような体たらくでは日本の学門は、いずれ死ぬ。その三については、安倍王国の異常さはまさにそのとおり。これを内から糺す議員が自民党には何故いないのか。国の行く末よりも総理のおかげで議員として歳費をもらえる自分の身の安寧しか考えていないということか。その二に関しては、百年単位で物事を考える中国の脅威はもっと厳しく見ておくべきだと思う。尖閣・沖縄を百年後には自国領にすることを中国はもくろんでいると見たほうがいい。まあ、中国の脅威はともかく、小林節さんの話は総じて真実を突いていて国民のすべてが傾聴すべきである。間違っていることは間違っているとして、国民はそれを一票に託すべきなのだ。
「相対多数が絶対多数になる今の選挙制度は誤り。単純比例代表に改正を」「とりあえず安倍政治をやめさせよう、そのために知恵と努力を」という呼びかけで講演は締めくくられた。氏は今、野党共闘の音頭を取っておられる。幕末の坂本竜馬を彷彿させる。氏のご活動が実を結び日本の政治が正道に復帰することを切に願う。(黄鶴)

519日 「専門家に聞いて」
5月18日の党首討論を聞いて唖然とした。安倍総理は来年4月予定の消費税増税の先送りにつき、岡田民進党代表に「専門家の議論を経て適時適切に判断」、共産党志位委員長に「リーマンショック同等の状況か否か専門家に分析を」と述べた。この発言の中にいくつかの政治上の危惧がある。
まず、国家の重要な経済政策についての決定を、最終的な選択は政治家がやるにしろ、分析・検討の主体は政治家ではなく経済の専門家に任せるのかという疑問がある。私たちは選挙で政治家を選んで議会に送っている。その選良は経済を含む様々な分野の問題について判断能力をもつゼネラリストのはずという期待がある。「経済のことは私にお任せください」と言った総理も昔はいた。調査分析・議論という結論を導き出す過程のすべてを専門家に任せてしまっては、政治家の存在意義がない。私たちは国の行く末を選挙の洗礼を経ない専門家に任せた覚えはない。政治家自身がその種の専門家であるべきだ。党内に各種の専門家でもある議員を備えるべきだ。専門を持たない政治家は要らない。
次に、専門家と言われる方々も、ものの見方には意見が分かれる。例えば、為替レートは今後円高に進むのか円安に向かうのか、アメリカの政治力で円高が進むという説もあり国債増発による日本経済の弱さが円安を招くという見方もある。自民党政府にとって都合の良い見方・不利な見方の両方が併存する。そのとき、どっちを採用するのか。そこに恣意的な選択はないと断言できるのか。
さらに問題がある。仮に専門家の意見を聞くのが必須だとしても、このような重要な課題について、なぜ党首討論の昨日まで専門家の意見を聞いていないのか。専門家を引き合いに出すのは議論から逃げているとしか思えない。
いつだったか、国会の審議の場で「重要な問題ですので局長に答弁させます」と言った大臣がいた。専門家に丸投げする手法は、この発言に等しい。どうやら私たちは、素人に政治を任せているらしい。
それともうひとつ。報道によれば、やはり衆参同日選は「視野にある」ようだ。解散のカの字はあるのだ。しかし何が争点なのか。憲法問題からは自民は逃げている。消費税先送りは民進党が提案していることだし、先送りについての民意を自民が問う解散ならば、それに賛成するとして誰に投票すればいいのだろうか。(空)

518日 「タックスヘイブン 関電は?」
いわゆるパナマ文書が世を賑わしている。世界中のお金持ちの企業や個人が、タックスヘイブンの地、つまり税率の低い国や地域に設立されている企業に投資し、そこで資金を運用することにより節税している状態を示すパナマの法律事務所の文書がリークされた。
これに関連し、毎日新聞出版のエコノミスト誌は独自に、有価証券報告書からこうしたタックスヘイブン地にある会社と資本関係のある日本の企業を調べ上げた。その結果、50社余りの企業がリストアップされた(エコノミスト5月24日号)。
その企業には、商社、銀行、海運空運などのほか、電力会社として東京電力HD、関西電力、九州電力の名前があった。東京電力HDはバハマに子会社3社、ガーンジーに関連会社1社、関西電力はバハマに子会社3社、九州電力はバハマに子会社1社をもっている。バハマはフロリダ半島の沖、キューバの北にある人口約38万人の島国、ガーンジーはフランスのシェルブール近くにある幾つかの島から成るイギリスの属領である。いずれもケイマン諸島などと並び tax haven の地として有名だ。
前置きが長すぎた。本論に入る。日本企業がタックスヘイブンの地に子会社を作ったとしても違法ではない。取材に対し各社は「租税回避のための子会社ではない」などと主張していると記事は伝える。しかし、公共性の高い電力会社がそういうことをするのは、しっくり来ない。あなたはどう思われるだろうか。
そもそも税とは、社会を支えるための分担金である。この社会を構成する者は、個人も法人も能力に応じてこれを納める義務がある。皆がこれに背を向けたら、国も地方も立ち行かない。(…現実には富裕層や営利企業の節税活動は盛んで、まじめなサラリーマンはやりきれない思いが強いのだが、それはそれとして…)電力会社は普通の企業とは違う。公共性の高さゆえに安定した経営が予定されており、料金設定については会社が赤字にならない構造になっている。火力発電の燃料が値上がりした等のコストがかかればそれをそのまま料金に賦課できるのだ。利用者はその料金について注文をつけることもできない。電力は自由化されたが、まだ利用者にとって電力会社選択の自由度は低い。利用者に料金の決定権はない。
電力会社の都合で料金を決められるほどに優遇されながら、一方でタックスヘイブンの島に子会社を作る、これが異常なのだ。節税のための子会社とは会社は広報していないようだが、節税以外に何の目的があろうか。公共性が高く経営の安定を法律で保障されている会社であればこそ、率先して国を支えるべきだ。それが租税回避の動きを見せている。料金支払いを通じて国民に支えられていながら、国というシステムを支えることを他人に任せ、自分は逃げる、これがおかしい。ムラ社会では昔、有力者は寺や神社を建て、祭に金銭を寄付した。飢饉では飢えに苦しむ人に米麦を配った。そうして納められた年貢の再配分に努めた。その道徳律が江戸社会を300年の長きにわたり安定させてきた。いま、どうか。(黄鶴)

517日 「某国制服警察官、外国で活動」
一週間前だが、某国警察官が、イタリアで爆買いする自国人のトラブル防止のために試験的にイタリアで活動するというニュースがあった。
ある国の領域において他国の警察官が制服を着て警察の仕事をする、これは主権の侵害である。警察権・裁判権は自国の領土領海領空の中でしか行使できないとするのは、近代国家の常識だ。例えそれが自国民のみを対象とする活動であっても他国の国内で行えないのは当然のことだ。当該国の了解があったとしても、その了解自体が無効である。当該国の警察官と共同で活動するとしても、それは言い訳にはならない。戦乱等の非常事態に際して相手国の同意のもとに自国民保護のための軍を派遣するのとは全然性質が違う。
試験的に行われるということだが、たとえ試験的であっても認めた段階でその国は主権国家ではなくなる。モノが売れるという経済的利益のために主権を売り渡すとは、イタリアよ、君もファウストか。スイスに行くと面白い。横断歩道を渡ろうとして手前で立っていると、その前を車が通り過ぎるのはイタリア語圏、歩行者を優先して車が停まるのはドイツ語圏。上海では信号を守る人は少ない。なにか、似通っている。気が合う民族かもしれない。
しかし、このような主権侵害を認める先例を作るのはよくない。人は国の中で法の下に整然と活動する。国も世界の中で国際法の下に秩序ある行動をとるべきだ。経済力を武器に弱小国をねじ伏せ、自国のやり方を国境の外でも押し通すことを世界は何と見るか。そこではグロチウス以来の国際法・数世紀にわたって築きあげてきた国際秩序は無視される。この国は南シナ海でも国際司法裁判所の判決を等閑視しようとしているが、これも同じ思考の流れにある。世界が口をそろえて、その非をあげるべきだ。当事者ではないから言いにくいのなら、少なくともイタリアに主権維持の忠告をすべきだ。
試験的になら許せるか。試験的に違法行為をする者はいない。(空)

516日 「舛添会見」
あの釈明会見を聞いて立腹しない人がいるだろうか。家族旅行に政治資金を流用し会議費として処理したことを追及され、家族旅行のための部屋で誰とどのような会議をしたのかについて質問されたとき、現職都知事は言った。「政治の機微にかかわることであり、プライバシーもあるので答えは差し控えさせていただく」と。
舛添知事は優秀な人である。たしか若いころはフルブライト留学生でもあった。その優秀な人が論理矛盾そのものの発言をした。都知事としての会議なら公的行事である。なぜそこにプライバシーが入るのか。誰が出席したのか、なぜ明らかにできないのか。公的行事なら納税者にすべてを公開する義務がある。幕府には秘密にしたい薩長同盟のような、今はマスコミには言えない話でもあるのか。
知事は関連の経費を返却すると言う。これも質問があったが、返せば済むのか。刑事責任は残っている。政治資金に関する報告書を提出する際、虚偽の記入をした者は5年以下の禁錮または100万円以下の罰金刑となっている(政治資金規正法第二十五条三号)。この条文の「記入をした者」とは、必ずしも会計担当者に限らない。会議費として書けと知事が指示したのなら知事の教唆犯になるし、虚偽の記入について共謀があれば知事も共同正犯になる。この点はどうなのか。知事の責任につきまだ疑いはある。それとも少額だから微罪処分としてお咎めなしになるのか。10円20円ではない。数十万円の金額である。それが少額とは庶民感覚には合わない。
また、正式な会議なら都側の出席者(知事単独はあり得ない。必ず秘書は帯同する)は出張旅費を出しているはずだが、そっちはどうなっているのか。これも返却するのか。
知事はこうも言った。「責任については、有権者の判断に任せる」と。しかし有権者はいつ判断するのか。リコール請求は相当の人数が要る。次回選挙で舛添知事が立候補しなかったら、有権者はノーと言う機会もなくなる。逃げ口上に過ぎない。
会見で知事はしきりに水を口にしていた。舌が二枚あれば、それは水も必要でしょうなぁ。(空)

515日 ぶろぐ日曜版「江戸の福祉政策
前回までに述べていた御救い小屋・御救い米などは、大火や飢饉における臨時の措置であるが、これ以外にも定常的な窮民救済政策が実行されている。
その一は生活困窮者対策で、享保の頃、町々において飢えに苦しむ者があれば米を与え、地代家賃が払えないものには地主家主において当分の間これを容赦(原文では「用捨」と記す)するよう町奉行から名主に達しが出ている。また、天保の頃、町に行き倒れの者が多くみられるようになったので、穢多頭弾左衛門構内に小屋を建てて介抱するよう、またこのような行き倒れの者を見たら他町に追い払うことをせずその町の名主から奉行所に届け出るよう、これも町奉行からお達しが出ている。その一方で、幕府財政の厳しいときには民間活力を当てにしたときもあり、寛政4年、窮民に対して町内の積立金で手当てせよと命じている。この場合の窮民とは、70歳以上で夫や妻に別れ手足も不自由で養ってくれる子もなく飢えている者、10歳以下の孤児、若くても長病で身寄りのない飢えた者と限定されている。
その二は疫病対策で、小石川養生所は時代劇でも知られているとおりである。ここでは、極貧で薬も買えない者、独身で看病人がいない者、妻子はいるが全員が病で養生できない者が対象で、そのような者は四つ(午前10時ごろ)から七つ(午後4時ごろ)までの間に養生所まで来れば、担当役人で吟味の上、逗留させて衣食や薬を与えることとなっている。その場合、歩行困難な者は、家主や親類、隣人を頼れと町の名主あて通達されている。ただし、このお達しの翌年には、役人の吟味を恐れて病人を連れて来ない家主がいるから吟味はもうやめた、看病人がいない者と限定していたが極貧であれば看病人がいても収容するから遠慮なく来いと、通達が改正された。
またこれは定常的とは言いかねるが、享和2年に風邪が流行った際、稼ぎが無くなった日雇い労働者に対して、1人300文ずつ支給されたことがある。(黄鶴)

〈ブログ休載のお知らせ〉 管理人旅行中のため5月14日までブログは休載します。

508日 ぶろぐ日曜版「江戸の福祉政策
②に触れたように、江戸の御救い小屋では賄用の小屋が併設され、食事も支給されていた。その上、家業を始める元手の資金も支給された。至れり尽くせりの窮民対策である。この御救い小屋は江戸の制度を見習って地方でも設置された所があるようだ。元禄15年の土佐は7月も8月も台風に襲われて米がとれず、翌年春には窮民が町にあふれた。このため山内家では御救い小屋を建て、蔵を開いて炊き出しをした。収容した数は2千余人。しかしこの御救い小屋を頼ったのは家を失くした人たちであり、家や田畑を持っている人たちは、食べるものがなくなっても小屋に入ることを恥じ、餓死するものが少なくなかったという。
何もしなくても食事にありつけるのは有難い。できることなら長逗留したいのが人情だろう。しかしそれでは幕府の財政にも影響するし本人の自立も期しがたい。そこで町奉行は、肝煎り名主に次のように命じている。「この御救い小屋は、家を失った者が当分の間雨露をしのぐために建てたもので、際限なく住むものではないこと、日限が来たら出なければならないことを、あらかじめ得と言い聞かせておけ。その場になって急に出ろと言われても困るだろうから。」
この日限について、町奉行や勘定奉行が相談した文書が残っている。それによると、「文化3年は30日ほど、天保4年は55日という前例があったので、天保5年の今年は、48日となるこの3月末日までにしたい」というものである。ちなみに天保5年3月30日は、新暦に直すと5月8日、今日である。暖かくなるまで寝食を保障しようという心が窺える。このあたりが江戸の行政官の心髄だと思う。現代の市会議員や如何に。
弘化2年2月に建てられた御救い小屋には定め書きが掲示してあった。そこには日限は30日とあり、その時になって難渋しないよう今から住まいなどを捜しておくこと、火の用心は厳重に心付け申すべきこと、酒は一切用い申すまじきこと、喧嘩口論・男女相互に行儀相謹み老人子どもには特別にいたわるべきこと、病人が発生したらすみやかに申し出ること、以上の趣を堅く守り、もし心得違いがあるときは小屋を出すことを命じる、と書かれていた。(黄鶴)

506日 「質疑数まとめ」
遅播きながら、高槻市2016年3月議会の質疑・質問数をまとめました。「1市議会という舞台で 第一部」と「7基礎資料」にそれぞれグラフと基礎データを掲載してあります。
ネット放映効果、とでも言うのでしょうか。データの上では質疑・質問数に若干の変化が見られます。昨年12月から始まった本会議のネット放映ですが、その12月議会では一般質問の数が24人という近年にない記録が生まれました。2016年3月議会では、一般質問は17人に落ちましたが、本会議での議案質疑数が2015年の議会の2~3倍の45件に増えました。この結果、1議会1人当たりの質疑・質問数は、2015年6~12月議会は1.0~1.4回であったものが、2016年3月は1.8回に増加しました。
なお、3月議会では本会議での質疑・質問数が3回以上の議員は10人でした。(白雲)

505日 「衆院解散?」
解散のカの字もないと首相はいう。公明党山口代表も「衆参同日選はない」という。
だがしかし、そういう言説が増えれば増えるほど、私は解散を疑う。昔から、国会解散については総理は嘘を言ってもよいとされており、「現時点ではそう思っている」と限定をつければ嘘ではなくなる。山口代表の発言も、与党幹部としての彼の役目は「解散はない」という噂を広めることであると考えれば合点がいく。それを伝えるマスコミにも同じ役目が課せられているのだろう。こうして噂が定説となれば、解散の可能性はそれだけ高まる。
国会解散については、意外性が勝負のポイントだろう。突然のビッグイベントに国民は新鮮さを感じ、選挙への関心も高まり、自民党の得票率も高まる。そして準備不足の野党は慌てふためく。与党にとって、突然の解散はなにもかもが有利に働く。
しかし、いま解散の時機か。一野人が心配してもしかたがないが。九州では地震が衰えを見せない。地震は既に群発地震と呼んでもよい状況だ。今後、中央構造線に沿って東西に広がって行くことを、誰も否定することはできない。まさに国難のときである。経済的にも、いま急激な円高に見舞われている。わずか2日間で111円台から105円台に値上がりした動きから少し落ち着きを取戻し、本日5日09時現在、107円ほどだが、昨日今日の動きは荒い。円高とは、自然現象の台風や嵐のように時を待てば収まるというものではない。経験則はあるが終息について正確な予測の不可能な外国資本による日本攻撃である。攻撃によって日本産業が危難にさらされている、こんなときに政治空白があってよいのか。ただ、諸々の過ちを正すには早い方が良いということはある。前回の衆院選からわずか1年半で、政治の安定性を損ね国際的な評価を落とすかもしれないが、改めるに憚るなかれ、である。
政治が誰のためにあるのか。国民のためという認識があるのなら解散はないだろう。明治ノスタルジーの(?)自分の理想を実現すること、参議院で多数を得て改憲に突き進むことが第一優先事項ならば、解散はあるのだろう。(黄鶴)

504日 「みどりの日」
「緑の日」ではなく「みどりの日」である。ひらかなの方がものやわらかな新芽を思わせて、心地よい。そういえば、嬰児を「みどり児」と読むのも、産まれたばかりの柔らかい松の若葉に由来する。
人が緑を渇望するのは地球上どこでも同じらしい。アフリカの砂漠の国では、砂に水をまき、緑を育てる。それがレストランや豊かな家の庭に在る。水は、その国では化石水と呼ばれるものが地下深くに眠っていて、それを汲み上げているのだとか。今は砂漠でも気候変動以前の遠い昔は緑の大地であり、その時代に貯えられた水らしい。その地方では緑は豊かさの象徴だ。ただ、そんな緑の庭の多くは盗難防止のための高い塀に囲まれていて、外からは見えない。
ハワイの格式の高いホテル、ロイヤル・ハワイアン・ホテルのスウィートルームは、陸側の緑の庭に面している。海側ではない。アメリカの港から1週間、あるいは極東の港から2週間、海の青ばかり見てきた人には、木々の緑が何よりの安らぎになるのだ。
転じて。政治の世界でも緑は好まれる。かつて参院には緑風会があった。参院の独自性を推進した母体として存在感を示したと聞く。しかし政党化の波に呑まれ、構成員は次々に与党に入り、緑風会は衰退した。今、ドイツには緑の党が、日本にも同名の党があり、いずれも環境保護を訴える。しかし、環境だけでは人間はメシを食っていけない。生活の柱となる生業が要る。緑だけでは弱い。党として成り立つには、産業政策の強さと環境保護の優しさ、その両者のバランスのとれた政策が必要なのだ。(黄鶴)

503日 「憲法記念日」
なんと白々しい憲法記念日であることか。
昔は静かに第9条の意味を考える日だったような気がするが、今は違う。9条をめぐって下界では多数派の護憲主義者と少数派の改憲主義者がぶつかり合い、その上空で権力による憲法解釈の変更が堂々と行われている。改憲についても、内容はどうでもよくて改憲という足跡さえ残すことができたら満足という愚論が存在すること、解釈変更で何でもできる世の中での改憲論議の虚しさ、解釈変更という政治の動きに何の抵抗も示さない事務関係部局の骨のなさ…。憲法にまつわる白々しさがあちこちに見えてきた初めての憲法記念日であり、まさに「記念日」というにふさわしい。
毎日新聞は、憲法解釈変更について、法制局に記録がないことをすっぱ抜いた。大新聞は私は信頼するところではないが、この仕事だけは称賛する。解釈変更の根拠のなさを国民の前にさらした意義、憲法の重さを国民に考えさせた意義は大きい。そして関係公務員の弱さを示したことも。
公務員は調査企画、政策の提案が仕事で、政策決定は政治の仕事である。政治家である大臣の決定には従う義務が国家公務員法により定められている。ではあるが、当然ながら職務上の命令以外の命令に従う必要はなく、公務員は国民全体の奉仕者として公共の利益のために働く者である。根拠のない解釈変更を進めることは公共の福祉を増進することに反する、国民のために働くことにはならないとして、ノーの姿勢でもあったら、白々しさは軽減されていただろうにと思う。立場の難しさは理解できないでもないのだが。
今からは私たちは何をすべきか。まっとうな憲法論議が地道に進められるかどうか、そして政治がこの民意に従うかどうか、それを見極めて次の選挙に活かすことではないか。あらためて自分の方向を定める、そんな記念日にしたい。(黄鶴)

502日 「ネット利用状況 4月末」
毎月末の定例作業ですが、高槻市議会議員によるネットでの広報状況を調べました。
公明党インターネット三羽烏、すなわち吉田章浩・吉田忠則・三井泰之議員の積極性は衰えを見せません。内容的に濃淡はありますが、日々市民に向かおうという熱意・気迫が感じられます。敬服します。すばらしいものは素晴らしいのです。
逆に、若くてエネルギーに満ち溢れているはずなのに、竹中議員は4月中まったくブログ利用経歴がありません。他の面での政治活動があるのだろうとは思いますが、選挙前のチラシ配布&ネット利用状況と比べて、その格差の大きいことに意外な感じがしました。自分の持っている鑑に照らして、今の政治状況に曇りはないのでしょうか。市民に訴えたいことは、1か月間何もなかったのでしょうか。公職にある者が、それで職分を果たしていると言えるのでしょうか。これは発信の少ない他の若い議員も同罪ですが。
第2名神と接続する高槻インターチェンジの工事において、橋桁架設中の作業ミスにより新設橋桁が既設橋桁とボルト穴が合わず、しかたがないので既設橋桁にボルト穴を新たに開けてボルト締めしたところ、接合部が変形した、だから変形部を現場で切り取り修正した、こういう事実を高木隆太議員のブログで初めて知りました。この件は、市のHPにはありませんが、NEXCO西日本のHPには関係資料が公表されていました。NEXCOとしては恥をさらすことになりますがきちんと情報公開する、この点は偉いもんです。感心しました。そして、市民に影響しかねない情報はきちんと提供する、これも市会議員の望ましい態度の一つであり、それを果たしている議員は有難い存在と思います。(白雲)

501日 ぶろぐ日曜版「江戸の福祉政策
江戸時代、米価が高騰したときは窮民へ米を配った。これを御救米といった。
天保2年2月、3歳以下の小児は除き、男1人につき白米5升、60歳以上15歳以下の男並びに女1人につき3升を配った。このほか、天保4年、同7年に同様の御救米配給があった。ただ、天保7年においては、米銭半々とし、男1人につき支給する米は1日2号5勺、残りは米の市中価格が銭100文につき米6合であるとの理由から1日に銭40文、これを10日分支給した。60歳以上15歳以下の男並びに女には1日につき米1合5勺、銭24文であった。
支給総量はどれくらいか。天保2年においては、人数27万8353人に対し白米1万395石8斗7升(約1559トン)であった。仮に白米1㎏400円とすると約6億円の給付となるが、米価高騰の時期だけに幕府としてはもっと多額の財政措置だったにちがいない。なにしろ1万3千石の大名の年収分を放出するのだから。
この米は普段はどこに貯えていたのか。それは町ごとに「囲籾」があり、それを摺り、白米に搗いて配れと指示が出ている。指示書には当時の町奉行2名と勘定奉行1名の連署がある。
米価高騰とはどのような状況なのか。江戸中期においては、通常は米1石が1両と思って差し支えない。それが、天明7年には1石3両2分(別の記録ではピーク時に1石5両2分)となった。一揆も起こるというものだが、物価が急激に3倍になったとして、現代人はどうするだろうか。蓆旗を揚げるだろうか。
この御救米の給付対象となったのは「其日稼之者」と記録にある。現代風に言えば「日雇い労務者」である。しかし天保14年には、大奥女中が御恩恵に漏れていたとして大阪御用金から金5千両が下賜されている。「女中には容易にお金を下されるものではないが、この度は世間一統を救うための特別のものであるから左様心得よ」との将軍の指示も併せて記録されている。11代将軍家斉の時代である。(黄鶴)

4月30日 「新ホームに税金?」
老人ホームではなくて駅のプラットホームの話です。
JR高槻駅に新ホームが出来て1カ月ほどのある日、
「京橋駅と高槻駅にホーム柵を設置しました!」
と、写真つきの車内吊り広告がJRの電車の中にあるのを発見しました。
でも、あれ?なんかヘン。
これ、国と市とJRが費用の45億円を三分の一ずつ分担して新快速&特急はるか用の新ホーム(防護柵付き)を高槻駅に建設した事実を、そのまま正確に伝えていませんよね。広告を読む人を誤解させますね。わ、JRはがんばってるな、サービスがいいな、と。駅のホーム全部に柵を取り付けたんだな、とも。
私たちの税金が使われているのに、そのことには触れず、手柄は独り占め。こういう謙虚のなさが事故を生む体質につながるんです。それに柵ができたのは新ホームだけです。
だけど、どうして私たちの税金が使われるんでしょうねぇ。乗客が多くて混雑して危険だから、って言うのなら、危険を防止するのは管理者であるJRの責任でしょう?たくさんの人が電車に乗るのなら、それだけ儲かってるんだから、儲かっているJRが措置するべきことじゃないですか?ホームの拡幅とか安全保持のための方策は。公共性は高いもののJRは単なる民間会社じゃないですか。そこにどうして補助すべきなんでしょう。税金を投下したって、株主への配当のように儲けが還元されるわけじゃなし。それに、高槻市民の全員が毎日電車に乗るわけでもなし。
はるかが停まる?早朝06時02分から07時31分までの関空行きが4本、夕方17時20分から21時49分までの京都行が10本だけですよ!一日中停まるのではなく、わずかそれだけ。そもそも高槻から海外旅行に行く人も海外から高槻目指して来る人も多くないのに、しかもそれだけしか停まらないのに、高槻市民にどんだけメリットがあるんでしょうか。わたし、いつも大阪から紀州路快速を使います。早いし安いし。
そうそう、普通電車から新快速に乗り換えるために2分かかるんですよ、ホームを歩いてエスカレーターまで行って、右側に並んで、エスカレーターに乗って、それから新ホームに行って…。この2分、けっこう意味があるんですよ。乗り換えるのに、ね。(白雲)

4月29日 「TPPには反対すべきと分かった」
大新聞とは、どうやら本当のことは書かない政府の宣伝紙なのだなと思っていたら、同じ印象を持っている人がいて、うれしいことにネットで本当のことを伝えようとしているのだ(何が本当なのかはわからないけど)。それが大新聞出身の人だというのもおもしろい。デモクラTV(http://dmcr.tv/)というネット情報局のことである。
ここでTPPの解説を聞いた。それによると、この条約にISD条項(Investor State Dispute Settlement)というのがあって、それは、多国籍企業(多くはアメリカの投資家)が日本でビジネスをしようとするとき、日本政府が日本の国土や日本人の健康などを守る目的で行政活動を展開して、それがビジネスを妨害する結果になった場合、多国籍企業は日本政府を相手に損害賠償請求の裁判を提起することができる、というものだとか。そして、その裁判が日本で公正に行われるのではなく、世界銀行の下部組織の仲裁裁判所(ワシントンに置かれる)で行われ、しかもその裁判官は3名構成で1名は多国籍企業から、1名は被告国側から、残り1名は仲裁裁判所が選任する(多くはアメリカ人弁護士などのロビイスト)というから、裁判提起、即負けが明らかという不公正極まりない、闇討ちのような裁判なのだ。
冗談じゃない、こんな主権侵害の条約を通してたまるかと、アメリカではエリザベス・ウォーレン上院議員などが反対しているとの話だ。日本でも同じだろう。日本人の福祉と多国籍企業の利益とどっちが大事か。TPP条約を批准すべきではないのは火を見るよりも明らかだと私は感じた。
実はこのISD条項、過去のいろんな通商条約の中にある。しかし、それは低開発国の無秩序な法整備や独裁の弊害から投資家を守ってきたものだ。いま、同じ条項が世界の主要国に対して機能すると、それはまったく違った凶暴な作用を及ぼすことになり、国家の主権よりも他国の投資家が優先されるようになるのだ。いや、それはそれで、アメリカやオーストラリアなど締約国に対して日本の投資家が優越することになるので、日本にとってメリットがあるじゃないか、との論も成り立つが、それでよいか。相互に国の主権を損なうような、相互に国のあり方を尊重しないような、そんな関係が国と国の間にできあがったとき、どんな世界が広がっていくのか。想像するだに恐ろしくもおぞましいことだ。
こういうことを大新聞は言わない。政府と自民党に気兼ねして、自ら言論の自由を放棄し、正しい道を追求して国民の前に示すという本来の仕事に背を向けているのが大新聞だ。…というふうに新聞批判をやっていると、大新聞の機嫌を損ねるが、なに、それでもかまわない。言うべきことを言おう。(空)

428日 「間違ってないですか、選挙制度は」
私は疑問なんですけど、あなたはどうですか?小選挙区比例代表並立制って、本当にいいのか。私が大きな疑問を覚えたのは、2014年12月の衆院選です。
あのとき、高槻市では選挙に先立って大阪10区立候補の4人の候補者が集まって演説会が開かれました。4人が何かのテーマで討論するなら面白いと思って、私は聴衆の一人になったのですが、残念ながらそういう勝敗が明らかになる討論はなく、個別に持論を展開するだけでした。それでも、誰が優秀で衆院議員にふさわしいか、よくわかりました。そうそう、元自民党で大阪維新に鞍替えした候補者が自民党候補者に尋ねていました。落選中の自民党からの手当について。自民候補者は答を濁していましたが、へ~、そんなものあるんだと私はびっくり。
それはともかく、選挙の結果は、全然ふさわしくないなと思った人が落選し、うんうん当然だろうと納得していたところ、なんと比例で復活。これをみて、よくわからない制度やな、と思ったのです。これ、比例代表並立制の部分に対する疑問です。小選挙区では死票が大量に出る、そのことを補うのだという意味はわかりますが、小選挙区でノーと判定を受けた人が復活する、それは変です。小選挙区と比例と重複立候補できる制度は小選挙区市民の総意を踏みにじっています。3位以内に入れば当選という約束ごとならば、納得しますけど。
複数の当選者を認める、それならそれで、昔のように中選挙区にしてほしいのです。だいたい、世の中に価値はたった一つではなく、複数の価値が並び立っているのが普通です。会社でも技術あり営業ありで、どっちが主でどっちが従ということはありません。どっちも大事。政治だって自民党だけが必要なのではなく、いろんな立場や考えがあって、いろんな党をいろんな人が支持しています。そこが日本のええところ。それを選挙区レベルで形にして、それが集まって国全体では国会で意見を闘わせる、そうしませんとおかしいことになりますわな。
どうおかしいか。2014年の選挙では、小選挙区において、自民、民主、共産の得票率はそれぞれ、48%、23%、13%で、議席数の比率はそれぞれ、76%、13%、0.3%でした。48%の得票率で76%の議席を占める、これをおかしいと言わずして、何をおかしいと言いますか。半数に満たない人によって憲法まで変えられてしまうのです。比較多数の意見が絶対多数の議員数になる、こんな制度は一刻も早く変えるべきです。
おかしいことがもう一つ。この選挙制度はもちろん法律で決まります。法律を決めるのは国会。つまり、議員自身が議員の選び方を決める、これは絶対間違っています。国民の為の政治ではなく自分が政治家で在りつづけるために活動している面々を眺めれば、お手盛りになるのは見え見え。多数党がその地位を盤石にするための制度を作る、当然のことです。現にそういう趣旨で作られたのが今の選挙制度です。ではどうするか。手間はかかりますが選挙制度を定めるのは国民投票にすべきです。国の行く末を決める、一番基本的なシステムを定めるのですから。(白雲)

427日 「汚れた政治資金」
大阪府選挙管理委員会が昨年の11月30日、2014年分政治資金収支報告書の概要を発表している。その中にいくつか興味深い事実がある。
1. 収支報告書を提出する義務のある政党支部が344団体あるが、2015年10月16日までに提出したのは338団体であり、残り6団体は当該年が終わり次の年の秋が深まってもなお提出しないという杜撰さを見せている。名前を知りたいものだ。
2. 収支額の推移をみると、府下政治資金の収入総額は1976年に約33億円であったものが、19年後の1995年には約149億円になり、その年をピークに以後は漸減し、2014年には約87億円となっている。政治の動きト対比してみると面白そうだ。
ちなみに、2014年の収入の87億円の内訳は、党費会費 約9億円、寄付金 約35億円、事業収入 約11億円、交付金 約27億円、その他5億円である。
3. 各党別収入額は、共産党 約22億円(前年度は約23億円。以下カッコ内は同じ)、自民党 約10億円(約8億円)、公明党 約6億円(約5億円)、維新の党 約4億円(0)、民主党 約4億円(約5億円)である。その他の党は略す。共産党において収入が多いのは、党費会費、個人の寄付金、交付金収入が多いことによる。
4. その他の政治団体として顔を出す団体名が目を引く。1位から6位までを列挙する。
① 大阪維新の会    378百万円(前年度193百万円)
② 大阪府医師政治連盟 133(  196)
③ 大阪府歯科医師連盟  88(  98)
④ とかしきなおみ後援会 69(  64)
⑤ 大阪府薬剤師連盟   67(  69)
⑥ 大阪府宅建政治連盟  61(  56)
以下、衆議院議員の後援会が並ぶが、10位に看護連盟、20位に柔道整復師連盟の名前があがっている。
医は仁術と長年思っていたが、これをみてその思いは薄れた。そもそも何を目的としての政治活動なのか。毎年、医療報酬の改定というのは厚労省で行われているから、大体の察しはつく。しかもその政治資金は、元はといえば患者が他の生活費を削って支払った診察代金であり薬代ではないか。それを元手により多額の診療報酬を庶民からかすめ取る制度を国に認めさせようという根性が汚い。薬屋は儲けすぎだと叫ぶ医者もいる。開いた口がふさがらない。巷には飲食業、理髪店、電機小売業その他さまざまな職種の人々がいる。その中で医療従事者の政治活動は突出している。恥と思わないのか。(空)

426日 「高槻烈震シナリオの解説」
高槻烈震について先週シナリオを想定したが、これは荒唐無稽のものではない。政府が発表した直近のデータを並べたときに必然的に見えてくる災害の状況のうち最悪のケースを描いたものである。危機を想定するとき、この程度で十分だろうと楽観的に考えてはいけない。心配し過ぎるほど悲観的に考え、これ以上ないという最悪のケースを想定しなければならない。ともかく、そう遠くない将来、とんでもないことが起こるのは間違いない。
震度については内閣府発表の「南海トラフ巨大地震の震度分布、津波高等及び被害想定について」に準拠した。このデータのうち、震源が陸側に近い場合の強震計算値と経験的手法の最大値を示す図によれば、高槻市北部は震度5強、南部の旧淀川氾濫原は震度6弱、芥川淀川の合流点付近は震度6強を想定している(*)。
この震度に見舞われた場合、家屋や道路がどうなるかについては、気象庁の「震度階級関連解説表」を使った(**)。火災についてはこれまでの震災の歴史の語るところである。
津波の淀川遡上については、海上保安庁海洋情報部の「南海トラフ巨大地震の津波アニメーション」を使った(***)。この想定図はよくできていて、時間の経過とともに大阪湾の海面高さが変化し、河口では高さ3m位の津波が淀川を遡るにしたがって高さを増す様子がリアルにわかる。ただ、十三あたりまでしか図がないのが残念だ。淀川河川敷を広域避難地に指定している高槻市は、これを見直すべきだ。今から指摘しておく。
地震によって堤防がどうなるか。淀川の堤防についての具体的なシミュレーションのデータは見当たらない。しかし今回の熊本地震では益城町内で矢形川などの堤防が崩落(長さ不明)、甲佐町で130mにわたって崩壊、嘉島町で堤防頂部に350mにわたって深さ50㎝の亀裂などの報道がある。堤防は当然ながら川の両側にあり、川といえば沖積作用をなす主役で堆積土砂がその下の地盤にあり、地震の場合に堤防の下の地盤が液状化を起こすのは明らかである。したがって、堤防自体がいかに頑丈であっても、震度6強の地震に遭遇すれば無事には済まないと想像できる。屈曲した堤防では地震波による応力集中もあり、損傷のおそれはより大きい。シナリオでは、地震波の方向が淀川堤防と平行(大塚南方を除く)であることから堤防の損傷を少なめに見積もったが、想定が甘いかもしれない。(黄鶴)
*http://www.bousai.go.jp/jishin/nankai/taisaku/pdf/1_1.pdf
**http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/shindo/kaisetsu.html
***http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAIYO/tsunami/map/area_nankai/nankai_trough/05_OSAKA/hhwl.gif

425日 「組織を罰する」
JR福知山線の尼崎市内での脱線事故から11年が過ぎた。事故による106人の死亡者の遺族にとって辛く長い日々であったろう。
この事故の刑事責任については、はじめ検察は、当事者以外は起訴しなかった。後に検察審査委員会はJR西日本社長を起訴相当とし、起訴されたが、責任者である社長の過失について証明が不十分で、無罪となっている。その結果に対し、会社が起こした死傷事故でも会社は罰せられない、これはおかしいではないかとの遺族の声が高まっている。個人だけでなく組織も罰するべきだ、と。
いまの刑法には、会社の業務に従事している最中に人を死傷させた場合に、過失のある当事者個人を罰する規定しかない。しかし行政法には多くの場合両罰規定というものがあり、行為者個人を罰するほか法人も処罰されることになっている。事故があればそこに管理者の過失があったからだと推定されるし、未然防止のための警告の意味もこめてこのような規定が設けられている。たとえば、道路運送車両法は無登録の自動車で人や荷物を運んだとき、行為者を罰するほか法人に対して当該罰金刑を課する規定がある(同法第百十一条)。河川の流水を占用した場合、その当事者のほか属する法人も罰せられる(河川法第百七条)。「規定が設けられている」というより、むしろこの規定があるのが一般的である。
行政法にあって刑法にないのは、なぜなのか。違いは被害が公益か人かという点にある。私は思う。この遺族の動きは当然であって、過失致死傷の犯罪の場合もそれが業務に関して行われた場合、法人も当然処罰されるべきだと。具体的な被害者のいない公益の侵害においてすら法人は罰せられる。いわんや、ほとんどの人が会社や公共団体の意を体してその業務に従事し活動することにより社会が構成されている今、現にこの世に生き場所を占めている人が死傷したとき、加害者個人を罰するだけで企業を罰しなかったら不法な社会を矯正する手段がないことになる。今は人が活動しているというより企業・法人が活動する世の中なのだ。刑法が定められた明治40年から100年余。時代も社会も変わっている。憲法よりもこの点の刑法改正が急がれるべきではないか。ちなみに、法人を処罰するに当たっては代表権のある者を取り調べることになる。(黄鶴)

424日 ぶろぐ日曜版「江戸の福祉政策
熊本地震に関し、先週から江戸の福祉政策についてまったく体系的でない文章を書き散らしている。この中で「救恤(きゅうじゅつ)」という今はあまり使われない言葉を使った。読めない字を書くなとお叱りもいただいたが、史料を読む限り、この時代の福祉政策、とりわけ自然災害における窮民への支援は、単なる救援や救助という乾いた言葉では表現しがたく、実態を伝えるため昔ながらの救恤という言葉を使わざるを得なかった。「救恤」とは、「恤」にリッシン偏があるとおり、気の毒に思うという心情が込められた救援作業である。政策の裏に民への思いやりの心があるところに、日本的な特質があると私は思う。
さて、天明7年の飢饉においては、江戸市中の窮民はおよそ136万人余りと述べたが、その内訳は次のとおりである。
家主  208,500余人
町人 1,285,300人 内男587,800余人 女697,500余人
外に
座頭   3,840余人
出家  53,430人
諸神主  3,580人
山伏   7,230人
新吉原人数 14,500余人 内男8,200人 女6,300人、遊女かむろ2,500人
これは天明当時の江戸の社会構造がわかる数字である。それぞれの職種ごとに詳しい人数を把握していたのは、人は厳しい管理下にあったと見るべきか、はたまた隅々まで福祉政策が行き届いていたと見るべきか。
緊急の場合の御救い小屋も仕様が決まっていた。一つは寝泊まり用に、小屋の大きさは梁間3間桁行15間の杉丸太造り、総縄結で屋根は苫(茅を編んだもの)葺き、高さは軒高8尺、壁なし、床は竹の簀(すのこ)の上に縁なしの畳または蓆を2か所に敷いた。付属品として2か所の便所(3人用、竹矢来で周囲を囲み屋根は苫葺き)を設けた。また炊き出し用の小屋として、梁間3間桁行10間、軒高さ1丈、三方葦簀を壁とし、そのうち半分の面積は竹簀の根太の上に琉球畳を敷いて前に1軒の庇を設け、半分の面積は土間として鍋釜を置いた。(黄鶴)

422日 「おおさか維新の過ち4月編」
「タイミングのいい熊本地震」と発言した人物がいた。この人は、地震で家族を失った哀しみを想像することすらできないらしい。人として当然の惻隠の情があれば、このような言葉は出てこなかったはずだ。人の不幸を慮ることのできない人間に、人を幸せに導く政治ができるのか。こういう人物が代表として議員を束ねる立場にあるのだから、恐れ入る。余党の資質、推して知るべし。発言を撤回すると言ってみせても、市民の心に焼付いたその人物像は修正できない。「言葉に気をつけなければ」と別の幹部が言ったが、気をつけるべきは外面を飾る言葉ではなくて真ん中にある心のありようだ。
大学や研究所などを統合する方針を示しているおおさか維新だが、その統合に当たっては、吸収合併ではなく新しい組織にするのだと知事は言い始めた。そして施設も新設するという。それは「将来への投資だから無駄ではない」そうだ。正気の沙汰か。
この発言の何が問題か。行財政改革に逆行する発言だからだ。財政再建のためには、旧来のものを絞り新設のものを厳しく抑制しなければならない。時代の要求に基づき、新設としてどうしても必要なものは、その必要性・緊急性を厳しく問われねばならない。そのうえで議会の承認を経て、適正規模の政策が展開されねばならい。ところが、統合の名のもとに無条件に新種の行政機構がスタートし施設・設備も新設して将来負担を積み上げてしまう、ここが問題なのだ。一体何のための統廃合だったのか。所期の目的である経済合理性を忘れた愚挙といわねばならない。それでもやるのか。
この集団の構成員は、次から次へと政策検討能力と政治哲学及び政治的資質のなさを自ら露呈する。人としてのあり方、組織科学、行政法その他勉強すべきことが多い党だ。(黄鶴)

421日 「高槻烈震そのシナリオ (結び)」
市の北部では小規模の崖崩れが発生した。原から田能に向かう道は大きな被害はなかったが、所々の山肌がむき出しになって落石が道路の山側を埋めた個所があった。清水台2丁目、浦堂本町、月見町の急傾斜地が崩れ、防護壁の破片や土砂が家屋に迫った。
まだ余震は続いていたが、人々は避難場所に指定されていた学校に急いだ。住所ごとにどの学校という指定はなかったが、とりあえず近くの学校に向かった。壁の亀裂や剥落はあったが、耐震工事の甲斐あって校舎は原形を保っており雨露はしのげそうに見えた。
地震発生から2時間後の午後8時、街のあちこちから火の手が上がり始めた。停電した暗い町に赤い炎が見え、その小さな火は次第に大きく、高く上るようになった。そして二つ三つの火が広がって大きな一つになり、大きな火がつながってさらに大きな火になり、やがて栄町、寿町、津之江町、庄所町、竹ノ内町、宮野町は火の海になった。その火の明るさで道路は地割れが走っているのが見え、消防車は動くこともままならなかった。この地域の小中学校に避難した人々は、周辺の住宅地の火災によって孤立した。
そのころ、すべての川の水が引いて川底が露わになった。その30分後の午後8時半、大阪湾に満ち溢れた津波が川を遡ってきた。土佐湾や潮岬で20mを越えた津波も友が島に阻まれて勢いを減じ、大阪湾に入ると高さ3m程度となった。それでも津波は淀川に入るとにわかに高さを増し、5mを越えた。その高さを維持したまま津波は十三や南方近くにある河川敷公園を飲みこみ、一気に上流へと馳せた。
大火の際はそこが避難場所になると知っていた高槻市民の一部は、芥川が淀川に合流する地点の河川敷に走った。そこで座り込んでいた市民たちは、闇の中を下流から押し寄せる津波の轟音に気付いたものの、不気味な音の正体を懐中電灯で確認した次の瞬間には、こちらに迫る水の壁に呑まれた。
堤防上端までの高さは、淀川では平均水面から10mあったが、津波の高さは堤防法面のコンクリート被覆を越えた。液状化により軟弱になった堤防の盛り土部分は、打ち付ける水の勢いにより崩され、徐々に盛り土を奪われていった。津波は、淀川から芥川、女瀬川へと分かれて進んだ。津之江4号橋付近、天堂橋付近では、落下した橋桁や乗用車を洗いながら、津波は住宅地へとほとばしり出た。津波は一度だけではなく、何度も川底の露出と遡上を繰り返した。避難を急ぐ人々はこの水流によって行く手をさえぎられ、あるいは流され、如是小・如是中は水に浮かぶ孤島となった。
広範囲の電源喪失と送受信局の倒壊により、携帯電話は一切使えなかった。発電式携帯ラジオだけが正確な情報を得る手段だった。雑音混じりのアナウンサーの声は、地震の被害が神奈川県以西の本州の太平洋側、四国、九州の宮崎・鹿児島県という極めて広い範囲に及んでいること、潮岬や室戸岬で震度7、和歌山・高知・徳島県で震度6強、大阪から京都に至る地域は震度6弱に達していたこと、米軍が援助を申し出たことを繰り返し放送していた。被害状況がラジオ局に届いていないようで、各地の具体的な被害については何も伝えていなかった。(この項終り) (黄鶴)

420日 「高槻烈震そのシナリオ(続)」
JR線付近よりも南の地域では激しい液状化が起こった。市役所周辺の道路では割れたアスファルトの間から噴砂があり、上牧小、五領中、南大冠小、十中、大冠高、芝生小、柳川中などの広い校庭は噴砂に加え地下水の上昇により水びたしになった。これらの学校では、外見上は傾いた校舎はなかったが、ガラスの破片が校舎の周辺を埋めた。また梁や壁、柱には亀裂が入り、上塗りのコンクリートが剥がれ落ちて校舎の内外に散らばった。ごくまれに鉄筋がむき出しになった部分もあった。
この南部地域では、倒壊を免れた家屋も、地盤の液状化によって傾いた。古代の条里制の田の上に出来上った町は強い地震には抵抗力がなかった。無秩序に右に左に、家々が傾いた。
また淀川の堤防も地盤の液状化によって沈下しており、その沈下の度合いが場所によって違うため、堤防上の道路はうねり、舗装が割れた。一部には堤防自体の液状化も見られ、軟弱になった。ただ、堤防の法面は30度というなだらかな傾斜で造られており、崩壊はなかった。芥川の堤防も損壊はなく、同様の状態だった。しかし女瀬川の堤防は形が複雑なためか、屈曲した地点やコンクリートと土盛りの境界付近で亀裂が見られ、周囲の地面よりも高い川底から津之江町に向けて川水が流れ込み始めた。川水の先には如是小、如是中があり、動きの速い避難者の姿が見え始めていたが、液状化による地下水があふれている校庭では川水が流入していることは認識できなかった。
強い地震によって交通機関はすべて停まった。JR、阪急の電車は線路上に立ち往生し、駅の近くであろうがなかろうが乗客は非常ドアを開けて外に出た。通勤時間帯で、電車はどれも満員だった。しかし鉄道が国道171号線をまたぐ桜町付近では、JR・阪急とも高架橋が落下して枕木を付けた線路だけが宙に浮いており、線路上を歩く避難民はそれぞれ富田駅方向や高槻駅方向にUターンした。高槻、富田ともJR・阪急の駅は帰宅困難者であふれた。落下した二つの鉄橋は、大動脈である国道171号線を遮断していた。八丁畷の阪急の高架橋は落下こそなかったが、高架橋のコンクリート部材が落下して路上のバリケードのようにうず高く積もった。JR高槻駅西口付近の地下道も同様で、南北方向の自動車の通行は封じられた。
また芥川にかかる橋も、1968年竣工の門前橋はプレストレスト・コンクリートの応力緩和が想定以上に進んでいたのか、コンクリートの剥離・落下が激しく、大型の自動車の通行は不可能だった。高槻橋、城西橋、芥川大橋、次郎四朗橋は、橋自体は損傷は少ないが橋の手前の勾配部の地割れが激しく、自転車の通行すら困難であった。女瀬川では地震の振幅は橋の落下防止装置の機能を越えていたようで、天堂橋と津之江4号橋の橋げたが落下した。これらを総じてみると、高槻市は芥川と女瀬川で東西に分断された形になっており、大型自動車が通行できるのは大蔵司橋だけだった。(続く)

419日 「高槻烈震そのシナリオ」
内閣府ほかの関係省庁の公表資料から、南海トラフ巨大地震が発生したときの高槻の状況は次のように推定できる。ただしこれは、あくまで筆者個人による想定である。念のため。

20xx年3月22日火曜日の午後6時少し前、高槻市を地震の第一波が襲った。
家々のキッチンでは夕食の準備中だったが、テーブルの上で食器がカタカタと鳴り始め、ガスコンロにかけた鍋も揺れて湯があふれてきた。食器棚の皿やコップも大きな音を立てた。新しいガスコンロは振動を感じて自動的に消火したが、古い家屋ではコンロは消えないまま、揺れる鍋を温め続けていた。
外を歩く人には、その振動はわからなかったが、立ち話をする主婦たちは、あれっ?と顔を見合わせた。玄関先につながれた犬は不安そうに吠え、犬小屋にもぐった。車は走り続けていたが、自転車は異変を感じて停まった。
それは初期微動というには大きかった。歩いていた人もやがて足元の振動に気付いた。その振動は次第に大きくなってはっきり縦揺れとわかり、これは今までの地震とは違うと誰もが思った。そうして、最初にテーブルの上で食器が踊り始めて42秒後、激烈な横揺れが高槻の街全体を覆った。
激しい横揺れは、初めは東から伝わってきた。人は立っていることはできず屈みこみ、自転車は倒れて傍に人が転がった。車は直進できず道路わきの家や塀にぶつかり、停まった。家の壁は亀裂が入り、窓ガラスは砕けて外に雨のように降り注いだ。室内では家具が倒れ、燃えている石油ストーブの上に本棚が覆いかぶさった家もあった。多くの家では石油ストーブは倒れる前に消火した。消火はしたが余熱があり、そこに灯油が流れ出していた。ガスはマイコンメーターが作動したので供給はすぐに止まり、ほとんどすべての調理中のコンロが消火した。激しい揺れは1分後にはおさまった。長い1分だった。しかしまだ体に感じる細かい縦揺れがあり、すぐまた激しい横揺れが来た。今度は南からの揺れで、残った家々は南北方向に揺すぶられた。いや、揺れは一方向だけではなく、南西方向からも感じられ、数分間続いた。
揺れは市の南域、すなわち西国街道よりも南側の地域で、より激しかった。そこはもともと淀川の氾濫原であり、さらに昔は広大な河内潟で、土砂が厚く堆積した軟弱な地盤だったからである。そこでは、瓦屋根の日本家屋のうち古いものは、最初の揺れで、屋根の形をそのままに伏せるように圧潰した。そして震源の移動した第二波、第三波の複雑なうねりの中で次々に木造の家屋は倒れていった。住宅街の狭い道は倒壊した建物でふさがれて通行できなくなった。(続く)

418日 「地震対策 その2」
論語の冒頭にある言葉を実践している人は、どれくらいいるだろうか。多くの人が論語読みの論語知らずだろう。それは「学びて時にこれを習う」なのだが、講談社学術文庫の加地伸行訳では「時に」は「つねに」とふりがなが付いている。
常に、ではなくて、時々でも思い出しておさらいするのも悪くない。高槻市の地震対策は万全だろうか。
市のHPで「くらしの情報」→「災害に対する備え」→「地震」と進んでいくと「地震対策」に行き当たる。そこにあるのは、避難場所の紹介、震度の説明、日常の注意事項、我が家のチェック、いざ地震発生の時の対応策、である。そしてこの「地震対策」と並列でHPには「日常の備え」「安全に避難するために」「災害時要援護者」の項目が並ぶ。防災訓練の項目もある。
しかし、このHPからは市がどのような地震の状況を想定し、誰に対してどのような対策を施そうとしているのか、ストーリーが読めない。というか、そういうシナリオは何も描いていない。それどころか、地震発生時の対応策として、「発災~3日位 非常備蓄品の活用発災から3日は外部の応援は期待できない」とある。3日間は市も何もしないということのようだ。市民救済義務の放棄である。「情報の収集…市の広報などに注意」ともある。どうやって注意するのか。スマホなど年寄りは持っていない。「我が家のチェック」では、長方形の整った形状の方が耐震性が高いのか、それとも低いのか、読み取れない。コピペ不十分だ。
先日のブログの繰り返しになるが、危機管理の要諦は弱気なシナリオ作りにある。どのような被害を想定するか、歴史の検証と現時点での中央防災会議での検討結果から最悪の被害は導き出せるはずだ。わからない、想定できないでは済まされない。わからないのはデータから状況を読み取ってアタマの中に動画を生み出す構想力が欠如しているだけだ。そして、いざ地震が発生したらどうすればいいのか、おそらく人は動揺してなすすべを知らない。南海トラフ巨大地震の際はこの地域は液状化が起こる、山崩れが発生する、だからこの町の何丁目の人は、この避難所に逃げなさい、というふうな強力な指導がふだんから必要だ。そういう対処方法のプリンティングが必要だ。
とはいうものの、役所には法律と予算による行動の制約がある。公務員はどんなことができる(あるいは、しなければならない)ということが法律で決まっているが、予算もそれぞれの公務員に対する授権、つまりこれだけのカネの範囲でこれこれのことをやってもいいよ、という権能を授けているのだという考え方がある。それに従えば、予算を超える活動は違法なわけだ。非常時の越権行為は緊急避難だから許されるのだが、ならば、市のできることはここまで、これ以上のことは市民が自分でやってください、と言うのも一法だ。
ちなみに、市のHPに掲げる避難所の収容人員総数は、約12万1千人である。市民総数の3分の1だ。その避難所の中には、鉄筋の数が少ないことが明らかになった小中学校も入っている。液状化が確実な地域の学校も避難所になっている。自前でテントを買っておくべきかもしれない。テントを張る場所が問題だが。(黄鶴)

417日 ぶろぐ日曜版 「江戸の福祉政策
鎌倉・室町の時代の福祉政策については資料がない。日本には、民は尊ぶべきものという思想が古来あったはずだが、この時代は明確な身分制度がなく、農民も家の子郎党であってみれば武士と農民という二項対立の存在ではなく本来養うべき家族であって、その窮状を助けるのは福祉以前の話だったのだろう。
織豊政権の刀狩を経て江戸時代に入ると身分化が進んだ。そして、庶民は管理される対象となった。天変地異に際してはその救恤が重要な政策となった。
江戸幕府が気を使ったのは江戸の市民である。天明7年の飢饉においては、自助努力のしようのない江戸市中の窮民はおよそ136万人余りで、幕府がこの救援のために費やしたカネは約2万両、米2万俵、大豆2万俵である。
飢饉に次いで幕府が意を用いたのは、火災、水害、疫病の3種である。大水や大火によって数万の窮民が一事にその住居を失うようなことがあれば、幕府は急きょ令を発して空き地に仮小屋を建て、任意に入居させた。これを「御救い小屋」といった。数十日の間飲食を与え、それでもなお自立できない者には資金を与えて生業に就かせることもあった。これを「御救金」「御救米」といった。また市中に疫病が流行ったときは、食事や薬、米や銭を与え、治療法を伝授した。私物をもって窮民に施しをした者には幕府から賞詞が出された。
このような思想は、江戸幕府初代将軍家康から出ている。家康が駿府に移った年の10月、江戸城西の丸に貯えてあった黄金3万枚、銀1万3千貫を二代将軍秀忠に譲ったが、その時の言葉は次のとおり。
「これは御身のためのものではない。天下の物と思い、この上に貯えを重ねるべし。平常の国費は年ごとの歳入をもってまかない、なるたけ浮費を省き、金銭を多く貯えなさい。それは何のためかと言えば、第一は軍事的な国難に備えるため、第二は不慮の火災によって城中城下が困窮したときにこれを救うため、第三に日本国中に守護地頭を置いて万民が飢えることのないようにする制度はあるが、またどのような飢饉が打ち続いてその制度が作用しないとも限らないので、そのような時に上から守護地頭に力添えをして救荒の政を施すためである。これぞ天下の主たる者の本意である。当年の歳入がどれほど豊かであっても、無駄にしてはならない」

416日  「地震対策」
熊本県益城町に友人が住んでいる。リタイヤ後、奥さんといっしょに生まれ故郷に帰っていったのだった。その益城町を一昨日の夜、M6.5の地震が襲った。同町の震度は7。多くの家屋が倒壊する強さだ。これが本震と思っていたら実は前震で、本震は今日の未明のM7.3のものだった。さらに、地震は広域化の様相を示し、大分県の由布院でも被害が発生した。熊本の地震を伝えるTVの画面には、屋外で夜を明かす被災者の集団が写る。
翻って、高槻に被害が発生したときのことを考えてみよう。市内には岡本町あたりに有馬高槻構造線のうち真上断層が走る。これが動くときの被害はすさまじいが、当面大丈夫のようだ。問題は東南海・南海地震の連鎖だ。今回の熊本・大分の一連の地震のように、こちらも連動する蓋然性は高い。
その時どうなるか。市内は震度5弱~5強の地震に襲われる。木造建物は倒壊には至らないが壁にひび割れが入る。地盤に亀裂や液状化が起こる。芥川の堤防も、最悪の場合は壊れる。そこに大阪湾から遡った津波があびせかかる。堤防の割れ目から流れ出る水はJR線以南の低地を浸す。
人はどうすればよいか。高いビルなら浸水はないが、交通の途絶により孤立する。早めに市の北部に避難したほうがよい。低層家屋はもちろんのことだ。だがしかし、逃げる場所がないのだ。市の南部に住む20万人は、どこに収容されるのか。JR線以北には小学校13校、中学校5校、高校4校、大学3校、単純合計25校がある。机上の計算だが、各校に教室が20あるとすると、避難者は1校当たり8,000人、1教室あたり400人となる。全員の屋内収容はとても無理だ。ハザードマップには幼稚園やコミュニティセンターも避難場所として示されているが、大きな期待はできない。雨の中、濡れない場所を求めてさまよう市民の姿が見えるようだ。1校当たり8,000人の被災者に配る毛布、食料がどこかに備蓄されているのか、仮設トイレがあるのか。心もとない限りである。
危機管理は最悪のケースを想定し最善の準備をすることから始まる。東南海地震の発生は近い。高槻市においても、最悪のシナリオを描き万全の準備を願いたい。
益城町の友人とは、地震発生以来連絡が取れない。(黄鶴)

415日 「選択的夫婦別姓」
御島媼「当世日本に、まだこのような議論があるのかや」
かえで「何のこと?」
御島媼「一般質問の最初の日にちょっと話したが、選択的夫婦別姓のことじゃ」
かえで「ママから見れば不自然?」
御島媼「不自然というより不法な制度じゃな、今の夫婦同姓の制度は」
かえで「そっか」
御島媼「昔はな、別姓が当然じゃったし、それどころか男が女の家に通い、産まれた子どもは妻の家で育てられたものじゃ」
かえで「昔って、いつ?」
御島媼「わらわの若かった平安時代」
かえで「ぷっ」
御島媼「笑うでない。言いたいのは、これが絶対というものはなくて、何事もうつり変わるということ。姓だって、つい400年前は自由に決めることができたのよ」
かえで「そうね」
御島媼「夫婦同姓が当然で、これぞ万古不易の法則だなんてことはないのよ」
かえで「夫婦同姓でなければならない…、これ、なんか、家制度と関係ありそうね」
御島媼「そう。女は嫁に行けば家の中で妻として、母として一家の中での役割を期待され、それ以上でも以下でもない立場だったのよ」
かえで「嫁して三年、子なきは去れ」
御島媼「そうそう。よく御存じだこと」
かえで「黄表紙にあった」
御島媼「おや、そんな下品なの読んじゃなりませんぞ。ともかくね、夫婦同姓を強いるのは古い戦前の家制度のなごりとも言えるのよ」
かえで「維新の会の木本ゆう議員が、家族制度を危うくするから反対、子どものためにならないと意見を読み上げてたね」
御島媼「維新というのは、これ新たなりという意味だけど、その名前からすると新しい制度を提唱してもいいのに、古い制度にこだわっているね」
かえで「そんな感じ」
御島媼「反対する人は、家制度と家族のあり方を混同しているというか…」
かえで「夫婦別姓を認めたら家族がばらばらになる、それじゃ子供が迷惑だ、と考えているようね。短絡的に」
御島媼「それはまったく別の話じゃな。お互いに自分という確たる世界を持ちながら、愛し合った二人が共に暮らす、今はそういう時代ではないかな?」
かえで「わかってるぅ~!」
御島媼「実は昔もそうじゃったのよ。妻も庄園を持っており夫に頼らない独自の経済力を持っておった」
かえで「そういえば、交野…カタノって…、皇后の土地という意味だとどこかで読んだ」
御島媼「別姓は夫婦の形を壊すことに直結する…のではない。別姓にすると夫婦が壊れそうだと思う人は同姓を選べばよい。選択的というのはそういうことじゃ」
かえで「うん」
御島媼「国連からも勧告がでておるし、別姓を選ぶこともできるというのは世界的な流れじゃ」
かえで「そう。民法にこう書いてあるからそれに従おう、というのではね、世の中、何も変わらない。法を変えようという動きがあってもいいわよね」
御島媼「議員はな、自分がこう思うから議案に賛成・反対、ではなくて、今の世の中に必要なものは何かという観点から、賛否を決めてほしいぞな」
かえで「世の移り変わり、800年を見てきた人の感想ね」
御島媼「そうじゃ。自分の価値観とは別に、悠久の真理やいかにと言う眼、複眼が必要なのじゃ。意見書提出に賛成が20人、反対が14人…。反対者の多さに呆れるわ」

414日 「務めを忘れた社会」
朝8時半、公園前に保育園のお迎えのバスが来た。幼な子は乗るには乗ったが、母親との別れを惜しみ、バスの中で泣き始めた。泣き声の音程を分析すると、そんな児が3人ほどいるようだ。ああ、かつては我が子も、自分すらもそうだったと、遠い記憶を手繰り寄せる朝のひとときである。
子どもの作る世界、その微笑ましく見える情景も、人によっては騒音源になる。「子どもの声がうるさい」ことを理由の一つにして地域住民が反対し、関東地方などで保育園の新設が中止になっている例が多数あるという。他に送迎車によって交通が混雑し事故のおそれが高くなるという理由も挙げられている。教師から見る親の中にはモンスターペアレントがいるが、住民にもモンスターがいるのが、こうした事例から見えてくる。
猿の社会では子供を全員が育てる。かつてのムラ社会では日本人もそうだった。遅くまで遊んでいると早く帰れと声をかけ、貧しい家の子は、その友達のそれほど貧しくない親が目立たぬように食事を与えた。子はムラ社会の共有財産であり教育はムラの共同事業だった。
その特質が今や完全にぬぐい去られている。数十年前、大人たちの暖かい目の中で、大声をあげて走り回っていたことを忘れ、自分の子供が近所に迷惑をかけていたことも忘れ、今、自分たちは子どもを育てる社会的存在であることも忘れ、静かな生活が欲しいという身勝手な欲望だけに流されている。おぞましいことだ。
内政上の課題の成因は住民にある。その課題の解決を政治にのみ求め、自分は何もしない、ただ不平だけを言うのは許されない。次世代を育てるのは国民的義務である。そのために何か奉仕するのは当然のことではないか。他人の子であってもかわいい…と思わない爺婆、てめーら鬼か!と叫びたくなる。(黄鶴)

413日 「衆院補選」
衆院補選が始まった。京都3区は例の不倫騒動の後始末だ。原因となった出来事が何とも情けないが、そのあとに展開されている政治状況もまた、やるせない。
自民党は候補者がいない。出せるわけがない。民進党は比例区選出現職議員の泉健太氏。立候補によって自動的に失職し比例区には北神氏が繰り上げとなっている。背水の陣だ。共産党も出さない。おおさか維新は34歳の森夏枝氏。過去の衆院選では2012年・2014年に愛媛3・4区で立候補し、それぞれ第3位で落選している。日本のこころを大切にする党からは37歳の小野由紀子氏。そのほか、3人の候補者がある。
こうした中で、民進党と共産党の関係がぎくしゃくしている。民進党は反共産の姿勢をはっきりと打ち出した。共産党は自主投票とした。
いま、何が必要か。戦前回帰のアベ政治をストップさせることだ。そのために行きがかりのすべてを捨てて協力することだ。幕末の薩長同盟のようなものだ。あのときも長州は、禁門の変などに対する薩摩への恨みをとりあえず脇に置いて、倒幕に向けて協力した。その度量は現代の京都においては望むべくもないようだ。民進・共産両党にとって大事なのは、協力して国民のための政治を取り戻そうという戦略ではないとみえる。共産党嫌いなどの感情を優先させるようでは、先が暗い。政府与党はほくそ笑んでいることだろう。
共産党との協力姿勢を表に出すと保守層が離反するという意見がある。それは皆無とはいわないが、大阪のダブル選を参考にしないでほしい。あれは自民党による組織的な大阪維新応援の結果であって、共産党の協力による心理的影響ではない。(黄鶴)

411日 「川内原発」
ニュースの往来は速い。次々に押し寄せる情報の波に呑まれ、重要な話が彼方に押しやられて行く。しかし忘れてはならないことがあるのだ。
4月6日のことだが、川内原発1・2号機の仮処分申立を、福岡高裁宮崎支部は棄却した。これには時代認識の誤りではないかと言わざるを得ない。
棄却理由は、安全性については社会通念を基準とするとし、「絶対的な安全性に準じる安全性の確保を求めることが社会通念になっていない」と述べた。たしかに、一部のラジカルな考え方にもとづくよりも社会通念を基準とするのは正しいが、その社会通念が福島以降に変化しているのを忘れていないか。安全性とは、得られる利得とそのためのリスクのバランスの上に成り立つものである。飛行機は墜落の危険性がないとはいえないが、それは希で、それよりも早く目的地に着くメリットの方が大きく、だから人はそこに安全性を認めている。原発も、かつてはそうだった。中性子の速度こそ違うが基本的に原爆と同じ動作原理で熱を発生させる機構だから危ないのは解りきっているが、何重にも巡らされた安全装置があり、巨大な電源にもなるので、安全な発電機と人は考えてきた。
しかし、それが5年前福島で牙をむいた。まさか保護装置がすべてストップするとは、誰も考えていなかった。想定外のことは、あるもんだ…。そう思った人々は既存の安全とされるものすべてに、あらためて疑問の目を向け始めた。それが、原発に対する世論調査の変化にも表れている。にもかかわらず、宮崎支部はそれを社会通念の変化として認識していない。従来どおりの見方考え方を踏襲し、恥じるところがない。それは政策寄りの考え方であって、司法が行政の走狗になっているのだ。大津の仮処分決定は司法が行政を混乱させるものというサンケイ新聞の解説記事もあったが、とんでもないことで、司法は行政から独立している。誤まった行政を糺しているのを、正しいことを妨害する行為と同一視しないでほしい。(黄鶴)

406日 「消費が伸びない原因」
低次元の表現は抑えるようにしているが、たまに口を突いて出ることがある。政府のやることがあまりにピント外れと思う時だ。Shit ! Ass! Idiot !
政府の経済財政諮問会議*の民間議員**がGDP増大に向けて政策提言を行った。その内容は、結婚・出産・子育て支援(例:第二子以降への支援拡充、待機児童の解消に向けた受け皿拡大など)、個人消費喚起(例:子育て支援バウチャー、最低賃金1000円など)、新たな経済財政システム構築(行政手続きの効率化、歳出改革の成果の還元)という3本柱になっている。
これを一瞥して、「違う!」と、勝手に口が動いた。庶民の財布の紐がなぜ緩まないか、諮問会議の方たちは全く分かっていない。あるいは、わかっていても、政府の中心人物であるがゆえに、あるいは政府に選ばれた故に、首を賭けて真実を訴えることはないのだろう。まあ、それが大人の世界だ。しかし大人の世界として紳士的にふるまって、それで許される情勢では、今はないのだ。
なぜ消費が伸びないか。その大元の原因は現状への不満と将来への不安だ。
いま、働けど働けど我が暮らしの給料は上がらず、サービス残業ばかりが増える。金がないのに消費が増えるわけがない。子育てバウチャーもプレミアム付き商品券もいいが一時しのぎだ。今、あまりに貧しくて貯金もないし、安定的な収入がないから結婚もできない、子も産めない。無理をして産んでも安心して育てられる社会システムがない。消費が増えないから会社は売り上げが上がらない。仮に儲かっていても何時また不況に陥るかわからないから社内留保として社員の給料は上げない。こうして人々の生活は縮小均衡に向かって沈んでいく。長時間労働の抑制とお題目を唱えるだけでは、厳しい競争の下にある企業は低賃金・長時間労働を社員に強いるのを止めない。貯め込んだ内部留保を吐き出すこともない。
また将来にも不安がある。年金は大丈夫か。人口が将来的に減り続ける国が今の経済規模を将来にわたって維持できるのか。戦争に巻き込まれることはないのか。そうした漠然とした不安は人々を守りに走らせる。かつてのように、経済は右肩上がり、将来は明るいと国民みんなが信じ、今のうちに家を買おう、車を買おうとローン頼りの消費に走る時代ではない。いま持っているカネをなるべく使わず、モノが安くなったら買おう、そういう動きになるのは当然のことである。暗い将来に備え、死蔵されるカネは日々増えていく。
新しい経済財政システムの構築については何ともいえないが、その他の政策提言の多くは小手先のものである。日本の中枢で審議されるのがこのレベルの話かと思うと実に淋しい。このような策を弄したとて、基本的な解決にはならない。そんなことより、炭素繊維の東レのような競争力のある産業・企業を幅広く育て、力強い経済を再現し、戦死者発生が必至の法律も廃止して、日本の将来は平和が続くし産業の競争力も大丈夫ですよと国民を安心させることこそが必要ではないか。金融政策だけで何ができよう。国民を安心させることのできない政治が、ほんとうに「まつりごと」と言えるのか。現在と将来に安心さえできれば、自ずと財布の紐は緩む。まるで旅人と太陽のような話だ。(黄鶴)
*経済財政諮問会議:総理、官房長官、経産大臣、総務大臣、財務大臣、日銀総裁、民間議員4名から成る。
**民間議員:財界から2名、学会から2名。

405日  「市営電力会社」
やっぱり、そういう市もあったのだ。昨日の毎日新聞の報道(4月04日夕刊)を広げて、私はそう思った。
報道によれば、湖南市、鳥取市、泉佐野市が新電力会社設立の姿勢を示している。ただ、全面的に市が出資するのではなく、市民(湖南市)、ガス会社(鳥取市)あるいは一般企業(泉佐野市)との共同出資である。湖南市では、太陽光発電について設置者に補助金を出す国の制度に加え、2012年から市民共同発電所(湖南市地域自然エネルギー基本条例に基づいて設置された太陽光発電事業であって、収益の半分以上を非営利活動に当てる等の要件がある)に対して補助金を交付しており、それが発展して電力会社となったものである。
このような発電事業のメリットは多大である。なにより地産地消、必要な地域で生産するから長い送電線も不要で送電中のロスもない。余れば売電できるから利益も計上できる。発電に参加することにより電気のムダ遣いをなくそうという意識も生まれる。原発には依存しなくてもよい。さらにスマートグリッドを導入すれば、各地域・家庭の消費状態を常にチェックして効率的な配電を行うこともできる。
このような事業を行おうという発想があってもよいのではないかと私は思う。行政体はそもそも何をすべきか。自給自足に近い生業のある民ばかりの世には、武備により山賊の来襲に対抗して民の安全を守り、あるいは相盗を抑える権力機構をもっているだけでよかった。しかし今は、電気ガス水の供給を他者に頼る生活である。それらライフラインを確保することについて、行政体が何かの役割を果たすことも必要なのではないか(水だけは昔からそうだ)。民間でできることは民間でやるべき、官による民業圧迫はまかりならぬ、ということもあろうが、公共性の高い分野については行政体が自ら手を出す場面もあってよい。
高槻市議会には、機械・電子・土木・化学を専門とする議員が各1名、ほかに理学部出身者が1名いる。文系出身者ではそういう技術部門に関する話は無理だとはいわないが、会派を越えて技術屋さんが結集し、新しいアイディアを出すのも悪くない。技術革新が世の中を変えるのは、古くは鉄砲による桶狭間の戦い、近くは蒸気機関やエジソンの電灯、そしてパソコン。枚挙に暇なし。市の提案を了承するだけでは議員ではない。自ら政策を立案し市民生活の設計を進め、そのためのアイディアを出しフィージビリティ・スタディを行う、そんな活動にもがんばってほしいのだ。(黄鶴)

404日 「市会議員のブログ数」
3月末現在における高槻市議のインターネット利用状況を調べました(3 説明責任の果たし方)。
熱心な人は相変わらず熱心で、やる気のない人はそのまま何もせず、それは砂漠の中の一本道を歩くようなもので、風景はあまり変わりません。ただ、全体的にブログの数は増えています。昨年9月以来のブログ総数(全議員の1か月分のブログ投稿数の合計)は次の図のとおりです。(白雲)
ネット利用に関する調査結果を見るたびに思う。ブログの数は、市民に提供する情報の量であり政治活動の規模を示すものである。吉田章浩議員の56、三井議員の37、吉田忠則議員の35というブログ投稿数は称賛に価する。
その一方で、質問はしない、HPは作らない、よって政策提案の跡を確認できない、さらに本会議中にみだりに議席から離れるという議員が複数いる。慨嘆に堪えない。議員の姿がどうあっても当選させる固定的かつ盲目的な支援者の意識を目覚めさせるにはどうすればいいのだろうか。実質を伴わない役者議員を選ぶ浮薄な風はどうすれば止むのだろうか。
私たちは、いまの市民生活の細部を市政に委ね、今後の人生の大筋を国政に預けているにもかかわらず、市政国政に無関心のまま日々を打ち過ごしている。そうして何かを失っていく。憂いは絶えない。(黄鶴)

4月03日 ぶろぐ日曜版 「素戔嗚神社のご神木」
右に安岡寺町、左に松が丘の住宅地を見る坂を上り、原の盆地を抜け、曲がりくねった山道をさらに走ること10分、二股に分かれた道を右に入れば、深い山間に意外なほど大きくぽっかりと開いた空間があり、そこが出灰(いずりは)の集落だ。壮大な陽光の中にせせらぎと鶯の声だけが響く。標高は約280m。出灰に入った芥川の源流は二手に分かれるが、その左側の小川に沿って上った集落の高台に素戔嗚神社があり、ご神木として桂の巨木が立っている(写真の注連縄のかかった樹)。
その位置からして、神社はムラの産土神に間違いない。集落の発祥の時から存在し、里人の願いを受け入れ、集落と共に歴史を重ねてきた神社だ。ただ、説明板があり創建は「灯篭の年号等から元禄頃」としているが疑問だ。手水鉢には「丹州桒田郡出灰村 牛頭天王 享保三戊戌年九月吉日 甚左衛門」と、今から298年前の年号を彫るが、これは鉢の奉納された年であって神社創建の時期ではない。同様に灯篭に刻まれた年号もそうだ。だいたい、もっと奥地に約550年前の一休禅師の尸陀寺があったのだから、より人里に近い場所はもっと昔から存在していたと考えるのが自然だ。300年前に神社の社殿が造られた、というなら理解できるが。
そして桂の木であるが、同じく説明板には「樹齢300年」とあるがとんでもない。少なくともその倍はある。桂はおもしろい木で、まるで家族のように自分の周囲に次世代の木を育てる。そういう目で見ると、出灰のご神木は第一世代が朽ち果て第二世代が巨木に成長して高さ30mになんなんとしている。いや、あるいは第一世代は既に形を失って単なる空き地となっており、いま朽ち果てて残るものは第二世代かもしれない。だとすると、樹齢は1000年に近い。生まれ変わりを繰り返し、1000年の時を経て根を広げ、地上に長径6mの楕円形の樹の集合体を作っているとも考えられる。
ご神木がなぜ桂か。幹の周囲に若木を育てることから子孫繁栄を願う意味があるという説もあるが、私は、遠い先祖の出自を示すのではないかと思っている。桂は加工しやすいことから昔は舟の材料に使われていた。いや、昔だけでなく今もアイヌは桂をチプ(舟)に使う。先祖は海を渡って倭国に来た、そのことを桂の木に語らせているのではないか。素戔嗚尊は渡来神だ。はじめ新羅に天下ったが海を越えて出雲に来た(埴土で舟を作ったと日本書紀にあるのが私の説には不都合だが)。近くには田能に樫舟神社がある。この神社の名前も同断である。また京都の貴船神社のご神木も桂である。舟と桂は縁が深いのだ。ちなみに、もちろん杉や楠で作った舟も古代史関連の文献には登場する。
こんな山奥に舟とは、似つかわしくないとの意見もあろう。しかし信州の安曇野は、内陸に分け入った海人の開いた土地だ。渥美半島のアツミ、安曇野のアズミ、アイヌ語のアトゥイ(海)、すべて同義語だ。滋賀県高島市の安曇(アド)も同じ。古代の民族の移動の跡は意外に広範囲だ。(黄鶴)

401日 「一般質問3/29(続)」
御島媼「大阪維新の会の木本議員が提案する塾代助成のことなれど」
かえで「あらま。昔の言葉に還っちゃった」
御島媼「寝起きはな、いつも夢の続きゆえ、アタマは平安の昔に帰っておる」
かえで「それで、塾代助成がどうしたの」
御島媼「大阪市内では2012年から実施されておるそうな」
かえで「ふ~ん。で、それはどういう理屈で生まれたの?」
御島媼「一回聞いただけではよくわからぬが、木本議員の質問から想像するに、『収入の低い家庭では学習塾に通えない、だから学力が低い、そこで塾代を助成して児童生徒の学力を高める』、そういう論法のようじゃ。学力の低い原因は貧困にあり、よって経済的に援助しなければ、ますます学力格差が広がっていく、とな」
かえで「ぷっ…くくく。あら失礼。そういえば、家庭の収入と児童の学力との間には相関関係があると、どこかで読んだ」
御島媼「うむ。それは事実じゃ。貧困の連鎖は絶たねばならないし、社会階層の固定化は防がねばならぬ。しかしなぁ…」
かえで「ふふ、言いたいこと、わかってるわ」
御島媼「実態認識に誤りがあり、論理も飛躍がある。まず実態認識じゃ。貧困家庭の子は学力が低いと言うがな、認識が間違っておる。子どもの頃から学力が高かった子が成長して高学歴になって、その結果収入の高い職業に就いた…。その子弟がまた遺伝的な要素によって学力が高い、そういう状況ではないかな?実際は」
かえで「そうだと思う。蛙の子は蛙」
御島媼「貧しいから学力が低いと両者を結びつけるのは短絡的思考であって…、表現が難しいが…、学力のないことの要因は他にある。」
かえで「うん。塾に行ったからって、すぐ成績がよくなるわけでもないし」
御島媼「親はなぁ、そうではないぞ。学校よりも塾の方が親切に教えてくれる、我が子は適切に教育すれば立派な成績を取る、我が子の成績がパッとしないのは公立学校の教育が悪いからだと信じている親が多い」
かえで「親ばかね」
御島媼「親ばか、愛すべし。されどバカ親、危惧すべし」
かえで「あはは。初めて聞いた」
御島媼「現場の教師が親の前で真実を言えるわけがない。あなたの子は成績向上など無理じゃ…なんて、口が裂けても」
かえで「そうね」
御島媼「現実の見えない親は幻想を求める。悲しい親心じゃ。その親心あればこそ子が育つ面もあるが」
かえで「ダメだと言われるよりも、本当は良い子だと言われる方があたしだってうれしいよ」
御島媼「ともかく、幻想を求める多くの親は子供を塾に行かせたがる」
かえで「うん。そこんとこね、親の心情、というか真情」
御島媼「そこを見透かしているのが大阪維新じゃ」
かえで「どういうこと?」
御島媼「塾に行かせたって成績がすぐによくなるわけではないことは、大阪維新も先刻ご承知」
かえで「そうかな?」
御島媼「大阪維新は多くの親の心情を理解し、期待に応える政党である、そう親に思わせる必要があって…」
かえで「うん」
御島媼「親の希望に沿った政策を展開する。そのことが維新の勢力を伸ばすことになる」
かえで「そうすると、税金を使って在職中に次の選挙運動をやってるわけ?」
御島媼「そのとおり。現職の強みじゃな。しかし党の主張を民が支持するのだから民主主義が機能しているとも言える。良識を備えない民主主義が愚民政治に堕する好例じゃ。ともかく、誰のための政治か。己が党のためじゃ。」
かえで「府民・市民に対する成果は初めから期待されていない政策?やだなぁ。塾がうるおうだけか」
御島媼「だから高槻市の答弁が面白い。『施策の一つとして認識』しているが『貧困に対しては総合的な施策を以って対処すべき』で、今後『調査研究を進める』だとさ。常識的な答弁じゃ」
かえで「まっとうな考えかただわね」
御島媼「他の市でも維新の議員から提案されているのかと調べてみたが、各市の会議録を検索しても『塾代助成』は顔を出さないねぇ」
かえで「それがフツーの風景じゃないの。税金の使いみちが公教育をスルーして塾に行くって、どうもわかんない」
御島媼「そう思うか」
かえで「はい。みんな見抜いてるんじゃないの?真の狙いは親の願いを利用して党勢拡大を図ることと」
御島媼「どうかなぁ」
かえで「それから高木議員の質問だけど」
御島媼「福井県の原発に何かあれば、高島市民2200人を高槻市が受け入れるとは、知らなんだ」
かえで「芝生、古曽部、堤の3か所の運動公園に2か月だって」
御島媼「ふむ。しかしそれで十分か、心配じゃ」
かえで「聞いてると、市の答弁はおざなりで曖昧な逃げ口上にしか聞こえない。高木議員は具体的な問題提起をしているのに」
御島媼「最悪の事態を想定した最善の対策、これが危機管理の鉄則じゃ。『避難計画がないまま再稼働に走る原発』と高木議員は非難するが、まさにそうじゃな。これでは便所のない家の建築と同じこと」
かえで「甘いわね…。見通しが…」